naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

防寒帽

「防寒帽」

 

出かけるのに寒いから防寒帽が欲しいと言っていたら、娘が買ってくれた。

でもこれ、怪しいね。

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だいたい、息が苦しいから、事故起こしそう。体調悪いんだけど、出かけてみたくなった。例の世界の制マスクもつける必要ないし、いいかもね。

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「もうこの辺でいいかな」

「もうこの辺でいいかな」

 
 
 私には、今ある状況というものの「自覚」ってなかった。20代だから何をするとか、50代だから何をするとか、80になったから何をするとか、そんな面倒なことをいちいち考えて行動したことがない。
 ある時あるきっかげがあって、物狂おしくスペインに行く気になったから、年齢や年齢に伴う約束事やら、「常識的にこうせねばならぬ」という意識など、まるで考えることなく、スペイン旅行に行く資金を作った。
 あるスペイン系の修道会で、修道会の創立者の書いた本を日本語に翻訳してくれないかという依頼を受けたから、ほいきた!やるぞ、って思って引き受けた。
 私、その時、高校でも大学でも、スペイン語に触れたことがなかった。スペイン語に触れたのは、自宅追い出されていき場所に困って、大学のシスターの紹介でふらりとおとずれたのが、さるスペイン系の修道会が経営する学生寮だったというだけで、それが初めてのスペイン語の接点だった。それからちょっと興味をもって上智大学の成人向け講座で2か月スペイン語を習った。
 ほい、きたやるぞで引き受けたスペイン語の翻訳、1週間飲まず食わず寝ずに頑張って、もらったお金でスペインに旅発った。今思うと、凄いの一言に尽きる。飲まず食わずで引き受けたスペイン語の翻訳、それやったの自宅の物置。自宅は家を建て直すとかで、いる場所がなくなったから、ベッドと勉強机と本棚だけ物置に押し込んで、そこで寝起きしていた。
 で、がむしゃらに、何語も大してできないくせに、ナホトカ経由で共産圏のど真ん中をモスクワから西ドイツまで行った。その間、「何語も知らない状態」と言いながら、英語も、スペイン語も、フランス語も、グーテンモルゲン、ダンケシェンだけできるドイツ語も駆使しながら旅行した。
 やっぱり若いってすごい。
 スペインには、マンモスサイズのすごさを持つ修道女が待っていて、ついたとたんに、「明日からお前、ここの子供たちに英語教えろ」っていうの。「う!」と一瞬思ったけれど、その「あしたから」英語ペラペラのふりして英語教室やったの。まあ、私の場合、絵だの工作ができるから、英語の紙芝居作ったり、ボール紙で家を作って、人形使って、家の構造や生活様式を英語で教えたから、子供たち喜んだ。
 それで1年間スペインを回る資金を得て、スペイン一周。ひとりでね。襲ってくる痴漢をぶん殴りながら。やっぱりすごいんだってね。これ、何の気なしに、ネットの中で話したら、凄いって言われたわ。世の女性、痴漢におびえていないで、ぶん殴っちゃえばいいのよ。さっと後ろを振り返って、アッパーカット。それ常識よね。
 てなことも、若いからできたらしい。今、80。左腕と右足が故障していて、寝たり起きたりしていたら、脳みそもぼんやりしちまって、ネットの中で出会った人たちと、言葉が通じないの。
 グーグルで調べても調べても、グーグル内で出てくるカタカナ語に出あって、それが分からないからまた調べるうちに、何を調べていたんだかわからなくなって、若いのに聞いたら、バカ扱いされちゃって、もううんざり。グーグル検索すれば何でもわかる世代は本の辞典など持ってないんだろうね。私は本の辞典世代でね。カタカナ語ばかりで書くんなら英語で書けよ、あほんだら。つきあっちゃらんないから、もう、やめようと思う。

「上じゃなくて、前を向いて歩こう(^^♪」

  「前後左右上下があって、完全です」

 
 
