私は枇杷に二回救われた

私は枇杷に二回救われた

 

★咳が治った話

 表題に書いた「枇杷」は日本の初夏に出る果物で、オレンジ色の皮に茶色の種が入っている。我が家に大きなビワの木があって、今いる家に引っ越してから数年たってから実がなりはじめた。どおって言うこともない味だけど、食べられるんだから食べていた。

 

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葉っぱはガサガサして時々剪定しないと、ベランダに覆いかぶさって厄介だ。ところでこの枇杷に私は救われたことがある。救われるって言っても別に新しい宗教の話ではない。

 

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もうずいぶん昔のことだけど、家族が国外にいて一人暮らしをしていたころの話。 

 

ある12月初め、1日中外に出ていたことがあって、帰ってきてからしばらくしてから咳が出始め、その咳が止まらなくなった。夜中席で寝られず、朝も席が出続け、寝ていることも起きていることもどうにもならなくなり、電車でインフルエンザでも移されたかな、と思って這いずるように医者に駆け込み、薬をもらって帰った。それを1週間のんだけど、飲んでいる間中咳が止まらず、とうとう夜中立ったまま壁に頭をくっつけて咳をし続けた。

 

その時ふとかすめたのが、「枇杷」だった。かつて、兄嫁が言っていたのだけど、枇杷の葉っぱって色々薬効があって、咳なんかには効くということ。其時は特に必要なかったから聞き逃していた。

 

それを思い出して、夜中にベランダに行き、ビワの葉を数枚とった。それをふろに入れて、しばらく沸かしてその中に入った。首と胸のビワの葉を押し付け、それから枇杷をのどに巻いて寝た。

 

その夜私は咳もせず、静かにぐっすり眠ったのである。次の朝目が覚めて、ああ、咳が出なかった、いったい何だろうと思った。それで一日中枇杷の葉をのどに巻いていた。医者の薬も何も利かなかったあのしつこい咳が嘘のように止まった。以後私はビワの葉の効用を不思議に思いながらも、葉を煮込んでお茶を作った。咳は二度と出なかった。

 

以下の写真は最近作ったもの。

 

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でも、この話は10年以上前のことで、しばらくの間、枇杷茶を飲んだりしていたが、そのうち忘れてしまった。

 

★骨折の後で

 

1年半ほど前に、私は駐輪場に入れた自分の自転車を引っ張り出すときに、自分の自転車の上に2台の自転車が重なっていたのを無理にどけようとした。そのとき、のけぞってひっくり返り、仰向けに倒れた。私は背中をしたたかコンクリートブロックに打ち付け、骨折して、救急車で病院に運び込まれ、入院した。

 

退院後、私はずっと発熱に苦しみ、おまけに背中と足の付け根の骨に異常が見つかって、要介護認定1の診断を受け、薬を処方され、週2回リハビリに通い、それ以外は寝たり起きたりの日々を過ごした。

 

記憶力もおかしくなり、世界がぼんやりしていた。人との会話がかみ合わず、話しかけられると、ぼーっとして相手を見ていたりするから、気持ち悪がられた。それでも体のほうは、やっと自転車の前に使っていた三輪車を扱えるようになって、15分くらいの近隣の往復ならできるようになった。

 

ある時、歩いて15分くらいのところにあるマルエツに行った帰り、道に迷った。近隣の道だからどこをどう曲がっても、覚えている道だったが、迷いに迷い、とうとう3時間かけて家に戻った。怖くなり、以後、出かけるのを控えた。

 

運動不足のせいか、腰の痛みが激しくなり、もう、右足の付け根が痛んで片足が動かせず、腰痛は半端ではなかった。その時また思い出したのが、枇杷だった。ああ、枇杷が助けてくれるかも。。。

 

ちょうど枇杷のなる季節で、ベランダから手の届くところになっている枇杷をとって食べた。それから家人に手伝ってもらって、枇杷の枝を下ろし、大量のビワと大量のビワの葉を収穫した。

 

その夜、私は枇杷の葉湯につかった。ビワの葉を洗濯に使う袋に入れ、湯に入れてしばらくたくと茶色の湯になる。枇杷の葉入りの袋を痛いところにあてがいながら、枇杷湯につかった。ふろの湯が茶色だと、汚く見える。でもこれがすごい薬用のある湯なのに、家人が汚がってすぐ捨てる。どんな西洋医学も私の痛みを直せなかったくせに、茶色の湯に入っちゃいけないなんて、困ったもんだ。

 

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その夜、収穫したビワの葉を痛みの激しい腰と足の付け根に張り付けて眠った。

 

なんて言うことだろう。私はその夜ぐっすり眠った。あの痛みが取れ、夜中目が覚めてトイレに行くとき、這っていったのに、無意識に私はすッと立ち上がって、当たり前みたいに歩いてトイレに行った。

 

え?今、私は歩いたぞ?

