「古事記」における国名ヤマトの漢字表記について;2

2)国号の違いと言語の違いに関する疑問

 

★支配層と被支配層の言語の違い

 

 “天”の考察においても“命(みこと)”や“神”の考察においても、私は日本書紀編纂にあたった為政者、つまり一度断絶した皇統を女系によって何とかつないだことになっている,継体朝直系の一族を中心とする政府の言語と、天照直系の伝承を持つ神武から少なくとも景行までの一族の言語とは、異質なのではないかとの疑いを抱いてきた。(つまり、支配者と被支配者の民族が同じではない可能性)

 

 これは日本書紀編纂にあたって、和語に表記の規定を行った編纂者の和語に対する理解と、実際に使われている和語の意味範囲との間に、少なからず、ずれがあることに気づいたからである。そしてそれは単なる言葉のずれにとどまらず、実名の命名法にもずれがあり、今またここで国号の変遷の歴史の中にも、このずれが見えてきているのである。

 

 毎日新聞社出版の“古代日本語の謎”の巻末にシンポジウムが載っていて、その道の多くの専門家、つまり言語学者をはじめとして、歴史学者、考古学者、作家などの、古代日本語に関する対談が記録されている。

 

 この対談の内容から、私は多くの知識を得た。よく知られている橋本進吉氏の説、つまり、7,8世紀の日本語には現代日本語の5母音に対して、8母音あったという説が紹介されるが、これを受けて大野晋氏はこの8母音時代をさらにさかのぼると、母音の数は4つだったという説を紹介している。ところで、韓国人作家の金達壽氏によると、日本の奈良時代に在ったという8母音は、朝鮮語にとっては特に研究対象にすることではなく、現代だって、そのまま朝鮮語は8母音なのだそうである。

 

 つまり奈良時代、日本書紀筆録時代、和語の漢字表記決定時代の言語は、古代の4母音、ひらがな発明以後の5母音の言語に挟まれた、ほんのわずかな時代の8母音言語であるといえるだろう。言い方を変えれば、和語はもともと4,5母音の少数母音から成っている言語で、日本書紀筆録時代の8母音言語は、本来の和語とは異質の言語であるということになるのだ。言語が異質であるということは、言語を発する人種が異質であるということにほかならず、私が“天”の考察以来抱いている疑問は、母音の問題からでも同じ方向を向いていると言わざるを得ない。

 

 いったい、8母音言語を使っていた為政者とはどのような為政者であったろうか。それは、“阿麻”を“天”と表記がえし、“命”を荘厳な称号に変え、“ミコト”に“尊”の文字を与えて、“神”と同格にし、草壁の皇子を神格化し、一族の皇位継承者のみに神武朝伝統の諡号を贈り、蔑称「倭」を自称しながら、国内向けには“ヤマト”の音にこだわった為政者である。

 

 その為政者の性格を以下に整理してみる。

 

①言語に8母音を持ち、“ヤマト”と名乗る4母音語族を支配している。

②大陸から見た蔑称“倭”の表記には無神経で、“ヤマト”の実質に対する誇りよりも、“倭(わ)”を支配することに国際的誇りを持っていた。

③つまり、この為政者は土着の“ヤマト民族”ではない。8母音を持った朝鮮半島人である。

④“ヤマト民族”宣撫のために、内部または外部からの勢力による争いの中で断絶した“ヤマト”の皇統と婚姻関係を結んだかもしれない。または、実際には関係を結ぶことがなくても、“ヤマト”の皇統の正当な後継者を名乗って、国内向けにはあくまでも、“ヤマト”の皇統が健在であるかのように見せかけた。

 

 万世一系はそれを必要とする民族性を宣撫するための創作であろう。7,8世紀の為政者は、おそらく被支配者や、残存ヤマトの勢力がヤマトの伝承を大切にしているため、ヤマトと名乗る王朝の存続を信じさせないと、王権の座を保持できないほど、少数の勢力だったと思われる。ヤマトの王朝を存続させて、国内を宣撫するというこのやり方は、20世紀の第二次世界大戦に敗れた日本の天皇制を存続させて、日本を宣撫支配したGHQの支配の方法とまったく類似している。

 

「古事記」における国名ヤマトの漢字表記について

1)「国名の表記と発音の矛盾の追及」

★倭、大和、日本はすべて「やまと」と読む

 

 記紀の表記を研究するにあたって、古代日本の国号“ヤマト”は見落とせない。そしてこの“ヤマト”なる国号の表記も政治的に重要な問題を含んでいるように思われる。なぜならば“倭”も、“大和”も“日本”も習慣や教養から離れて読めば、ヤマトなどとは読めない表記である上に、表記が3つもありながら読みが変わらないという不思議な事実があるからである。

 

 読みが変わらず表記だけが変わったということは、国が変わらず、国名が意味する内容と、その国名を名乗る為政者の意識が、歴史的変遷を遂げているということである。

 

 そもそも訓読みなるものは、漢字の読みを和訳した読み方であって、WHITEと書いてホワイトと読まず、“シロイ”と強引に読ませるやり方である。それと対照的に音読みのほうは、そこから表音文字の五十音が生まれてきたように、“波”とかいて”ハ”と読めば意味は伴わないが、訓読みで“ナミ”と読めば海の波を意味する。(この場合の“ハ”は漢字熟語の音読みを意味するのでなく、あくまで、ひらがなの前身としての“波”のことである。)

 

 このような意味では、“倭”も“大和”も“日本”も、すべてヤマトと読む場合、表音文字の訓読み漢字であって、音読みではどう考えてもヤマトと読めるものは一つもなく、“倭”は“ワ”、“大和”は“ダイワ”、“日本”は“ニッポン”である。“日本武尊”は素直に読めば“ニッポンブソン”であって、“ヤマトタケルノミコト”と読むのは無理である。

 

 この表記は日本書紀のほうのものだが、古事記の表記は“倭健命”である。これも音読みにすれば“ワケンメイ”であって、記述の“日本武尊”と同じように読ませるのは考えてみれば無茶である。このような無茶は為政者だからできるのであって、為政者が、無茶を通すときには必ず政治的な思惑あってのことであると考えるのは当然である。

 

 ここには必ず政治的意味があると私が思うのは、表記改革の不合理さが、国名という国家にとって重要な案件にさえ見えるからである。それは波を“ハ”と読ませたりする程度の単純な意味ではなく、天を“アマ”と訓じて“アマ”の意味範囲を規定したような、ある効果を意図した意味である。

