骨粗鬆症と記憶力と要介護認定1の話

要介護認定1のはなし

 

実は、自分が昨日描いた骨粗鬆症の話が、すでに1年前にここに投稿されているのを、ふとしたきっかけで知って、びっくりしている。

 

1年前かなあ、2年前かもしれない。骨折で入院して、手足の動かせない状態で、ふろも排泄も人任せで数か月を過ごしてから、いろいろ検査をやって、要介護認定1という「宣告」を受けた。何しろなにも記憶力がない。今やろうとしたことも忘れている。人の顔は覚えているが、名前は忘れている。今言われていることの意味がまるでつかめない。長年住んでいるところのスーパーに行って帰り道を間違え、3時間もうろうろする。

 

それで要介護認定。今、毎週2回リハプラザというところで、リハビリに通っている。幸い文字は読めるし、パソコンなら文字を打てるから、数年間続けているこのサイトにも、毎日投稿している。ただし、投降した内容は覚えていない。特に1年も前の投稿なんか、全く覚えていない。

 

で、昨日骨粗鬆症闘病記を描こうと思って、書いたのだけど、読み返そうとしたら、「関連記事」とかいうのが出てきて、それを覗いたら、同じ投稿があるじゃないの。

 

なんだよ、これ!と思った。まるで、自分の投稿が盗まれたように感じた。で、いろいろめくってみたら、同じ記事が載っていた。こりゃ、本当に「要介護」だわいと思った。記憶力が何もないんだ。FBのどこかの記事に、まるで認知症になった老人が、もともとやっていたピアノを前にすると、記憶力が戻るという話を読んだ。

 

で、私の場合、エッセイマニアだったから、文字を見ると普通に書けるけれど、記憶力はまるでない。ひとりで散歩なんかできない。憮然としている。

信仰は己だけのものだよ

信仰について

 

「信じる」と言うことは良いことだ。

信じて自分の心を、自分の体を、自分の人生を、

創造主にゆだねる。そっと己の心の中で

 

ところで

信じさせると言うことは危ないことだ。

信じることを強要するということは犯罪の影が漂う。

あることを信じる集団がおなじことを信じない集団を武力を持って滅ぼすことを世界戦争という。どうも白黒つけたいらしい。

白が黒を。。。

その武力が惑鎮に変貌しているらしい噂を聞いた。。。。

神に感謝。主に栄光

「古事記」の虚像と実像2

    ★「騎馬民族征服王朝説2」-「白村江を失ったことの意味」 

 北朝鮮の歴史学者、金錫亨氏はその著作「古代朝日関係史」の中で述べている。そこから私が理解したことの要約。

 

1)朝鮮半島に任那と呼ばれる地名も白村江も存在しないし、存在したことがない。


2)古代において、支配被支配関係があったとすれば、それは朝鮮が日本に対してであって、その逆ではない。


3)古代日本が朝鮮を支配したという歴史は、近世において明治時代に日本帝国主義者が改竄したものである。


4)日本書紀に記録される朝鮮関係の地名は、実は日本国内にあったもので、古代朝鮮が日本に進出して、ちょうどイギリスがアメリカに侵略して「York→New York,Jersey→New Jersey」などと自国の地名をつけたように、植民地化した日本の国内に、朝鮮の地名をつけたのだ。

 

 雑誌「古代文化」創刊号記載の対談、「辰王朝に倭国王の出自を探る」で語る江上波夫の説の引用。

 

   「辰王はもともと外国からの流移の人で、馬韓人   でも辰韓人でも弁韓人でもない。そして外来者であるため、王になるには必ず馬韓の人の認証を必要とするというころが書かれている。実際には王位を世襲したということは書いてあるから、王朝をなしていたので、それがすなわち辰王朝、辰朝で、それが三国時代の百済王家に続いていることを、扶余隆の墓誌が示唆しているように思える。

 

 そしてその辰王朝の子孫が倭へ入って大和朝廷を開いたのが天皇族で、天皇族の起源伝承のうちに扶余=高句麗系の開国伝承が含まれていることから、逆に天皇族イコール辰王朝の扶余=高句麗系を推定したのです。

 

 そうすると、倭国の天皇族も辰王朝、百済の王家も辰王朝で、ともにさかのぼっては「高句麗と同源に出た」ということになる。そうすれば、倭国の天皇族と百済の王家といずれが本家で、いずれが分家かという問題が当然起こってくるでしょう。これは非常に重大な問題だと私は考えます。というのは、それは単に両王家の問題だけではなく、両国国家の宗主関係にも重大なかかわりを持つ問題だと考えられるからです。

 

 ところで、その問題を考えるのに、手がかりとなるものが、私には二つあると思われます。

 