 

骨折治療後、要介護認定1という結果を受け、自宅の二階に上がる階段に、手すりを付けてもらった。その階段も登るとき、手すりにしがみついて上ったのに、足がすたすたと、階段を上がるのを、私は他人事のように感じた。家の中も外も歩くとき、杖にすがっていたのに、杖なしで自分が歩いている。

 

え?歩いている。

 

驚いた私は、ネットで、枇杷の効用について調べた。

http://www.biwamin.jp/reason/loquat.php

 

 

ワカモルの作り方

これもエルサルバドルで覚えた料理です。

「ワカモル」という、アボカドの料理で、私だけかもしれないけれど、大好きです。実は主人がよく作る料理ですが、今日は主人に教えてもらって、自分で作ってみました。

YouTubeに載せるということ自体が全くの素人のため、内容もたどたどしいですが、興味のあるかたご覧ください。

https://youtu.be/Mtb3FKX50Fw

「古事記」における国名ヤマトの漢字表記について;6

★系図からの検証(2)

 

 このことを確認するために、これも“命”の項と重複になるが、比較の対象になっている継体朝以後、元正帝までの諡号を別表で見ていきたい。

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 上記別表を見てわかるとおり、特に継体朝以後二七代から四四代までの天皇につけられた“上代の天皇の名によく似た”“諡号”は皇位継承者のみについており、傍系には類似した名前を持っているものはまったく一人も見当たらない。似たような実名はおろか、“諡号”をもらった傍系は一人もいない。

 

 もし上代の八代の名前を“諡号”であると考えるならば,上代においては傍系にも反逆者にも等しく“諡号”を与えたのだと考えなければ筋がとおらないし,全家族に、皇位や皇位継承者の直接の生みの親とか,身分の上下無関係の女性にまで“諡号”を与えるということはまず考えられない。同時に全家族に渡って、その名前を後世になってから創作したと考えるのも不自然ではないかと思う。

 

 これらのことから私は現代の歴史学者からその存在を否定された上代の八帝の名を,後世において考案された創造の産物でなくて“実名”として口承によって伝承された人物の名前であると考え,実名として伝承されたからには、少なくともその伝承には,根拠があると考えるのである。 

 

 そしてこの実名の傾向からさらに細かく分類して見ると,第二十七代安閑帝からつけられている諡号群が、特に四十一代から四十四代にあたるところが,上代の一代から九代までの実名に対応している。そして、この表では神代を除外したので明確ではないので、系図1を見てみよう。

 

 これによると,三十四代から四十一代にあたるところは,ニニギの尊以前の高天原時代の神々の名と対応しているのである。そして注意して、特に,三十一,三十二,三十三代の用明,崇峻,推古帝の諡号を見てみると、この上記の八代に見られる一致して神代的な名前から外れており,これが何を示すかを考えれば,安閑帝以下の諡号がいかに統一されているかがわかるであろう。

 

 説明を加えれば,まず、崇峻は諡号そのものをもらっていない。これは欽明帝の庶出の皇子であり,即位まもなく蘇我氏によって殺された帝であり,さらに、史書編纂にあったった天武天皇の系列から見ると傍系にあたる。何とか「橘豊日尊」という諡号をもらった用明帝は,「豐御食炊屋姫尊」という奇妙な諡号をもらった推古帝と同母兄妹であるが,崇峻と同様庶出である。

 

 そして,この二人によって、皇位継承が自分たちの系統から遠のくことになって,危うく皇位を奪い取ったのが,敏達の直系舒明であって,この舒明の即位なくしては,天智天皇も天武天皇も皇位につけなかったという関係がある。

 