  私はどうも後ろ向きに歩いているらしくて「前向き」で歩けってよく言われる。自転車で走っているときに、よく朝の散歩で後ろ向きに歩いている老人がいたのを覚えているけれど、なるほどあれ迷惑だね。遠くからだと前向きか後ろ向きかわからないのに、自転車が近づくと、相手は気付かずに、背中を向けてこっちに迫ってくる。あれでも、顔は「前向き」だし、本人が後ろに自転車が来るのに気が付かないだけ。
 
 それでも、前向きがいいかね。あほらしいんだけど。。。
 
 人間は頭も胸も腹も尻も足もあって完全という。頭だけで歩いている人も、胸だけ腹だけ尻だけ足だけで生きている人もいない。後ろのことを無視して前だけ見て歩いていたら、だいたい事故につながる。
 
 プラス思考プラス思考と叫んでいる人がいるけどね、80年生きてきてマイナス体験が何もないなんて、そんなことを平気で言う人がいたら、そりゃただの嘘つき。いろんな体験を乗り越えて今がある。マイナス体験がなかったら「乗り越えた」と言えない。そんな平和は、疑似平和。
 
 「平和」ってねえ、苦悩も戦いも何もないのっぺらぼうの境地じゃないよ。平和の意味をなんか勘違いして「自分に都合悪いことが起きない状態」と考える平和主義者がいるけど、ちょっとそういう平和主義者とは付き合えません。自分に都合悪いことは、あっても見ないようにするのが「前向き」?ばあか
 
 それから「運」の話。まあ、「運」というものには人の人生を司る「神」の存在がない。ぼやや~~んと自分が置かれている状況を「運」という。「運」なんて人格がないから、心して付き合える相手じゃない。
 
 一方「神の加護」「神の配剤」を信じる考え方では主語のない「運」と言う表現がない。それがあるかないかで平和の意味が全く変わる。運、強運、悪運、運気、運がいい、運が悪い、ついてる、ついてないと言う言葉に「神の存在」と言う考え方は全くない。その「運」には人格がない。しかもその「運」というものは人間の意識でどうにでもなるらしいし、だから強運を引き寄せるにはマイナスになる言葉を発するなとか言う。つまり悪運強運を支配するのは人間の意思である。「前向きなことしか考えるな、そうすれば強運が付いてくる」という考えね。
 
 日本文化に表現される「神々」と欧米文化輸入の「『
神』と和訳された存在」と全く違う。
 
 中世日本に漂着したポルトガル人宣教師が訳語に困って「神」を避け、そのまま「デウス」と言う言葉を使ったのは、彼らが日本文化を理解するにつけ正確な訳語が見つからなかったからだ。
 
 日本のカトリックは20世紀末のヴァチカン公会議まで第一原因としてのDeus(ラテン語)God(英語)の訳語として「天主」と言う言葉を使っていたのは、本来の日本文化の神と欧米文化を支える第一原因としての存在が根本的に違っていたからだ。
 
 いつか読んだ本に日本中に祀ってある「神」なるものは「雰囲気」みたいなもので、日本人は雰囲気を神と称すると書いてあった。ありうるが、完全ではないけれど、日本文化における神々が人格化できないことは確かだ。何しろ「ついてる」か「ついてない」かが問われる宗教観に天地を司る神なんてありえないから。GodにはGodの側に意思も、計画もあると信仰されるのだから、人間の側には多分、「信仰」しか求められていない。
 
 新年は、日本では宮参りの季節で、どこでも神社は参拝客で満員らしい。おまけに、あらゆる神社という神社を参拝するらしいしその神社によって、御利益が違うらしい。ご利益は「ごりやく」と発音するが、漢字を見れば「利益(りえき)」である。だから神社によって、その与えられる利益は違うらしい。縁結びもあれば、金銭的な富をもたらす神もある。心配したり疑ったり、「マイナス表現」をすると、その利益は得られないらしい。
 