 その第一は、三韓時代(馬韓、弁韓、辰韓)に存在したと伝えられる唯一の王朝たる辰王朝の宗家が三国時代(百済、加羅、新羅の時代)に加羅(任那)に都したことがあるとすれば、そこが任那ー古代朝鮮語で「王の土地、王の国」の意ーと呼ばれたのがよく理解できるが、それに対して、もし百済の王家が当時辰王朝の宗主であったとすれば、百済王が都しなかった加羅が、なぜ「王の土地」「王の国」と呼ばれたのか理解しがたいこと、

 

 その第二は<倭の五王>が中国の南朝に使いを遣わして、百済を含めた南部朝鮮五国(後の六国)宗主権を執拗に要求したことです。

 

 つまり、辰王朝が、弁韓に移ったと思われる時期から約一世紀たつと、日本の国情に大きな変化が起こってきます。すなわち、河内、南摂津に根拠を置いた東北アジア系の騎馬民族が日本に統一国家を建設し始める。

 

 彼らは直接には南部朝鮮の加羅(任那)からまず北九州の筑紫に渡来し、さらに4世紀か5世紀の初めに、瀬戸内海を通って、河内、南摂津に進出してきたもので、しかも、その騎馬民族は、南部朝鮮の大部分の支配権を失い、微力になって、弁韓、すなわち加羅(任那)だけを保持するようになった辰王朝の子孫を中核としたものであったというのが、私のいわゆる<騎馬民族征服王朝説>ですが、これはすでにご存知の方も多いと思います。

 

以上の引用から私が理解したことの要約。

 

1)高句麗系の辰王朝が、加羅に都して朝鮮南部に勢力を張っていた。だから加羅は任那(王の土地)と呼ばれる。


2)この王朝は百済の王朝と同族で、本家、分家の関係にあり、加羅(任那)に都したほうが本家であったと考えられる。


3)その本家のほうが南朝鮮で勢力を失い、日本に押し寄せて大和朝廷を創始した。

 

☆「金鍚亨氏の問題提起について」

 

 これは私がこの研究を始めたときからの信念だが、資料というものは、それがいつ誰に、どういう意図でかかれたものであろうとも、ある「事実」を基にして書かれたものであることは否定できない。

 

 この意味で、金鍚亨氏の問題提起も、日本の古代の史書である「日本書紀」の存在を基にして、その「反論」を書いたものであって、「反論」に問題があっても、その内容をたどっていけばある事実に突き当たる、という意味において、大切な資料である。

 

 つまり、資料は「事実」そのものとは言わないが、ある「事実」の反映であることは確かである。神の存在を否定するも、肯定するも、神の概念が存在するから議論が成立するのであって、人間の心の中に、概念さえも存在しなければ議論にもならないのと同じである。

 

 反映があるなら反映の実体もある。8世紀の資料を明治帝国主義者が「改竄」したとしても、改竄の理由を追求し、改竄の効果を追及し、改竄する人間のメンタリテイーを追及していけば、必ず改竄される前の実態が現れる。なぜなら、「ないもの」を改竄する必要がないからである。

 

 そして、同時代の資料が二つの国にまたがって存在し、一方に書かれた資料が、他方にかかれていない場合、書かれた資料が常に「でっち上げ」とはいえない。同時に書かれていないほうに、書きたくない事情があったという可能性も課題として考えなければならない。

 

 公害の記録が公害を出した工場と被害を受けた患者のほうにあって、一方では簡素に、一方では多少大げさに記録してあったとしても、患者の記録が「でっち上げ」で工場の記録が正しいということにはならないのと同じである。工場のほうに、詳しい記録を避けたい事情があっただけである。

 

 原爆の記録を知っているアメリカ人は少ない。日本にはまだ患者が苦しんでいるにもかかわらず、アメリカの一般市民は、原爆投下は悲惨な戦争を終結に導いた英断であったという「誇り」を持っている。原爆投下を人類の罪と考える側の記録と、「誇り」と考える側の記録を比較してみれば、歴史の真実のみならず、人間というものの精神構造も解明するであろう。資料はそのために利用すべきであって、存在さえも否定するところに、何も進歩を生まない。

 

「日本書紀」を通読すれば、どういう思想の持ち主だって、任那の記録を無視しては、古代日朝関係を論ずることができないほど、任那という地名は古代日朝関係の根幹を成していることがわかる。「日本書紀」はフィクションではなくて、れっきとした史書である限り、根拠のないものをあれだけの紙面を割いて記録することは無意味である。

 

 ところが、任那は朝鮮側の資料には、多く現れない。だから、任那は「存在しなかった」と朝鮮側の学者は主張する。

 