 

 不思議なことは、ニッポン国は古くから、ヤマト、ヤマトと呼ばれてきながら、素直にヤマトと読める国号を表す漢字は肝心の日本国内にひとつもないことだ。これはいったい何なのだと私は思った。国名でなければ九州地方に“山戸”“山門”という文字で表される地名があって、ともにヤマトと読むのだそうである。しかしこの表記が国名になったことは一度もないし、政治的問題を検討するほど重要な地名とも思われないので、ここでは扱うつもりがない。

 

 そしてひとつだけ、どうもヤマトと読めるらしいのは、通説や常識で「ヤマタイ」と読み慣わしている、かの有名な“耶馬台”である。しかしこれは日本側の自主的な表記ではないし、“耶馬台”をヤマトと読むのは学会でタブーとなっているらしい。だから、ヤマトに関して検討すべきは一応認証を受けている“倭”、“大和”、“日本”のみである。

 

 この3つの国号の推移と、決して変わらぬヤマトという読みについて検討しながら、ふたたび不思議な事実に私は気付いた。それは漢字記載による国号変更は大陸向けであり,ヤマトという読み方に固執するのは国内向けであるということ。 

 

 この事実が意味するものは“倭”、“大和”、“日本”と大陸向けに国号を変更していった政府は、文字の読めない国内の民衆には、自分こそいつも代わらぬ“ヤマト”だと主張しているということ。一方、文字の読める中国にとっては、“ワ”、“ダイワ”、“ニッポン(ジッポン>Japan)”という3つの国号を持つひとつの国があると考えることには無理がある。これは中国にとっては、とりもなおさず為政者の交代、王朝の交代を意味していたと考えるほうが理にかなっているのではないかと私は考えた。

 

 大陸向けに“倭”なり“日本”なりを名乗った政府は、その読みについては中国に任せてあって、日本側の特別な断り書きをつけていたわけではない。“倭”という文字は、中国にとってはあくまでもワ、またはそれに近い発音であったはずである。同様に“日本”もヤマトではなく、ジッポンに近い発音をしていたことは、これが語源となって後に日本は“ジパング”としてマルコポーロに世界に紹介され、それが現在の西洋各国が呼んでいる、ジャパン(英米語)やヤパン(ドイツ語)やハポン(スペイン語)になっていったことから見ても明らかなことだ。

 

 私がこのようなことを特記するのは、国号を“倭”とか“大倭”とか表記してヤマトと発音することを主張する以前に、中国に対して自国の国号の発音を明確にしていた国が日本の国内にあったからである。


  それは中国側の文献に“耶馬台”と表記される、かの有名な幻国家であるが、2,3世紀に漢や魏に朝貢した“耶馬台”は、少なくとも自国の国号の発音を明確にしたから、中国側は中国側の通称“倭”と併用させて、表音文字としての“耶馬台”を記録に載せたということになる。“倭”という国号を併記したのは、それが中国側の文献だったからで、日本側は自発的には“倭”という国号を使っていないのである。“倭”は古代日本人(2,3世紀、九州を中心とした人種を仮にこう呼んでいいとすれば)の好むところではなかったらしく、ヤマタイにせよ、ナ国にせよ、マツロ国にせよ、国号の発音を中国側に向けて明らかにしているから、中国側の文献に表音文字が記されているのだ。

 

 当時の日本人は自作の文字をもたなかったから“倭”と名乗りたくても名乗れなかったという説がある。しかし私には、中国に朝貢していた政府筋のものが、文字の存在さえ知らなかったとは思えないし、もらった金印の文字も読めなかったと考えるのは非現実的なことだと考える。

 

 また、古墳から発見される鏡が、大陸製か日本製かを見分ける決め手として、日本製の鏡の文字は、“文字になっていない”といわれるが、果たして国産の鏡を作るにあたってモデルにした大陸製の鏡に記された文字が、文字であることも知らず、まったくの模様と考えていたかどうかということは疑問である。当時、精巧な模様でさえも正確に写すことのできる腕を持った職人の多くは、大陸からの渡来者であったはずだ。その職人が文字のところだけは正確に写すことができなかったと考えるのは、不当のような気がするがどうだろう。

 

 ★日本の国号に関する諸説の検証

 

 原田大六氏が、その著書、“実在した神話”のなかで、鏡は日迎えの役割をしていたと述べておられるが、それならばその文字みたいなものは日本製の呪文を表す記号であったかもしれない。いずれにせよ、文字のまねをしたが形にならなかったという説明は再検討を要すると思う。

 

 ともかく、例の“耶馬台”は“ヤマタイ”に近い発音をして国名を明らかにし、中国側に“耶馬台”と表記させることに成功した。“倭”などとは、自ら名乗ったことはないのである。

 

 古代日本には国号が二つあったと見る向きがある。雑誌“東アジアの古代文化”創刊号に、“5世紀までの中国、朝鮮の古典に現れた倭”と題する井上秀雄氏の文がある。私の扱う問題と交差する部分があるので以下に引用する。

 

 “まず倭を考える場合、それが民族名であろうと国名であろうと、従来は、日本人の自称という考えから出発した。しかし、このような発想法は次に述べるように事実に合わないし、倭を最初に使用した中国人の立場から見ても、その必然性はない。むしろ最初の国名や民族名は、自国、自民族による命名と考えることが、かえって不自然ではなかろうかと考えた。国名は対外的な名称で、区別する必要があるのは自国でなくて他国である。特に国際社会に参加の送れた日本は、先進国の中国や朝鮮での命名を拒否する立場になかった。今日でも国際的な接触、たとえばオリンピックなどでは、日本というよりジャパンというほうが多い。このように、倭が仮に日本だとしても、倭の名称が当時の日本によって命名されたと考えるのは、かえって不自然なことであろう。

 

 このことを傍証するものとして、日本では古来、自国の名称をヤマトと言ってきた。これは口伝えの固有言語であったらしく、“日本書紀”編纂当時でも、大和、大倭、日本などと、さまざまな当て字を使っている。

-中略-

 

 このように見ると、当時の国号は少なくとも2種類あって、外交上使用される国号と国内で用いられる国号とに分かれている。国内的な国号はその地方の住民が自分たちの存在理由を示す宗教的聖地-中略-の名を国号としていた。しかし、それは国際的な場では理解されない名称であるため、中国人や近隣諸国で通用している国号を用いたのである。”