 眠いのに眠いと言ったり、お腹すいてるから腹減ったと言ったり、金がないから金が欲しいと言ったり、病気がつらいと言ったり、そういうのはみなマイナス表現で、マイナス表現をする奴は危険だから近寄らないほうがいいらしい。つまり、事実であっても口に出しちゃいけないのだから、そういうことを口に出す私みたいな人間は毛嫌いされる。私に近づいたら、邪気が映ると運気信仰者は考えている。
 
 眠いから睡眠時間を求め、空腹だから食料を求め、貧乏だから豊かさを求め、病気だから医療機関を求め、マイナスを脱却しようとしているとき、自分が求める強運が逃げるから近寄るなと言われれば、そういう運気信仰者と付き合っちゃいけないと考えざるを得ない。
 
 前を向け前を向けと彼らは言う。でもね、前だけ向いて歩いて80年の人生乗り切れたと思うのかね。戦いながら祈る、私はそういう人生を歩んできた。

認知機能障害(5)

「エルサルバドル人と日本人の、たぶん習慣の違い」

 

 私は知っているはずの道に迷ったり、記憶が異常だったりすることが重なって、認知機能障害、記憶障害で、つまりアルツと正式に医者の診断を受けた。

 

 ところで、昨日、今年最後のリハビリに行ってその送迎

車の中から、外の景色を眺めて思った。前日までクリスマスムードで金ぴかしていた町が、今日はいきなり厳粛ムードの門松に代わり、町が本来の「日本」に戻っていて、まるで、あの軽薄極まりない金ぴかムードが消えたのが、まさに一晩の変化だという「不思議」。

 

 あのね、これエルサルバドルという国に8年暮らした私にしか見えないことかもしれないけれど、この金ぴかから静粛ムードへの変化は、「不思議」というより「異常」だということ。

 

 私は、わが日本国の医療機関の内科医から、正式に認知機能障害、つまりアルツと診断されたの。

 

 その私が言うんだけど、私は日本で育って過去に身に着けた生活習慣は、現在の記憶力とは別次元で、身について離れないから、時間は守るし、汚れたものはきれいに処置する習慣は消えていません。現在の新しい状況の中で、物忘れは激しくて、他人の言うことすぐに理解できないから反応は鈍くて、あほみたいな顔で相手を見ていて、気持ち悪がられるので、医者のいうこと正しいと思うけれどね、そんなごつったら、エルサルバドル人、国民を上げてみんな認知症よ。

 

 そもそもね、エルサルバドル人に、「記憶する」とか「時間を守る」とか「後片付けをする」とか、日本人が生活上、当たり前だと考えていること、日常生活の中で、全く全然金輪際、どこにも片りんもないです。

 

 日本に来たエルサルバドル人が、「日本人てなんで時間を1秒遅れただけであんなに神経質になるんだろう」「日本中にどこの町でも建物でも、時計が『飾ってあるけど』あれはなんかの宗教だろうか」などと不思議がっていて、そういう自分も、意味不明の腕時計つけてんの。町が一晩でクリスマスの金ぴかムードから影も形も「ゴミ」もなく静粛メードに変化して、しめ縄とか松飾に変化するなんて、やっぱり「なんかの宗教」です。

 

 エルサルバドルのクリスマスの後や、大みそかの朝の町なんて、ごみ以外の何物もなく、散歩する気にもなれません。だいたい、公共の場に「ゴミ箱」なんてないですからね。ぽいぽいひょいひょい好きな時に好きなところで無意識に捨てるのが、「あたりまえ」です。

 

 ということは、もしエルサルバドル人が「認知症」になったら、たぶん症状が出て、急に時間にうるさくなったり、ごみ箱を探し回ったりするのかもしれません。「認知機能障害」というのは、「当たり前のこと」ができなくなることですからね。私にとっては、エルサル人と結婚したために、いつの間にかエルサル化してしまっただけで、病気じゃないかもしれない。とか何とか云っちゃった。

(この文章読むエルサルバドル人はいないと思うので、抗議されないと思うけれど、スペイン語に翻訳しないでね)