 ところで朝鮮側の資料というものは、12世紀以降のものである。しかも、すでに日本の史書である、「日本書紀」の存在を知っているものの筆になる資料だという。つまり、「日本書紀」のいたるところに散見する「任那」の記録を知っているものの筆になる。それが、「日本書紀」の記事を批判したり、否定したりするのではなく、「任那」について触れなかった。これは「在るもの」をあえて「無視」した態度であって、「ない」から書かなかったのではないだろう。

 

 現代の朝鮮歴史学者が任那は「なかった」と主張する」まさに同じ心理的状況によって、「無視した」に過ぎない。

 

 日本の学者が日本の資料のみを頼りにし、日本が資料を残せなかったような3世紀のころ、中国の資料に記録された「邪馬台国」の存在を疑うのと同じ態度で、朝鮮の学者は自国の資料が残せなかった8世紀のころの日本の資料を、12世紀の自国の資料にないから「ないのだ」という。

 

「任那」に関する記述が日本にあって、朝鮮にないのは、日本の側に事実を拡大して主張するための事情があり、朝鮮ではこれを抹殺しなければならなかった事情が、「任那」を巡って展開していたということを示していると私は考える。

 

 それは「任那にあった日本の植民地が、白村江の敗戦によってなくなった」というような単純なものではないだろう。もしそういうことならば、日本は朝鮮にとって「侵略者」であり、「外敵」である日本を追い出した側の朝鮮は、記録することを惜しむ必要はなく、むしろ、多少大げさにでも、今の中国がやっているように、「侵略者の日本を駆逐した」ことを記録してもよいはずである。日本があれほど情熱を込めて、朝鮮は属国だったと主張しているのだから。

 

 それならば、それほど日本が居丈高に主張し、朝鮮が抹殺しなければならない状況はどんな状況でありうるか。

 

この疑問に答えるのが、江上波夫氏の「騎馬民族征服王朝説」である。

 

    ★「騎馬民族征服王朝説」の疑問と推定

 

私は、すでに述べたように、江上氏の説に100%同意するわけではない。しかし、この説は、多くの真理を含んでいて、私が「アメ」の意味範囲の研究以来持ち続けている疑問を一挙に解決してくれそうな説である。
 
 江上氏の研究の結果わかった、古代朝鮮半島の民族の動きが、古来、深いつながりを持っていた日本に、多大な影響を及ぼしてくるのは当然であろう。しかし私が今また強調したいのは、「朝鮮南部の大部分に勢力を失って、任那のみに勢力を残した辰王朝の子孫を中核とする」一団の人々が、日本にやってきたとしても、それは日本全土の「征服」という形とは思えないということである。もし、「征服」なら次の問題の説明がつかない。

 

1)なぜ、国号を「辰」とせず、「ヤマト」にしたか。


2)なぜ王朝の出身を隠し、営々現代に至るまで、出自が朝鮮にあることを拒もうとするのか。


3)なぜ皇室は古来、「本国」朝鮮に対して、威丈高な態度をとり、「朝貢」を促し、「征伐」という形の戦いを挑んだか。


4)なぜ、「任那」に関する記述が朝鮮側の記録にないのに、日本側の記録には、これが古代日朝関係の中心のように扱われているのか。


5)崇神なり応神なりが、「ヤマト朝廷」の創始者ならば、なぜ、自分の系図が始まる以前の系図に「ヤマト」を名前の上に冠した一族の系図を連ねなければならなかったか。


6)なぜ創世神話において、皇室の祖先の発祥地を「加羅」なり「扶余」なりにせず、「九州の日向」にしなければならなかったか。

 

問題は複雑である。記紀を筆録した王朝が異民族であることは、江上氏の研究による朝鮮半島の民族の移動と、それに伴う日本の古墳出土品の変化から証明できるばかりでなく、私の研究結果である言語の異質性からも傍証しうる。

 

それなのに、系図をさかのぼれば、崇神からは十代、応神からは十五代、継体からは二十六代続いて、万世一系ということになっている。

 

筆録された上代の用語と漢字の表記の間には少なからず意味のずれがあり、しかも研究によって確かな、言語の中に現れる八母音というのは、史書編纂時代だけである。

 

朝鮮に関する記録は常に敵愾心に満ちた態度で書かれていて、決してそれは「祖先」や「兄弟国」に対する態度ではない。

 

記紀は同時代の同内容の記録であるが、前者は和語で、後者は漢文で記録されていて、政府が史書として扱ったのは、「古事記」ではなくて、「日本書紀」のみである。「古事記」編纂に効のあったはずの稗田阿礼は「古事記」の冒頭に出てくるだけで、伝えられている帝記を暗証させてから、筆録したという、意味不明の記述があるのみである。