 だから、たとえば推古帝に与えられた諡号は,豐御食炊屋姫尊(トヨミケカシキヤ姫)、つまり、大ぐらいの炊事女という意味だが、これは神代的どころか,かなり侮蔑を含んだ名前であって、天智天武の直系の皇位継承者が持っている統一した神代的諡号からはかなりかけ離れた意味を持っている。諡号に一族の思いが込められているよい例である。 

 

 このそれまでになく統一された諡号が何を意味するかということは、すでに命の考察でも述べたが,持統天皇の皇子、草壁の皇子を中心に草壁の皇子をニニギの尊に比定して,その前後に神代的名,つまり、ヤマトネコ系上代の人名を当てたのだと考えられるのだ。

 

 そしてこの草壁の皇子を中心に異様に計算され、建国神話の上代の名前に統一された諡号があらわすものは,継体朝に始まるこの王朝がヤマトとは無関係の新しい王朝でありながら,ヤマトとの関係を異常なほど意識せねばならなかった,ヤマトの名に頼らなければ安定を保てないほど,土台の不安定な王朝であったとも考えられる。またはこの王朝は,継体朝に創始された新しい王朝であるという自覚の元に,一族の皇位継承者に,建国神話の登場人物にあやかった諡号を贈ったとも考えられる。

 

 いずれにしても私がここから導き出すことのできる結論は、

上代八帝の実名と後世の大和朝廷の皇位継承者の諡号の類似は、後世になって記紀編纂の執筆者によって創作されたのではなくて、後世の記紀編纂の執筆者のほうが、上代を模倣したということだ。その理由は、後世創作説を採るときは、以下の疑問にどのように納得できる答えを出すかが問題になってくるからだ。

 

 ①上代の八帝の名が、後世の創作によるというのなら、類似する一族のすべての名も創作によらなければならないが、その必然性は何か。またそのようなことは可能か。

 

 ②持統天皇は、井上氏の指摘する大倭根子天之広野姫尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)という諡号をもっているが、大倭根子天之広野姫が後世的な名で傍線(チ)にあるように、この名前に基づいて上代の八帝の名が作られたのなら、何故に傍系の史上何も活躍していないものにまで、この神聖を強調した名を創作せねばならなかったか。

 

 ③上述の②に関連して、この諡号以外に持統天皇は高天原広野姫(たかまがはらひろのひめ)という諡号ももっているが、此の説に従えば高天原も後世の言葉ということになり、神話言語の大部分が、つまり、アメ、トヨ、ミコト等の言葉も後世の創作ということになるが、その必然性はあるのか。

 

 ④なお、創作者はなぜ自分たちの言語を用いて命名をせずに、自分の一族とまったく関連性のない言葉を用い、関連性のない人名を創作したのか。万世一系を主張したければ、自分の一族の伝統的な名前を用いて、八帝でも、十帝でも、好きなだけ創作するほうが効果的ではないのか。

 

 ⑤問題の持統天皇以後元正天皇までの諡号が出揃うのは、元正上皇の崩御する748年であり、史書の編纂は681年から始まっている。記紀の根幹を成す神話と、それに続く上代の記録が書かれるのは、これらの諡号が出揃って、創作可能になってからでないとつじつまが合わないが、これをどのように説明するのか。

 

 ⑥もし、諡号が出揃ってから創作したのではないのなら、上代の伝説を創作してから、創作した名にあやかって、諡号をつけたことになる。何もないところから創作して、その名にあやかって諡号をつけるための必然性は何か。

「古事記」における国名ヤマトの漢字表記について;5

古事記」における国名ヤマトの漢字表記について;

★系図からの検証(1)

 

系図1

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 私はここまで述べても、邪馬台と大和が“支配者”を異にする、“血縁上”ほとんど関係ないだろうと思われる国であることを疑っているわけではない。しかし、邪馬台国という国がかつて日本の九州あたりに実在したことと、大和がその民族の伝承として抱えている神話のモデルが邪馬台らしいことを密かに考え始めている。

 

 そこで、大和が持っている神話のモデルが邪馬台で、しかも両者が血縁上関係がないらしいということが、歴史上どういう意味であるのかということの追求をする必要がある。ただし、これはこの章の主題から外れるので、(C)に上げた井上氏の説を検討した上で、章を改めて追求しようと思う。

 