 

 この引用の内容は、井上氏の論文全体の趣旨ではない。しかし、私が特にこの部分に焦点を当てるのは、国号に関する私の主張と交差する部分があるからである。

 

 私には、この論文の中でどうしても理解できない論理があるのだ。“倭”が日本人の自称の国名ではないという結論には賛成である。しかし氏は“最初の国名や民族名は、自国、自民族による命名と考えることはかえって不自然”としながら、“倭”が自称ではないことの傍証としては、“日本では古来自国の名称をヤマトといってきた”というのだ。これは氏の側の混乱をあらわしているのではないかと思う。  

 

 なぜならば、その「ヤマト」こそ氏のいう“最初の自国の命名”による国名であって、国際的に自称の「ヤマト」を国名として主張できない理由は何もない。これについて氏は“国際社会に参加の送れた日本は、先進国の中国や朝鮮での命名を拒絶する立場になかった”と説明する。しかし、4,5世紀の“倭”よりよほど小国であり、弱小国であった、その勢力範囲も全九州にさえわたっていなかった、かの“耶馬台国”は、自国の国号を“耶馬台国”と主張したのではなかったか。

 

 海を越えて朝貢に来た小さな見知らぬ国の使者に、どこからきたかと聞くのが常識的で、初めからお前は“倭”からきたのであると決めてかかるほうが異常であると思うがどうだろう。

 

 心理的にいっても、弱さを自覚した国であればあるほど、または、自国の尊厳を他国によって傷つけられたような過去を持つ国であればあるほど、自己主張が激しく自国の名称にこだわるものである。かつて自国の尊厳を日本によって踏みにじられた朝鮮半島の人々は、日本人に“朝鮮人”と呼ばれることを嫌悪している。そして中国人は“支那人”と呼ばれることを嫌悪している。朝鮮も支那も、その言葉自体にはいかなる軽蔑的な意味も含まれていないし、支那という名は英語のチャイナという名称の同語源の言葉で、秦の始皇帝の国名から派生したものである。チャイナなら国際的名称として現在でも自ら名乗ってよく、シナならいけないというのは、彼らの日本という国に対する自己主張であって、経済大国に遠慮する意思などはじめからないのだ。

 

 そして、蝦夷が大和民族に蝦夷と呼ばれたのは、彼らが自分のことを“エンジュ”と呼んでいたからで(大野晋“日本語の起源”参照)、本来の民族名は小民族であろうが小国であろうが、本来自称から出発しているのである。

 

 そして中国人が日本人に「シナ人」と呼ばれることを嫌悪し、朝鮮半島人が「朝鮮人」と呼ばれることを嫌悪するのは、それが両国人にとって蔑称と響くからである。アメリカ人にチャイニーズとよばれて嫌悪しないのは、それが蔑称と聞こえるような関係を過去に持っていないからである。国際的に自国の名称が主張できない弱小国だからではない。  

 

 ところで“倭”は明らかに蔑称である。これが日本人にとっても中国人にとっても蔑称であることが意識されていたことは、“倭”が“大和”としての国家形成時代に、“日本”に生まれ変わり、それを中国側にも主張したことで明らかである。なお、2,3世紀の九州の国家が自国の名称を“耶馬台”と名乗って“倭”とは名乗らなかったことから見ても、別称を拒否できない立場にあったはずがない。

 

 “親魏倭王”の耶馬台国、“漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)”のナ国は、その印の文字を読めなかったわけでもなかろうから、中国側で自分たちが“倭”と呼ばれていたことは知っていたはずだ。それでもなおかつ“ヤマタイ(ヤマトと読むことも可能)”と名乗り、“ナ”と名乗った。後進国であり、戦乱で引っ掻き回されている小国であり、国際的にはそれこそどんな立場といえるような立場も持っていなかったはずの,“鬼道”によって政治を行う野蛮国が、中国に対して“ヤマタイ(ト)”と名乗っているのである。それも、“倭”をヤマトと読んでくれなどという態度でなく、中国側の筆録者が“耶馬台”という表音文字を記録しなければならないほど明確に“ヤマタイ(ト)”と発音したのだ。だから中国側に“耶馬台表記”で知られ、耶馬台で通じたのである。

 

 中国側の受け取り方はよくわからないが、朝貢当時の耶馬台は、九州の連合国の盟主であって、“倭”の中の一小国“耶馬台”ではなくて、連合国の代表を自覚しての朝貢であったろう。それが“倭”を名乗らず“耶馬台”を名乗った。対外的に、国際的に、恐らく日本国内でと同様、その名に誇りを持って。

 

 ところが、5世紀の倭の5王も、7世紀の大和朝廷も、国際的には国号を“ヤマト”とは名乗らなかった。“耶馬台”の記述を最後に、“ヤマト”と発音し得る可能性を持った日本の国名は、中国の文献には現れないのである。倭は“ワ”であり、大和は“ダイワ”であり、日本は“ニッポン”である。“ヤマト”の名称は国内だけで、まるで国民を宣撫するかのように、ひそかに発音され、それも“日本”の音読みにつられて日本はヤマトを離れて日本(ニッポン)になってしまい、大和は忘れ去られていった。

 

 現代の日本が“日本”と自称し、国際的には“ジャパン”として知られているときの“日本”と“ジャパン”は、“倭”と“ヤマト”の関係とは違うはずである。ジャパンは何ら蔑称としての意味を含んでいるわけではなく、“日本”がなまった発音、日本→ジッポン→ジパング→ジャパンと変化した発音に過ぎない。訳語でさえもなく、英語言語族は“ジャパン”の意味はわかってさえいないだろう。

 

 もし“倭”と“ヤマト”になんらかの関係を比較できるとしたら、それは“ジャップ”と”日本”だろう。ジャップはジャパンの縮小形であって、言葉そのものは蔑称ではない。しかしこれはアメリカの白人が有色人種の日本人を侮蔑するために使った言葉であることはよく知られたことである。だから日本が自ら“倭”と名乗ることは、自ら国号を“ジャップ”と名乗ることと同様であって、国際的に後進国であったからといって、否、国際的に後進国であったからこそ、蔑称を国号にするということはありえないことである。

 

 日本が白人諸国に徹底的な打撃を受けていた終戦直後に、日本は国内的にニッポンといい、国際的に“ジャップ”と名乗ることはあり得ただろうか。原爆投下のパイロットに勲章を与えた日本の佐藤政権でさえ、国号を“ジャップ”にする気はなかったようである。