 

江上氏の研究を参考にして、私はこれらの疑問を私は以下のように、結論付ける。

 

1)辰王朝が南朝鮮の大半の支配権を失って、「任那」のみに本拠地を残して漸次日本に移動し始めたころ、日本の九州のある地域に「ヤマト」と名乗る宗教国家が王朝を開いていた。(邪馬台国)

 

2)辰王朝が南朝鮮に勢力を張っていたときから、日本の「ヤマト」朝廷と姻戚関係にあったか、またはこのとき初めて姻戚関係を持ったかは、その時期に関しては定かではないが、とにかく「ヤマト」と姻戚関係を持ち、「ヤマト」を立てなければならない立場で持って、辰朝とヤマトとの両方の皇統を継ぐ形になった。

 

3)これは、大陸に対しては「任那」に本拠地を保持し、「倭」を制圧した辰王朝の顔をしながら、日本国内に対しては「ヤマト」直系の神聖な大祭司になりすますという二重の性格を持つに至らしめ、国号を「倭」と書いて国内では「ヤマト」と読ませる二股政治を可能にした。

 

4)しかし現実は、「本拠地」においては、分家の百済のほうが勢力が強くなり、かつ中国側に、それを認められているにもかかわらず、大陸向けの「倭」は「辰王朝」の顔を強く押し出し、百済に朝貢を促し、百済の宗主国としての権威を主張し続ける。

 

5)この「辰・ヤマト」王朝が「辰」を名乗らず「倭」と名乗っていながら、百済の宗主国としての権威を主張するところに、この王朝の弱みがあり、中国(この時代の中国は複雑なので、仮に大陸のことを中国と称す)に認められない理由もあり、この王朝に、焦燥と恨みが生ずる原因にもなる。

 

6)ところが、本拠地を留守にした二股王朝の「辰」の顔にとって、運命的なときが来る。それは「白村江」の敗戦によって、朝鮮における「本拠地」を失ってしまったことである。

 

7)つまり、この「任那」という土地は日本の「ヤマト朝廷」という純粋な日本人の国家が「進出」して奪った「植民地」ではなくて、「ヤマト」の皇統にもぐりこんだ「辰朝」の故郷である。

 

8)ここで問題なのは、もともと「ヤマト」に対しては立場の弱い、「辰朝」が「辰朝」の本家として大陸側に主張のできる唯一の根拠である「任那」を失うことによって、二股王朝の中に残った一方の「ヤマト」後継者としての正当性を全面的に押し出さなければならなくなったことだ。

 

9)「ヤマト」はもともと血統を重んじる神聖国家で、その純粋性は名前から察すると、ワカヤマトネコヒコオホビビの第九代開化天皇で終わっている。しかし、田舎暮らしの遠縁の「ヤマト」関係者を引っ張り出して姻戚関係を結んでまで、辰朝の末裔が血統を継いだから、大陸に対する居直りをするためには、この「ヤマト」の神聖性をできるだけ強調し、現在の王朝の正当性と朝鮮に対する優位性を全力を上げて主張する以外になかった。

 

10)だから史書の編纂は国家を挙げての大事業であり、ここに、事業の計画は立ったのだが、言語系統が違い八母音族だった彼らは、皇統を合理的につなぐための過去の資料を理解することができないという問題にぶつかる。そこで本来の「ヤマト」伝承を理解するものを登用しなければならない必然性に迫られるのだ。

 

11)そこで、「ヤマト伝承」に詳しい、もしかしたら、ヤマトの血統をひいているかもしれない吟遊詩人の語り部だった稗田阿礼を探し出し、漢文を受け持った学者、太安万侶に筆録をさせる計画を立てる。

12)こうしてできたのが「古事記」であるが、これを台本として、漢文体の正史を編纂したのが、「日本書紀」として後世び残ることになる。

 

13)ところで、「ヤマト伝承」に詳しい稗田阿礼は真実を知りすぎている男であるから、この男に関してはなるべくその存在の痕跡をとどめないように配慮する。

 

14)一方、朝鮮半島に居残った辰朝の分家百済は、倭を名乗ってヤマトにもぐりこんだ本家を、本家として認めることを嫌い、本家を海の中に追い出して自分が本家として納まった歴史を記述するのを避けて、任那の記述は一切しなかった。

 

これは「騎馬民族征服王朝説」という江上氏の仮説を元に、私が結論に導いた私の「仮説」である。

 

    「出自を隠す意味」

 