  私は一般に流布している「神話から歴史へ」を読んだだけで、井上氏のほかの学説を詳しく知っているわけではない。だから私の理解はこの本から得たものに限られるということをあらかじめ断っておきたい。

 

 というのは、(C)のはじめの文から察すると、この説が歴史の概説のようなもので、井上氏の説というよりは、むしろ、津田氏と水野氏の説を紹介して、解説を加えたに過ぎないようにも受け取れるからである。

此の説は、上代に記録されている神武以下八帝の存在を否定した説であり、その理由として井上氏が挙げているのは、

 

①八代の天皇の名前が後世的であること
②八代の皇位継承の仕方が父子継承であって、それは5世紀の皇位継承の仕方と異なっているし、
③中国の相続法が入ってきた7世紀以降の相続法に影響されていること、の3点である。

 

 ここで私は、この古代の八帝の天皇の名と、7世紀以後の継体朝創始になる天皇たちの諡号とを比較しなければならないので、2章の“命”の考察で述べたことと少なからず重複することを断っておきたい。

 

 なお、再度重ねてお断りしたいのは、私は歴代の天皇の名前を学校教育において暗記させられた世代ではないから、現代の歴史学会でその存在を否定された八帝の名前を聞いても何の感慨も沸かないし、特別な嫌悪感も持たない。井上氏の此の説に初めて接したころは、まったく何の疑いも持たず、反論を試みようなどという考えも持たなかった。つまり私は記紀の研究よりも前にこの本を読んでいるのであって、反論のため読んだわけではないのである。私の疑問はいわば、2章の“命(みこと)の考察”の副産物であって、特別な立場や思想に固執した結果の疑問ではない。

 

 私が(ホ)の傍線に示したように、井上氏はこの八代の天皇の名前が、はなはだしく後世的であると主張される。この八代の天皇たちの名前と、7世紀以後の継体朝に創始される大和朝廷の天皇たちの諡号がはなはだしく似通っていることは確かである。しかし、それは“似ている”事実があるだけであって、どちらがどちらを似せたのかを言う回答をまだ得ているわけではない。

 

 つまり、前後に二つの似たものがあるときに、少なくとも似た原因として二つの可能性があるはずである。つまり、ひとつは井上氏が言われるように、前者は後者の創作による“後世的”なものとする見方と、もうひとつは後者を前者の模倣による“古代的”なものとする見方である。

 

 井上氏の結論、または私がまだ読む機会を得ていない水野氏の結論が、この二つを検討した上の結論なら問題はないが、少なくとも井上氏の文を読む限り、前者を後者の創作による“後世的”な物とする見方しか紹介されていないようである。世の中に本物と偽物があるとき、常識的には後に出てくるものが偽物のはずだが、両方の検討がされないで、はじめから先に出て来たものが偽だという論理は、理解できない。

 

 ここに比較検討している2種類の名前のうち、7世紀以降の名前のほうは、ほかに実名が記録されているから、“諡号”であることは確実であるが、上代の8帝の名前は“諡号”であるか実名であるかということは研究の余地があり、もし実名であるとしたら、この比較は成立しないことになる。諡号というものは死後に贈る名前であって、井上氏が問題にされている7世紀の天皇たちの名前は、明らかに死後に贈られた諡号なのだ。

 

 諡号は本人が死んでから送られる名前で戒名みたいなものであるから、家族の名前と共通項がなくてもかまわないのに比較して、実名は生きている間の名前で、家族の名前と必ず共通項を持つものだ。しかし実名は必ずしも生まれたときに親がつけた名前とは限らない。

 

 例をあげれば、牛若丸も九郎義経も一人の人間の実名であるが、九郎義経は本人が元服のときに選んだ名前である。そして、義経の義は家族の伝統にしたがって選んだ文字で、言い伝えられているところによると義経は八男であったにもかかわらず、叔父の鎮西八郎為朝に遠慮して九郎を選んだといわれている。このように、実名は家族の伝統と密接なつながりを持つ、一族への帰属を表すものである。そこで私は再び、“命”の考察のときに示した別表を見ながら私の論旨を述べたいと思う。

 