 

 国単位ではなく、個々の人間の心理からいっても、自分が劣勢にあるときのほうが自己主張が強く、自分の尊厳にこだわるものである。自分に劣等感を持っている人間ほど繊細で、何でもない言葉でも軽蔑と受け取っていきまくもので、まして自ら蔑称とわかっている名を名乗ったりはしない。

 

 同様にこのことは国単位でもいえることで、後進国だからといって国際的蔑称を自国の国名として用いたということはありえない。“倭”という蔑称を国号として用いた政府は、何らかの理由で、国号に対して無神経であったか、ヤマトという名にそれほどの執着を持っていなかったかのどちらかであろう。その無神経さにも執着のなさにも、必ず政治的問題が隠されているはずである。

 

続々々 昔はまっていた「古事記と」いう書物をもう一度振り返る

4)「記紀神話研究から現代の世界情勢を思う4」

 

 私に記紀神話研究のきっかけを作った生徒は、結論を見ずに卒業して行った。私は卒業前のSさんに、私は必ず研究を続けることを約束し、Sさんも協力を約束して別れた。その時はすでにSさんは、自分の出自に正面から向き合い、研究の対象として冷静な目をもって洞察できる学生に成長していた。実に47年前のことである。

 

 しかし現代の日朝韓闘争は、卒業した生徒達とは無関係の、新しく受け持った生徒達にも浸透していた。問題はこちらのほうが根深く、学問的研究などという範囲をまったく逸脱していた。

 

 あるとき、担任をしていたクラスの生徒の母親から、電話があった。

 

その電話は以下のごとき内容であった。

 

 クラスのある生徒が同級生のその娘に、「お前は朝鮮人だ」と言って「侮辱」した。うちの娘は朝鮮人ではないし、そういう噂がたてば、お嫁に行くにも差しさわりがあるから、侮辱した生徒に注意をしてほしい。娘はショックのあまり、学校に行けないと言って泣いている。

 

 ということであった。昭和50年代、「朝鮮人」という言葉は「侮辱」だという感性を実は私は持っていなかったが、20年歳下の生徒には、そういう感性があったのだ。生徒に韓国、朝鮮籍の生徒を持ち、日本人を侮辱するために使われる「悪口」が、「朝鮮人」なら、相方を傷つけないために、なにを言ったらよいのか。私はかなり、当惑した。

 

 ところが、未だ別の当惑を感じさせられた、別の生徒の発言もあった。それはさらに年下の生徒の発言であった。私が古典の授業で「枕草子」を扱っていた時のことである。私が枕草子の時代的背景について説明をしていた時、何代目の天皇という言葉を聞いたある生徒が、手を挙げて立ち上がり、抗議していう様、「先生はなぜ、『天皇陛下』と敬意を持っていわないのですか?」というのだ。私は明治以後の天皇の話をしていたのでなく、「枕草子」の背景として関連の年表を読んでいただけである。

 

 私は別に天皇蔑視の精神で、三条天皇陛下とか、一条天皇陛下とかいわなかったわけでなく、だいたい枕草子の時代は「みかど」と言っていたのであって、江戸時代以前の天皇に「陛下」という称号はないから言わないだけだ。と言っても、どういうわけか、その生徒は不信感をあらわにして納得しなかった。

 

 記紀神話研究前の私には、「天皇崇敬」の裏に「朝鮮蔑視」がある意味を理解していなかった。そして、どうしてその時代の高校生に、そういう精神が遺伝しているのか、理解できなかった。そして同時に、「天皇崇敬」と「朝鮮蔑視」の精神をセットそして持った高校生の価値観が、あの異常な先輩後輩の「力」の支配につながるのかも、わからなかった。

 

 実は私が学生として育った時代は、「谷間」なのだ。私の世代は、そのようなたぶん本来「日本的」な精神が、何もわからないように、意識の外に置かれるように配慮された教育を受けた希少な世代らしいのだ。小中高大学を通して、私の時代には先輩後輩という言葉さえもなかった。後輩が先生に対してより先輩に対して敬語を強要されるということが全くなかった。あれは、たぶん、借り物のバタ臭い「民主主義」が行われた唯一の世代だったのかもしれない。

 

 日本が戦後経済力を得て国力を盛り返し、自信を取り戻して以後の世代は、「本来の日本精神」(そこに理論があろうとなかろうと)が鎌首を持ちあげたのだろう。私にはそうとしか思えなかった。

 

 外国の「文化」を摂取した後、それを日本化して行くことは本来の日本のお家芸である。しかし、摂取するのは「洋才」のみで、精神文化は「和魂」でやっていくというものお家芸である。その「和魂」を私は、記紀の研究と同時並行的に分析せざるを得なかった。初めは「否定的に」、そしてだんだん「肯定的」に。

 

 「和魂」に論理は不在である。「論理的な魂」など、元々世の中に存在しないのだ。そしてあらゆる歴史的「行動」は、「論理」によってでなく、「魂」によっておこされる。それはむしろ「衝動」と言ってもいい。論理や理性は衝動を食い止めるほどには強くない。

 

「民主主義」はそれを始めた国の国民にとって、「論理」であるか、「魂」であるか、それは知らない。だいたい、民主主義とは、キリスト教の精神と同じく、ほとんど実現不可能な高邁な精神らしく、私は、いわゆる「民主国家」を掲げている国家が、「民主的」とは到底思えない。ならば、それは日本人にとってだって、実現不可能な理論なのだ。日本人は世界中のあらゆる「理想」や「理論」を理解する知力はあるが、日常における実践とは、無関係である。その「高邁な精神」を押し付けてきたアメリカ国民でさえ、実践なんかしてないのだから。

 

 しかし私は、少なくとも、われわれ日本人が理論不在の「和魂」の上に生きているという事実を自覚して生きることを望む。外来の理論や正義や宗教によってではなく、建国以来持ち続けた理論不在の、「すめろき」を神とする価値観を魂として生き続けていることを、受け入れないとしても、宗教無関係に少なくとも「理解」していてほしいのだ。

 

 そういう私だって、欧米由来のカトリック信者であり、矛盾は百も承知である。しかし日本人は、何信者であろうとも、魂の奥底に、古代から営々と遺伝してきたある特殊な価値観を持っていることは否めない。と、私は思う。

 

f:id:naisentaiken:20210510155208p:plain


 