とにかく記紀の成立の秘密は後世の研究者の物議をかもす結果となって、諸説が飛び交って面白いのだけど、王朝の出自という問題が現在にいたるまで両国の争いの火種になっていて、解明を急ぎたい思いにかられる。

 

朝鮮が当時,いかに強大な軍事を持った先進国であったとしても、辰朝が日本にやってきたときは、「朝鮮で勢力を失って」「任那のみに本拠地を残して」やってきたのであって、馬首並べて戦陣を敷いて,元寇のような形で押し寄せてきたわけではない。いわば、敗残者として、おそらく馬そのものも失って、王としての誇りだけを持って上陸したに違いない。一方、上陸地日本は、男王の武力よりも女王の鬼道によって治まっていた不思議な国である。卑弥呼が死んだ後も、やはり国を治めたのは13歳の女王台与の力である。神秘の横行する国である。

 

朝鮮における敗残者とは言いながら王としての誇りを持ち続けた辰王が、その誇りにふさわしい地位に着くとしたら、この神秘的ヤマトの神秘を受け入れる以外になかっただろう。かくして辰王は、ヤマト王朝の神秘の座に居座ることになる。

 

しかし任那は空白である。王が本拠地を離れれば、そこはもう本拠地とはいえない。陥落は時間の問題である。実質ともに支配権は分家の百済に移る。倭王となった辰王はこの現実を認めない。誇りだけを持ち続けてフラストレーションを起こす。百済をうらみ、罵倒する。百済は着々と抜け目なく、中国から半島支配の権利を承認してもらうところまでこぎつける。倭王の辰王は苛立ち百済を脅迫する。

 

任那は陥落する。倭王となった辰王は、すでに朝鮮半島からの勢力をいっそうされてしまい、いまやただの「倭王」でしかなくなる。辰王でもあったときの「倭王」は「倭」の事実上の制圧者としての誇りがあったから、「倭王」でもよかった。しかし、「倭王」のみになってしまったら、国号の「倭」は不名誉である。「大倭」でも「大和」でも音が同じで落ち着かない。とうとう日の本、「日本」を名乗ってみた。あきれたことに「日本」も「ヤマト」と発音させてしまった。

 

さて国を追い出された辰王は、フラストレーションに耐えかねて、史書の編纂を思い立った。その史書は二面の顔を備えざるをえなかった。ひとつは神聖ヤマトの直系の王としての,そしてもうひとつは辰王の名を隠しても、権利だけは主張してやまない、百済の宗家としての顔である。

 

現代朝鮮の学者にとって、「日本書紀」はずいぶん癇に障る書物であるらしい。金鍚亨氏は彼の研究書「古代朝日関係史」において、「日本書紀」の日朝関係に関する記事はほとんど、後世の「でっち上げ」で、日本が朝鮮を侮辱するために歴史を改竄したのだと主張する。真実は朝鮮のほうが日本に進出して植民地を開いたのであって、大和朝廷が支配したという百済や新羅は日本国内に朝鮮人が自分の故郷を模して建てた植民地国家の名前で、朝鮮半島内の国名ではないと主張する。

 

日本の古代国家の建設にさまざまな民族が貢献しているのは事実であろう。また朝鮮半島人が貢献の中心になっているもの事実であろう。しかし、その貢献の仕方が、19世紀になって、西洋の各国が世界各地を植民地にして支配したのと同じような仕方で持って、古代朝鮮が、日本に進出し、植民地国家を建設して行ったというのは、無理ではないかと思う。イギリスがアメリカ大陸に渡って、自分の故郷をしのんで、ニューヨークや、ニューオリンズを建設したとしても、たとえば、古代中国はその征服地に、故郷の名を付けていない。時代も人種もメンタリテイーも違うのに、歴史の型を同じと解釈するのは,早計である。

 

また、日本がたとえ、朝鮮を侮辱するために、歴史を改竄したのだとしても、侮辱するためには侮辱するための歴史的理由があるはずである。改竄するなら改竄するための必然性が説明されなければならない。それが歴史家のすることであって、古代の歴史の記述にいちいち、腹を立てていたら、古代史の解明はできないのである。

 

なお、日本と朝鮮の間には海があり、倭王武の上表文にも、「海を超え」という表現がある。倭王武は古代日本の王朝の一人であり、日本の古代王朝を築いたのが金氏の説によれば朝鮮人ならば、この倭王武も朝鮮人のはずである。これが日本国内における朝鮮の故地の名にちなんで植民地国家を百済なり新羅なりと呼んだとしても、朝鮮人は一度渡った日朝間の海の存在を忘れ去るというのもおかしな話だし、海峡や川を「海」と考えたと考えるのも無理がある。

 

