naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

難しい問題だなあ

朝、どこかに行って帰って来てから、疲れて寝てしまった。それで、朝の行動を何も覚えていない。自転車で、いろんなところに行った。ことだけ、うろ覚えに覚えている。
 
で、テレビの前で、なんだか正体もなく眠ってしまって、目が覚めてから、庭に出た。庭には木の枝が散乱していたから、あさ、木の枝を切ったのだろう。
 
いろいろ片づけてから、花壇の手入れをしようと思った。ワイヤーネットで囲った花壇の中に、よく猫が入って糞をする。臭いだけじゃなくて、種や、球根をひっくり返されるので、猫よけに、防鳥ネットを張っておいたのだけど、猫は何をしても、うまく体を擦り込ませて、はいってしまう。その防御のために、またワイヤーネットを買いたした。
 
その修理のために、かなりの時間を要して、汗だくになったので、風呂を沸かしてはいった。それから、メールを覗いたら、昨日の客人からのメールが来ていた。
 
実は彼女は、苦しんでいた。自分の友人を殺したのはゲリラで、尊敬するロメロ大司教を殺したのが政府軍側で、しかも政権交代した後の今の政権はゲリラ側だとしたら、自分はどのように考えていいかわからない、というジレンマを抱えていたのだ。
 
私はまるでそういうジレンマを抱えていない。それは私と彼女の立場が違うからで、彼女が信じている情報を、私が信じていないから。彼女が内乱の前夜に日本に帰ってから、私は8年内乱の巷で生きていた。彼女が見たもの感じたものと、私が見たもの感じたものが違うのは当然なのだ。
 
「信じる」ということは、まるで論理の外の出来事だ。論理で割りきれるものではないから、自分が「信じる」ことを否定されたら、いい気持ちがする人はいない。でも彼女は、彼女の側の情報を信じているために、松本社長を殺した「ゲリラ」を憎み、尊敬するロメロ大司教を殺した「政府軍」を憎む。そして今の政府が当時のゲリラ側なら、彼女はそれを受け入れられない。
 
どの情報を信じるにせよ、「憎む」という心の状態は、こころにとって、マイナスだろう。
 
私は当時のゲリラ側の声明を読んで知っている。それは人質としてとらえた松本さんを移動中に、政府軍との戦闘になって、政府軍の銃弾に当たって死んだということ。交渉に利用されようとしていた「人質」を、交渉の口実を抹殺するために、政府軍側が殺した、と、ゲリラ側は説明していた。
 
当時、政府軍側が拉致監禁し、拷問した無辜の民の死体は、手足がなかったり目がえぐられていたり、ばらばらだったり、生きて帰った人間でも、性器をとられていたり、という惨状で、5体まともに見つかった例などないのだ。
 
そういう情報を8年間見続けていた者にとって、殺戮はどちらの犯行にせよ、赦しの範囲を超えているが、すくなくとも一方に利する情報だけでなく、耳を傾けられない側の情報も参考にするべきだと、私は思っていた。
返された松本さんの遺体は、「綺麗だった」と、当時彼女は言っていた。私はそれで、ゲリラの声明の方が正しいだろうと、勝手に考えていたのだ。
 
それを彼女に言うわけにいかないのかなあと思って、考えこんでいる。彼女にとって大切な人だった二人の生と死の意味を、殺した側の事情に目をやらずに、何とか有意義に考える、そういう方向に持って行かないと、彼女は苦しいだろう、と、私は思っているのだが。