続々 昔はまっていた「古事記と」いう書物をもう一度振り返る

 

 

3)「記紀神話研究から現代の世界情勢を思う3」

  

 後になって私は、かの宗教集団を脱退し、ある高校の国語教師となった。その高校は、三井の一族が趣味で建てた学校で、特に帰国子女を受け入れることを看板にした、国際的な学校であった。

 

 その時に私が担任をした生徒の中に、一人の韓国籍の子供がいた。英米日中韓混淆の国際的集団で生活したことのある私にとっては、もとより、生徒の国籍がどこにあるなどということに、偏見も、特別な思いもなかった。

 

 ところが、高校全体で、夏休みにキャンプをしたときのことだった。そのキャンプはバイブルキャンプという名目だった。キャンプについてきた学校の理事長が、いろいろな国々の学校の話をしながら、私のクラスのその韓国籍の子に、話しかけた。

 

「あなたも韓国人なら、自国の韓国に、愛国心をもっているでしょう?」

 

 その言葉はごく自然で、別にまったく何も問題発言ではなかった、と、私は感じた。そんなことを感じる以前に、私はその言葉にさして注目していなかった。

 

ところがその時、かの韓国籍の子供が、一人でおいおい泣き出したのである。

 

 え、なんで?と私はいぶかしんだ。そこまでなら、私が彼女に個人的に話し合って、問題にならないうちに収拾することができたであろう。問題は、周りにいた日本人の生徒達の反応とその反応に対する私の言葉から、こじれたのだ。

 

 そのSさんという韓国籍の子の友人達が一斉に立ち上がって、理事長の言葉に抗議をし、友人のSさんを取り囲んで慰めにかかったのだ。「あなたは韓国人なんかじゃないよ。日本で生まれて日本で育って、もう、私たちと同じだもの。あなたは日本人よ。韓国人なんかじゃない!」

 

 よってたかってそう慰めにかかった彼女達は、理事長さんが怖いものだから、その代わりに私に詰め寄った。「あまりひどいと思います。Sさんが韓国人だなんて、先生がそんなこと言っていいんですか?」「そんなこと」って「韓国人という言葉は差別語かよ」当惑して私は変な気分になった。

 

 韓国人のSさんは「韓国人」と呼ばれたことで、泣き出し、友人達は韓国人のSさんが「韓国人」と呼ばれたことに憤慨し、Sさんは日本人だ日本人だと、当の理事長にでなく私に詰め寄るのだった。私には訳が分からなかった。

 

 理事長はいつもは職員会議で、日本人離れしたアホみたいな言葉を繰り返していた人物だったが、その時彼がSさんにいった言葉は、彼にしてはまっとうな言葉だと私は思っていた。「自国に愛国心をもっているだろうということに、どこに問題があるのだ?」と私は詰め寄る生徒に言ってみた。そうしたらある生徒が、「先生も大人気ないです。泣いている生徒に追い討ちをかけるんですか?」という。韓国人と言われて泣いた韓国人だって、日本人の友人達だって、明らかに私よりそっちのほうが差別的に「韓国人」をとらえていた。

 

 私が、教師になる前に入っていた国際的な修道院で、出会った韓国人は、日本嫌いで自国に誇りを持っていた。逆に日本人だというだけで、私は彼らの攻撃の対象になっていた。

 

 私の出身家族は、満州で暮らしたことがあり、中国朝鮮人に対して、まるで差別の意識を持っていなかった。彼らが日本人であるべきだなんて全く考えていなかった。だから、自国に誇りを持つことは誰にとっても常識であると考えていた。戦後何年たっても一般の日本人の意識下にある、差別意識に私は無頓着であった。だから、私には、この生徒達の反応が理解できなかったのだ。

 

 私は日本人として生まれ、日本人として日本の国土に育ちながら、たぶんカトリックの家庭で育ったため、「民族差別」という日本の現状を知らなかった。

 

 だから、韓国人といわれて泣いた生徒を前にして、このとき私は、かつて、国際的団体の中で経験した「自国に誇りを持つ韓国人が、日本嫌いとセットに、その誇りを保持している」という状況を、初めて不思議に思った。「韓国人」といわれて傷つき、「日本人と同じ」といって慰める、そのことの異常さを、初めてその時、「歴史的に」解明したいと考えた。

 

「これは、研究の価値がある!」

 

 おりしも、私が担当していた古典の教科書に、古事記の一節が載っていた。私は教科書に何かの一節が載ると、教授資料というものを見ないで、原典に中り、研究書を読み、その一節が書かれた背景や状況を把握するのに、時には10冊ぐらい読み漁る。その時もそうしているうちに、古事記の記述を解明することが、Sさんの問題を解く鍵になるのではないかという思いに至ったのだ。

 

 「一緒に古代史を研究しよう」、と私はSさんに個人的に持ちかけた。相手が泣いたからと言って、うじうじと気持ち悪い生徒指導などしたくなかった。現代に至るまで、こじれにこじれている日朝関係の原因を、古代史に求めることによって、別の心の展開があるだろうと、私は、そういう形で、彼女が世界の中の自分を見つけることを狙ったのである。

 

 私は担当の高校2年のクラス全員に、「古事記」の戦前の扱い、戦後の扱いを説明し、その変化の根拠を一緒に研究しようという名目で、協力を求めた。古事記の一節から古事記成立の背景から、そこに秘められた、日本と大陸との関係に至るまで、みなで一緒に研究を始めたのである。

 

 私は、古事記の記述されている人名を記述に従って、長い長い系図をつくり、同時に、古事記に記述されている地名を書き込んだ地図を作った。もちろん当時のことだから、こつこつと手書きで作成した。系図の中に、豪族や天皇家の勢力関係を入れ、反物のようになった系図をじっと眺めていたときに、世代によって、名前の付け方が極端に違うことに気が付いた。それはまるで、民族の入れ違いを髣髴とさせるほどの違いだった。

 

下はその名外形図の一部。手書き。

f:id:naisentaiken:20210508111748j:plain

 

 高校生ができる範囲の研究だったが、彼らはおもしろがって付いてきた。ある程度までできたところで、担当の高校2年生は、3年になる直前、修学旅行に連れて行くことになった。

 