そして最後に私は指摘したい。金氏の説自体の中に自己矛盾を含んでいる。

 

日本の朝廷は、朝鮮人を祖としているということを金氏は明記している。そしてその皇室が長い間血族婚を繰り返して、日本の「原住民」とはほとんど交わっていないのは記録上明らかだ。だとしたら、彼らは純粋に「朝鮮人」である。そして「改竄」の必要がある時代は、八世紀と明治時代のみである。日本書紀は明治時代より前にできており、改竄が行われたとしたら、八世紀のほうでなければならない。その他の時代に、天皇家が朝鮮を相手に交渉を持つほどの勢力を持ったこともないし、したがって、他の時代には天皇家を中心に、朝鮮を侮辱しなければならない必然性がない。だとすれば、改竄したのは八世紀であって、朝鮮人自身である。

 

朝鮮人を侮辱するように改竄したのは、後世日本人の勢力が強くなってからの仕事であると金氏はいう。しかし、朝廷は明治時代に至るまで、藤原氏をはじめとする渡来貴族との血族婚を繰り返して「日本人」が朝廷において、勢力を盛り返したためしがない。政治的に「日本人」が実験を握ったのはおそらく鎌倉武士の政治が始めてであろう。鎌倉政権には「天皇の利益のために」記紀を改竄する必要はまったくなかったはずである。

 

その上、「日本書紀」が8母音民族の編纂になることは、8母音の発見がこの時代の資料に基づいていることから考えても明らかである。後世の偽書だとしても、その偽書さえも書いたのは8母音民族である。「日本書紀」が朝鮮人を侮辱しているのだとすれば、侮辱したのは朝鮮人(現代語でも8母音)自身でなければならない。

 

日本の学校教育で教える日本史では、日本の国風文化は、平安時代も末期に近くなってから、しかも、「女房」によって芽をふき始めたと教えている。しかもその「国風文化」を支えた「女房」は高級貴族ではなくて、高級貴族や皇族の子女の家庭教師の役についていた、家格の低い女性たちである。政治を担う男性は中国大陸の文化摂取に忙しく、知識人は漢文に通じることを学問と心得、公文書も日記さえも漢文で書いた時代なのだ。「国風文化」が育ち始めたのは菅原道真が遣唐使を廃止してからであり、また、宮廷の子女の教育のため、女性が教養を高めたこと、「ひらがな」が女房文字として発展したことから、「国風文化」は女性の側から出てきたということになっている。

 

このこと自体に異議はないが、ひとつの点が何か伏せられているような気がする。菅原道真が遣唐使を廃止したという事実が何を物語るものか、明確ではないが、これは純粋に男性の世界の政治現象ならば、その結果、「女房」の世界に「国風文化」が芽ばえるということが奇妙である。男性は依然として漢詩文に熱中していて、遣唐使廃止の事実が男性の側の文化習慣に何の影響も及ぼさないのは、どういうわけだろう。おまけに、その「女房」も下級貴族の出身のものばかりで、第一級の高級貴族(つまり多分8母音族)からはでてこない。

 

私の疑問は以下である。

 

この時代が、いかに「国際的教養」が重んぜられた時代とはいえ、日本国内で「国風文化」つまり「日本語の」、または「自国語の」文化が芽をふいたのが、女性の側からで、しかもヤマト建国から数世紀も経ないと出てこないということってありうるのか?どこの国だって、「自国の文化」が初めにあって、それから「国際文化」が取り入れられるのであって、国際文化が先に来て、自国の文化が後に来るということはありえないのだ。この時代の「国際文化」とは8母音族にとって自国の文化ではなかったのか?そして後に来て見直されたのが、土着の文化ではなかったのか?

 

国家としては万世一系だのヤマトは「日の本の国」だの、かなり今で言えば国粋的なことを豪語していて、政治の実権を握っていた8母音族は漢語を使っていたという事実をどう見るか。

 

アメリカに敗戦してアメリカ一辺倒になった現代でさえ、インターネットによる世界中の情報の渦の中にさらされながら、日本で育った純粋な日本人にとって、英語で日記を書くことは困難である。英語は日本人にとって、ものすごく覚えにくい言語である。なぜか?母音の数が違うからである。日本語の母音は「あ い う え お」の5母音しかない。だから英語の外来語を日本語表記するとき、例を挙げれば「bus ,bath, birth,」 は「バス、バス、バース」と表記せざるを得ない。さらに子音に至っては日本語の中にない発音があって、とくに「s, th」「 r , l 」「 b , v」 の違いを納得できない。ただそれだけのことを克服できないから、日本人は英語に出会って1世紀経っても英語をマスターしないのだ。

 