 系図の2は、上代の、一代神武天皇(神日本磐余彦彦火火出見尊:かむやまといはれひこひこほほでみのみこと)から六代孝安(日本足彦國押人尊:やまとたらしひこくにおしひとのみこと)までなので、系図3まで目を通して問題の第九代開化(稚日本根子彦大日日尊:わかやまとねこひこおほひひのみこと)までの名前を、史上活躍の記録のない、または犯罪者も、反逆者も、病弱で早世したものも、女性も、取るに足らぬ傍系の人々もすべてを含めて、その名前の傾向を見ながら検討したい。

 

  第二代は綏靖(すいぜい)といい、その本名を神渟名川耳尊(かむぬなかはみみのみこと)という。カムヌナカワミミの名は実兄カムヤヰミミの命、異母兄タギシミミの命、また、孫で皇位継承者ではないオキソミミの命の名と系統を同じくする。カムヌナカワミミは神武天皇の第3子で、異母兄で,庶子のタギシミミの命はカムヌナカワミミが2代天皇に即位したのを不服として、反旗を翻してカムヌナカワミミに殺された王子である。

 

 

系図2↓

 

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  第三代は安寧(あんねい)といい、その本名は、磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまでみのみこと)である。磯城は地名であって磯城の男子という意味だから、名前の本体は、タマデミである。ヒコホホデミノ尊の后トヨタマヒメ、ウガヤフキアエズの尊の后のタマヨリヒメ(この二人は姉妹)、事代主の神の系統のアメノクニタマ、カモタマに共通するタマと、父方四代前のヒコホホデミノ尊のデミとの合成である。カモタマは、母方の祖父であるがこの人物は命(みこと)称さえついていない、無名の士である。

 

 第四代は懿徳(いとく)といい、その本名は大日本彦耜友尊(おほやまとひこすきとものみこと)という。この世代以後オオヤマト、ワカヤマト、ヤマトという名を冠した名前が十三代成務の代まで男女共通の一族の名前として時々出てくるが、その中で皇位継承者となったのは、六代から九代までである。安寧の皇子である磯城津彦の命の姫にヤマトノクニカ姫というのがいて、7代孝霊(こうれい)の側室になっているが、その二人の姫もヤマトの名をもらっていて、八代も九代もヤマトの名を継いでいる。しかし十二代景行(けいこう)の皇子は有名なヤマトタケルの尊、ワカヤマトネコの尊の二人だが、一見皇位継承者らしい名前をもらっていながら、両方とも即位できず、不運の生涯を終える。

 

  第五代は孝昭(こうしょう)といい、本名は観松彦香殖稲尊(みまつひこかゑしねのみこと)である。この名前は、家族に同系統が見られない唯一の名前だが、7世紀の天皇の諡号にも似ていないことは言うまでもない。

 

  第六代は考安(こうあん)といい、すでに述べたが本名は日本足彦國押人尊(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)である。ヤマトの部分を一代と四代からもらい、タラシの部分を母から受け、クニオシヒトの部分は兄と分け合っている。

 

系図3↓

 

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  第七代は孝霊(こうれい)といい、本名を大日本根子彦太瓊尊(おほやまとねこひこふとにのみこと)という。オホヤマトネコは伝統の名に由来し、フトニの部分は傍系の孫、ヒコフトオシノマコトの命に受け継がれている。

 

  第八代は、孝元(こうげん)といい、本名を大日本根子彦國牽尊(おほやまとねこひこくにくるのみこと)という。オホヤマトは伝統の名で、ヒコはこの世代の一族に多く見られる名前の一部である。前述のヤマトノクニカ姫との間の皇子はヒコフトオシノマコト、後継者の九代開化(かいか)は稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおほひひのみこと)であって、その二人の皇子はヒコユムスミノ命、ヒコイマスノ命である。

 

  ところでこの世代には、ヤマトの名を冠した女性が多く記されているが、彼女たちは神に仕える女性たちであった。孝元の異母姉妹のヤマトトドヒモモソ姫、ヤマトトドワカヤ姫、実子のヤマトトド姫がそれである。この事実から考えると、ヤマトの名を冠するということには、特別に神聖な意味があったと思われる。

  これらの家族間の名前の類似は何を表しているのだろうか。この名前は特別な役職にあるとか、地位にあるとかいうことに関係なく、類似が見られるのである。ということはこれらの名を持つ一群は、同族であって、家族の伝統にしたがって名前を選んでいる、つまり、実名であって、死後にその人物の実績によってつけられた諡号ではないということだろう。