 ところで、その学校の修学旅行は、開校以来、京都奈良と決まっていた。一学年一クラスの小さな規模の学校で、教師はみんな、基本的にまじめ人間だった。内容的に、納得がいくものなら、案外個人の意見が通る、だから其れまで、担任がしゃにむに主張すれば、案外なんとかなってしまう学校だったので、私は職員会議で、生徒を九州に連れて行きたいと主張しようと考えた。「古事記」に載っている地名が九州に多く、私の「神話地図」は九州に集中していたから。

  

 私は職員会議の根回しのために、生徒と共同で研究した資料のすべてをガリ版印刷し、全職員に1部ずつ渡した。そして職員会議で言ったのである。

 

 「修学旅行の意味は、学んだものを修めるための研究旅行です。日ごろの研究と関係のない、観光目的の京都奈良を回っても意味がありません。私は生徒達と1年かけて、古典文学から、古代史を覗く研究をしてきて、これだけの資料を作成しました。修学旅行は、九州にさせてください。」

 

 学校が伝統的に続けていたはずの修学旅行は京都奈良、という決まりはこのガリ版刷りの生徒たちの研究資料にたまげた教師たちの全員の賛成によって、結果はあっけなく、九州に決まった。

高千穂の夜神楽見学

f:id:naisentaiken:20210508192308j:plain

f:id:naisentaiken:20210508192325j:plain

f:id:naisentaiken:20210508192347j:plain

 

続 昔はまっていた「古事記と」いう書物をもう一度振り返る

2)「記紀神話研究から現代の世界情勢を思う2」

 

 私が記紀神話の研究を始めてから、50年近くの時がたった。本格的な研究は30代だが、趣味で研究を始めた時は、大学院を出て、英語教師になり、人生の方向転換を模索していた20代後半のころからだった。

 

 大学時代、私は自分が将来の仕事のために選んだ学部に問題を感じていた。私は昭和16年生まれ。つまり太平洋戦争勃発の年に生を受けた。9人兄弟のうち3人が他界し、昭和25年に父を失い、その後母子家庭で戦後を乗り切った家族だったから、当然兄弟全員苦学生だった。私は自分ではあまり乗り気でなかった学部英文学科を、自分の本来の望みからでなく、生きて行くためにそのほうが自分の好みを勉強するよりいいという母の忠言にしたがって、将来の仕事のために選んだのだった。

 

 私の学生時代、女性が自分の好みで将来の仕事に直結できるような学問を選ぶことなど、できなかった。将来を生き抜くために学歴をつけ、学歴をつけるだけのために、学部を選んだ。苦学生としてやった仕事は、時間的にも経済的にも効率のよい家庭教師だった。好きだからと言って古代史なんか勉強をしている女子大生に、家庭教師などの口は回ってこなかった。同時にその先、古代史で食っていけるかと言われたら、自信があるはずもなかった。

 

 そうやって、周りの大人たちの強力な意見によって英文学をおさめたことに、いくらなんでも私は疑問を感じ、悩んでいたら、それを知った学長が好意で授業料免除で大学院に進ませてもらうことができて、付属のインターナショナルスクールの講師をやりながら国文学を修めることができた。ほんとうはやりたかった古代史は、このときさえ、選ぶに躊躇する程、マイナーな学問だった。

 

 ところで、そのインターナショナルスクールで教えた学科は、その時まだ免状も何も持っていない国語と日本史だった。好きだったから個人的に勉強をしていたにすぎないのだけど、アルバイトの講師だったから、それが通じたのだ。ただし、インターナショナルスクールの生徒との交流は、こちらも多くを学ぶことができて、面白かった。

 

 それから卒業して、私はとある私立高校の英語教師となった。英語教師の口が、面接して合格した唯一の職場だったから。

 

 ところで、私の学生時代は、安保闘争の時代である。さまざまな理由から、私は国際紛争の原点に興味を持ち、紛争の根っこを探ろうと、本を漁り読んだ。私は政治家に踊らされたり、指導者に踊らされたり、ちんどん屋みたいに先導者の言葉にただついて行って騒ぐ、そういうタイプではなかったから、「教えられていないこと」を自分で探ろうと思ったのだ。ベトナム反戦運動には、自ら単身で身を投じた。所属していた学校の関係で、ただ一人の仲間もなく、自分の行動を知っている仲間もなかった。

 

 なにしろ、行為で月謝免除で大学院まで通わせてくれた大学の学長はアメリカ人の修道女で、ベトナム反戦運動は、反米運動に他ならないから、知らせるわけにいかなかった。

 

 そういう状況の中で、私は学校で教えられる「正史」に疑問を持ち、「知らされていない歴史」を本気で研究しはじめたのだった。私は余暇を利用しては、古代史の本を紐解いて自由な思いを巡らしていた。いわば、古代史研究は「趣味」であり、「運命」と言ってもいい。

 

 問題を「記紀」に焦点を当てて、研究し始めたのは、学問的な理由よりも、むしろ、情緒的な理由であった。読む本は勢い「裏歴史」「私伝」「秘伝」の類ばかりだった。ある時ふと、古代における「日朝関係」研究の日本側の主張ばかりでなく、朝鮮側に立った主張を調べてみようと思った。そこで出会ったのが北朝鮮の金錫亨氏と韓国の江上波夫氏である。

 

 江上波夫氏の「騎馬民族王朝征服説」は、当時の私には目から鱗だったが、金氏の説を読んだ時に感じた想いは、説の真偽そのものよりも、彼の民族としての古代から近現代にいたるまでの日朝関係の歴史を背負った「心の傷」の深さであった。

 

 27歳の時、私はある公用語が英語の国際的宗教団体(修道院)に所属すると言う経験を得た。同期の仲間にフィリピン人2人と韓国人2人がいた。日本で集まった集団にもかかわらず、彼女たちは日本語は学ぶ必要ないといって、決して日本語を覚えようとしなかった。全員20代で若かったから、たとえ、宗教を仲介とした集団とは言え、日常的な問題で、いさかいになることがあった。

 

 その時彼女たちは、口癖のように、「日本軍が私たちに何をしたか、わかっているのか」と迫ってきた。それはお皿の洗い方がどうのという、まるで「日本軍」とは無関係の話題でさえ、でてくる抗議の言葉だった。祖母は日本軍に殺された、日本軍が私の祖国から言葉を奪った。

 

 私だって日本人として頭に来たから抗弁した。

 