だから私が言いたいのは、言葉とはそういうもので、「国際文芸」が先に来て、「国風文芸」が後に来るということは常識的にはありえない、もともと4,5母音民族が、8母音を使いこなす時代が一時的に来るということはありえない、ヤマトの皇統が3世紀から9世紀まで続いていることもありえない、記紀の時代、記紀編纂を担った為政者が、8母音言語を「自国語」として使っていないと、この問題は解明できないということである。

 

「古事記」は和語で書かれているが、公文書として公認された書物ではない。編者の一人である稗田阿礼は史上に足跡を遺していない。その「古事記」は長い間日の目をみないところにおかれていた。

 

では「万葉集」はどうだろう。万葉集は和語だけれど万葉歌人の中心は人麻呂、家持、赤人という皇族でも貴族でもない下級の、政治の中心から外れた人々である。

 

この状態はまるで、公文書を必要とする為政者にとって、和語は自国語でなくて、漢文こそ自国語であったような感さえある。つまり彼らは漢詩漢文を「教養として」修めたのでなく、和語ができなかったから、後世の人々に「国際的」と呼ばれた民族だということになる。

 

これらの事実を先ほど引用した金氏の批判とあわせて考えると、「日本書紀」が日本人の手になる歴史の改竄であったという彼の説は疑問である。

 

「朝鮮を侮辱する」と金氏が断定するのは、金氏が近代の両国関係を念頭においているからである。明治以来日本が西洋と対等の独立を維持するために、西洋の列強が有色人種の諸国に対して行ったと同じ事を朝鮮、中国に対して行ったことは歴史的事実である。日本には押し付けるべきキリスト教も、特別な技術もなかったから、1000年も前の古代史の記録を引っ張り出してきて利用し、時の政府との交渉の中で、朝鮮を併合したのも事実である。歴史的にいって、どの時代のどの民族の相克の歴史においても、「正義」などが存在しなかったことも事実であろう。

 

すばしこく力が強く、時勢を読むのに敏感で、悪賢いやつが常に勝つことになっている。たとえ古代史において、金氏は言うように、古代朝鮮が日本に植民地を築き、朝鮮が皇室を簒奪して礎石を築いたのだとしても、それも「正義」ではありえない。「正義」があったら出自をひたがくしにしたりしないだろう。現代史においても、アメリカが世界制覇を遂げたからといって、アメリカが起こす戦争に「正義」などありえない。

 

歴史家が古代の歴史を解明するのに、正義が問題外の政治に正義の主張をするのは無意味である。歴史家の仕事は真実の究明であって、正義感によって、正義の定義に合わない古代の事実を抹殺することではない。

 

現代史において、日本が朝鮮や満州を併合したのが不正なら、ソ連が東欧各国を併合支配し、イギリスが香港を支配し、戦勝国がよってたかって、朝鮮やドイツを南北東西に分けたのも正しいわけがない。戦勝国だからといって、この60年間の間に、世界中の有色人種を相手に内戦を起こしたり、直接間接に戦争に手を汚してきた欧米諸国と、その60年間まったく一度も戦争をしなかった日本と、どこに道徳的差があるのだ。(年代の数字は、この記述をはじめに書いたころのことで、ドイツもソ連も、現代は変容している。)

 

それが大声で喧伝されず、日本が60年前の戦争中に人を殺したことばかり喧伝し、それを古代史の解釈にまで及ぼすのは、ナンセンスである。それは多分批判する側の有色人種コンプレックスにより、植民地を築いたり、他国を侵略したり、言いがかりを付けて他国にミサイルを発射したりする権利は「白人」にしかないと思っているからに過ぎない。戦争は人を殺すものであって、ドイツがユダヤ人を殺したのは「戦争」によるわけでなく、国内政治により政策として行ったことである。戦争によって人を殺すのと、政策によって人を殺すのを比べたら、どちらがより非道かわかるだろう。それでもなおかつ、日本人は第二次世界大戦の中で行った戦争行為に関して60年間謝罪を要求され、イギリスもアメリカもドイツの戦争行為は誰も非難しないのは彼らは白人だから人を殺す権利があると信じられているからである。とにかく、こういう世界の事情を古代史の解明に当たって持ってくるのは、正しい態度とはいえない。

 

    ★「出自を隠す意味」2

 

歴史には必ず、原因と意味が隠れている。出自を隠すのは隠さねばならない歴史的事情があるからである。記紀が朝鮮人を侮辱している書物であると朝鮮人が感じるなら、その記述を偽者呼ばわりする前に、なぜこの書物に侮辱的内容が含まれているのかを解明するのが歴史家の仕事である。

 

記紀は個人の日記ではない。ひとつの王朝が、天武からは五代、王朝の創始者の継体からは十八代もの年数をかけて、練りに練って書いた記録である。それが朝鮮民族に対する敵愾心に満ちている。裏には敵愾心を煽り立てた歴史的事情があるに違いない。洗っていけばいくほど、朝鮮民族に対して敵愾心に満ちた正史を編纂した王朝は、当の朝鮮民族が中核となっている可能性が散見する。

 

朝鮮民族に不名誉なことを書いたのは純日本人に決まっていて、純日本人は後世にしか活躍しなかったから、したがって「日本書紀」は偽書である、という論法は成立しない。

 

江上氏の「騎馬民族征服王朝説」は東アジアの民族の移動と相克の歴史に関する限り、真理であろう。そしておそらく、朝鮮が先進国であって、その先進文明を携えてやってきた人々が古代日本の建国に貢献したという金氏の説も真理であろう。

 

しかし、この二人の学者の難点は、第一、古代の日本をまるで無人の境のように考えていて、未開のためにまったく国家を形成できる状態になかったと断定していることである。もしそれが真実なら、もともとつながらない歴史をつなげて見せるような面倒なことをする必要がない。中国の資料にある「邪馬台国」を思わせるような紛らわしい「神話」を「捏造」する必要もない。「捏造」だの「偽書」だのというけれど、どんな人間も自分自身、自分の一族、自分の国の利益のために「必要」がないのに、うそをつかない。

 

第二に、武力や先進文化は、いついかなるときも万能で、それさえあれば武力など無きに等しい、文化の未熟な国の一つや二つ、簡単に征服できるはずだと断定することである。

 

17世紀、西洋のキリスト教徒は世界各地に進出し、蒙昧なる「野蛮人」の文化宗教を滅ぼし、「キリスト教化」したことになっている。しかし、その「キリスト教」はその世界各地のどの民族の中でも、その民族の土着の宗教を土台として、「変質」している。

 

私はラテンアメリカの地に暮らして、カトリックの教会に出入りしたから知っている。かの地の「カトリック」は民族の宗教であったマヤの神々の「土台」の上に成り立っている。カトリックの布教者は彼らの神殿を破壊し、その礎石の上に教会を立てた。そしてその「礎石」は皮肉にも、彼らの「精神的礎石」として生きている。彼らはマヤ教のメンタリテイーによって、カトリックを受け入れ、マヤ教のメンタリテイーによってカトリックを理解した。彼らの「民族の精神」はまったく無傷である。

 

    ★「結論として」

 

「事実」はひとつしかないだろう。その「事実」の究明のためにわれわれに残されているのは、遺跡などの「物的証拠」と日本の「記紀」、中国の「魏志」、朝鮮の「三国史記」「三国遺事」である。物的証拠や諸文献に食い違いが見られるとき、どちらかを完全否定していいものではない。与えられたすべての資料から、ひとつの事実を引っ張り出さなければならない。

 

1)ヤマト朝廷は天照大神を祖に戴く九州出身の王朝である。


2)同じ九州に卑弥呼と称する女王の支配する邪馬台国があった。


3)朝鮮において、馬韓、弁韓、辰韓という国があった。そのうちの辰韓の王朝は歴史上から消えている。


4)「魏志」によると倭国に大乱があった。


5)「記紀」の記述を調べてみると、天皇の系図に少なからず操作が見られる。


6)8世紀前後の日本の為政者の手になる「記紀」の言語が土着の言語とは質をことにする。


7)日本各地の古墳等から大陸の影響の濃い、または大陸渡来の遺物が出土する。


8)記紀筆録の時代、記紀編纂を担った皇室を中心とする一団は、言語に8母音を持ち、土着の言語より大陸の言語習慣と表現力を持つ異民族を主体とした集団だったらしい。


9)この異民族かもしれない王朝は飛鳥白鳳の時代から現代に至るまで、出身をひたがくしにし隠し続けている。


10)その一族は、途中何回か簒奪されながら、決して絶やさなかったことがある。それは、ヤマトの神々を祭ることである。


11)ヤマトという国家は「血統の濃さ」そのものよりも、ヤマトの土着民を支える「精神的故郷」として「精神的万世一系」をついで来た。


12)その「ヤマト」は「邪馬台国」である。血統も権力も消えてしまった古代の女王国である。その「実像」は「ヤマト」の精神によって、神々の国に昇格し、したがって地上からは完全に姿を消してしまった。


13)「虚像」の方は「神話」の中にではなく、異民族によって簒奪された、「ヤマト」とは読めない「大和」として数世紀にわたって生きてきた。


14)今は多分、その実像も虚像も、靖国神社あたりに生きている。(完)