 じゃあ、なんであなたたちは英語を話すのか。英語はあなた達の祖国の言葉か。私は日韓併合のとき生まれてもいなかったし、父は画家で虚弱だったから、軍隊にも合格せず、戦乱で焼け残った廃屋みたいな家で1950年に餓死したけれど、私がどういう理由であなたの祖母の死に責任を持たねばならぬと、あなたは考えるのか。だいたい、皿洗いと太平洋戦争とどういう関係があるのか⁈

 

 同じ宗教を基軸に集まった「修道院」という国際的集団のなかで、私たちは毛を逆立てて日常的にこのような不毛の会話をしていた。

昔はまっていた「古事記と」いう書物をもう一度振り返る

 

「記紀神話研究から現代の世界情勢を思う」

 

 ここに記すのは、中米内戦時代エルサルバドルに過ごし、庶民としてじっと内戦の様子を目撃し、そして「報道」と「現実」の矛盾に気づいた筆者が「記紀の研究」という無関係そうな命題をひっさっげて、世界情勢の分析を試みた研究である。

 

 日本の神話を一応史実の反映と、肯定的に研究の対象にして扱った本を、私は2冊読んだ。原田大六氏の「実在した神話」と、安本美典氏の「神武東遷」である。

 

 その2冊以外の、参考に読んだ30冊ばかりの研究書は、すべて否定の論理に裏づけされているものばかりである。これら否定の哲学に支えられた歴史書ばかり愛読していたころ、私はまだ、記紀を通読していなかった。私は否定の対象を知らずに、否定の歴史学に傾倒していたのだ。

 

 私は一度日本を離れ、外から日本を眺める機会を持った。「外」は内戦の巷であった。そして強国の代理戦争といわれたその内戦の中で、新聞もテレビも、どんな報道機関も、信用に値しないことを、私は肌で感じとっていた。なぜなら、あの国に生きて、私が昨日、自分の目で見たことが、報道では世界の強国とその追従者の立場でしか知らされなかったから。

 

 私は、古代史の研究であっても、対象を知らずに、利害を賭けた一方的な研究に納得していく自分の研究態度が、いかに危険なものであるかを、内戦の異国に住むことによって理解した。私は一方を「信じる」ということが「真理を知る」には程遠い結果を生むことを理解した。

 

 私は異国の地でやっと「記紀」を読み始めた。註を頼り、辞書を頼り、読み進むうちに、その註にさえも辞書にさえも、為政者の哲学が色濃く現れていることを知った。それが、私に、表記と意味のずれを気づかせるきっかけとなった。

 

 それで私は表記の研究に没頭した。表記の研究に没頭していたときは、まだ私は邪馬台国と大和朝廷の関係にきづかなかった。考古学も言語学も、まだ関連付けてはいなかった。そもそも縄文弥生の4000年に、生々しい人間の活躍があり、「言語」があり、「国際関係」があり、「国家」がある、ということにさえ思いをいたさなかった。

 

 私は「表記」のからくりに気がついたとき、始めて、記紀神話と、中国文献上にある邪馬台国と、縄文弥生の考古学と、それから、好きだからもっていたに過ぎない大野晋の日本語の研究書とを並べてみた。その関連を探りながら、すべての本を読み返してみた。頭の中に、ひとつの流れが組み立てられていくのが感じられた。記紀編纂者の強烈な意図が見えてきた。 

 

 それは国民性を操ることだった。かつて、九州に君臨した大いなる巫女、どんな優れた強力な男王が立っても、まとまらなかった国をまとめた、大いなる巫女の存在を「ヤマトの民」は忘れていなかった。あの巫女の尊い血筋に、いつまでも憧憬を感じ続けているヤマトの民を支配するには、オオヒルメとして死んだ巫女をアマテラスオオミカミとして祀ること、そしてその血筋を絶やさずに、そこから発生する王権の象徴を守ることが、鍵であることを、記紀編纂者は知っていた。

 

 しかし記紀編纂者は八母音語族であったため、四母音語族の「ヤマト」の伝承をそらんじている稗田阿礼の助けを借りなければ筆録できなかった。記紀におけるさまざまな「改竄」に見える「矛盾」、または「神代に見える言葉のからくり」は、漢字にそらんじた太安万侶が「表記の統一」という「文化的貢献」をすることによって、生じた。しかしその「文化的貢献」は「政治的貢献」であった。なぜなら、「表記の統一」はとりもなおさず、「各豪族の持っていた古代伝承の解釈の統一」であったから。

 

 時の政府が、民を支配統一するとき、強力な役割を果たすのが、政府によって「再編成され、再構築され、理解の範囲を統一された」思想、哲学、宗教である。

 

 初めは民族の間で、優しく暖かなまなざしで記憶され、吟遊詩人によって歌い告がれ、神として祭られ、1地域の民間信仰の中に残ったに過ぎないオオヒルメの利用価値に注目した、多分、大陸渡来の小集団だった為政者が、その末裔を担ぎ出し、民族の統一の象徴として国家の中心にすえ、「大和朝廷」を築いた。

 

 それはやがて数世紀を経て国家神道という巨大な組織に組み替えられ、明治政府によって近現代の統一の象徴として「国教」にまでされてしまった。国民は与えられた「宗教」を、ほとんど無意識に受け入れる。その根拠を求め、文献をあさり読み、納得してから受け入れる国民なんて、いない。宗教とは「文献批判」や「歴史研究」から入るのでなく、問答無用で「信じる」ことから入るのだから。

 

 国民は「真理」として与えられた宗教を信じることによって、国家を信じる。だから古今東西広大な地域を統一支配したどんな為政者も、為政者が飼いならした宗教を国教にした。

 

 かくして、すべての現世の執着を捨てたお釈迦様も、富や権力の一切を捨て、人間の精神の自由を奪う「律法」に異議を唱えて十字架にかけられたナザレのイエスも、為政者の富と権力への執着のために利用される。

 

 為政者はその矛盾に気づくことを赦さず、従わないものは、その宗教の名において、排除する。あらゆる宗教の教祖は、その本来の思想がどうあろうと、信仰の対象として、偶像として、民に与えられる。

 

 そこで持ち出される「信仰体系」はお釈迦様が作ったのでもナザレのイエスが作ったのでもない。それは巧妙にしくまれた誘導により、蒙昧な民を支配するために為政者によって作られた「体系」である。

 

 西洋の歴代の王侯貴族も、異民族を征服することによって立てられた教会の頭も、自分を拝めと信者を集めて金儲けしている新興宗教の教祖達も、宗教を否定した共産主義者たち、レーニンもスターリンも毛沢東も金日正もその息子も、信仰の対象になる。宗教を「アヘン」といったマルクスさえ「信仰」の対象になる。現代の無辜の民の「意思統一の手段」である新聞、テレビ、インターネットによる「報道」でさえ、「信仰の対象なる偶像」である。

 

 キリスト教の神が拝むことを禁じた偶像とは、木や石や石膏でできていなくてもいい。「為政者の手になる目くらまし」はすべて偶像なのだ。

 

 私は30年の間、この研究を眠らせておいた。いま、インターネットという手段を手に入れ、執筆の機会を得て、過去の研究を読み返しながら気づいたことは、歴史のうねりの中で同じようなことが、現代も繰り返されているということである。

 

 911問題にせよ、アフガニスタン、イラク侵攻の問題にせよ、靖国問題にせよ、はたまた歴史教科書問題にせよ、署名に駆り出され、運動に駆り出される人々は、自らの目で、自らの研究によって、全く何も見ていないのに、自分がたまたま所属する団体の誘導によって、賛成反対の行動をしている。

 

 アメリカの同時多発テロ、いわゆる911事件の報道をテレビで見ながら私は思った。「なぜあれが突発的な事件なのに、あらゆる角度から実況中継ができるように、カメラがそこにあったのか。そして、もうひとつの『事前に発見されて、乗客もろとも撃墜された』飛行機のほうは、なぜ隠蔽されてまったくいかなる角度からも報道されないのか。」

 

 この怪しげな報道によって、アフガニスタン侵攻は強引に正当化され、その関連で、イラクのほうは大量破壊兵器所持というでっち上げによって国そのものが壊滅した。

 

 その報道に、どちらが大量破壊兵器をより多く持っているかということの矛盾を追及するものがほとんどいなかった。

 

 そして報道機関は、安易に、この戦争を「宗教戦争」と呼んだ。キリスト教徒とイスラム教徒の戦いであると。誰もあの戦争に、ヤーヴェの名前もアラーの名前も出していないときに、あれがアメリカの石油のっとり戦争だということを知りながら、「宗教戦争」は報道機関によって仕立てられた。

 

 おまけに、両方とも一神教だから狭量で残酷だ、多神教の東洋人(たぶん日本人)は寛大だ、などという説まで飛び交うようになる。天皇を中心に、「天に代わりて敵を打つ」というスローガンを立ててアジア侵略をしたどこかの国は、「多神」を掲げていたのではなくて、天皇という「一神」を掲げていたのではなかったか?併合した「朝鮮」に「朝鮮語を禁じて、義務教育で日本語を強要した」東洋民族は「寛大」か?

 

 異質の存在を赦さない点において、多神教とやらの範疇に入れられた「東洋人」の日本人はとりわけ「異物の存在を赦さない」、「純粋」を尊ぶ、人種である。

 

 閣僚の靖国参拝反対を叫び、歴史教科書は中国朝鮮の都合に合わせて編纂されるべきだと主張し、911の報道に「日本に何も影響を及ぼさない民間のイスラム教徒」を意味もなく憎み始め、戦争が起きるたび、その都度反対したり賛成したりして、署名運動をしたり、デモに参加したりする善男善女は、為政者や、その反対者の将棋の駒に過ぎない。

 

 為政者もその反対者も、国民が、いちいち靖国参拝や、教科書問題や、911問題や、イラク戦争参加の是非の問題に関して、自分の意見を持たないのを知っている。靖国の成立の歴史を自らの目で研究し、資料を集め、自分の頭で考え、「新しい教科書」とやらを買って読み、その主張を自分の頭で吟味し、911の報道をあらゆる角度から研究したしすることがないのに、「報道」ひとつで動揺し、怒涛のように統一行動することを知っている。

 

 為政者は、国民は「為政者の意図によってゆがめられ、支配の道具とされた」宗教・信条・信念・哲学なるものを示されれば、その真髄を研究せずに、「ひたすら信じ」、自分が何を見きわめ、何を信じ込まされ、何のために駆り出され、何のために行動しているのかも知らずに、納得して行動することを知っている。

 

 他の存在を赦さない「一神教」とは、為政者が自分を「神」にすることであって、「真理は一つである」という哲学の命題を掲げる宗教のことではない。仏教は多神教ではなく、キリスト教は一神教ではない。東西を代表するこの二つの宗教は、1の2のと人間の頭で数量化が可能な概念を「神」としているのでなく、数量化のできない、無限大の真理を真理とする宗教なのだ。

 

 無限大の真理は、人間の有限の頭で考えられるほど小さなものではなく、種々さまざまな事象を含み、種々さまざまな様相を呈し、すべてを包含する宇宙である。人はこの無限大の真理に沿って生きるのがよろしく、「自ら神となった」為政者に与えられた「たった一つの真理」に、何の吟味もせずに踊らされるべきではない。

これで全部かな

今まで出したkindle出版

実は自分で出しておいて、URLが分からない。

10冊のはずだけど、なんだかくるっている。明日また研究。

 

「エスコバル瑠璃子の中米絵画:中米の花と生き物」
https://amzn.to/3t11SdF

「内戦後のグアテマラを行く」
https://amzn.to/3r72Apb

「ガラパゴス マチュピチュ紀行」
https://amzn.to/2ZGyqNw

「エルサルバドル内戦体験記及び回顧録」前編
https://amzn.to/3qmMyax

「エルサルバドル内戦体験記及び回顧録」中編
https://amzn.to/3rUV7JS

「エルサルバドル内戦体験記及び回顧録」後編
https://amzn.to/37eKMkg

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%9F-%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E7%91%A0%E7%92%83%E5%AD%90-ebook/dp/B093BVM28F/ref=pd_rhf_gw_p_img_4?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=BQ27PASNYQKSKB0PT16P


https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%9F-%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E7%91%A0%E7%92%83%E5%AD%90-ebook/dp/B093BVM28F/ref=pd_rhf_se_p_img_2?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=W9K5BH6A1ZZW9C9QG237


https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%9F-%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E7%91%A0%E7%92%83%E5%AD%90-ebook/dp/B093BVM28F/ref=pd_rhf_se_p_img_2?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=W9K5BH6A1ZZW9C9QG237&asin=B093BVM28F&revisionId=&format=2&depth=1

https://www.amazon.co.jp/dp/B093PRGL6W/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=Ruriko+Escobar&qid=1619666815&sr=8-1