naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

目から鱗の話

新旧両聖書の「隣人」の意味の違い

キリスト教の根幹の思想は、「敵を愛せ」、「隣人を愛せ」という言葉に要約されると思われている。ところで、その言葉は、比較検討されて伝えられたことがないので、ひどく漠然と、なにか、偽善の代名詞みたいに扱われている節がある。

その話が、昨日の講座の主題だった。

「敵を愛せ」とか「隣人を愛せ」と言われても、「敵」とは何か、「隣人」とは何かの定義がないから、聞く側が勝手に尾びれはびれをつけて解釈せざるを得ない。

エスのこの言葉が、なぜ「新しいか」を、昨日の講座では、旧約の言葉と比較検討することによって、説明した。

旧約で、敵への愛を示していると思われる記述は、「箴言」25:21-22.「あなたを憎むものが飢えているなら、パンを与えよ」で始まる。これは「敵を愛せ」と明言しているのでなく、ある状況下での、うまく行かない相手との、人間関係を修復する方法を述べている。「相手が飢えていないなら、あえて近づかず放置」するということだから、ある意味、優越感に立った極めて常識的な身の振り方と言える。そうすれば、相手との人間関係が修復できるという程度らしい。

エスの愛敵の精神は、徹底している。ルカ6:20-49では、「「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にせよ。悪口を言ういものに祝福を送り、侮辱する者のために祈れ。等々」

これは、人間関係の修復どころではない。愛し方が積極的で、うっかりすると、相手から、気味悪がられるような行為を勧めている。「敵」とは、私がむしろ避けたい人、むしろかかわりを持ちたくない相手である。イエスは、自分を愛してくれるものを愛するのは、誰にでもできること、それはたぶん犬畜生でもできることだ、と言う。イエスが言うところの「愛」とは、そういう自然原理の中でできる、「うまくいっている人間関係の中の慣れ合い」のことを言っているのでなく、「うまく行ってない人間関係」が対象で、「敵」とはそのような相手である。

エスのいう「和解」の原点は、父なるヤーヴェがイエスを通して、人々の罪の責任を問うことなく、十字架によって人類と和解した、という、そのことを通して、「敵」に責任を問うことなく、和解することだ。そのあくまでも「相手に対する無条件の愛」を「愛敵」と言っている。らしい。

そして、そのような「自然の原理を超えた愛」が実行できるのは、キリストとの出会いに置いてのみ可能だと言うのが、パウロの精神らしい。

次に愛することを求められた「隣人」の意味に関しては、新旧両聖書の発想が、まったく違うと言う説明があった。私には、これがかなり面白かった。

「隣人」とは何か、レビ記においても、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と言う言葉がある。しかし、マルコ12:31におけるイエスの言葉にある、同一の言葉が意味する「隣人」は、レビ記の「隣人」とは意味が違うと言う。これは、こじつけでなく、逐一、言葉の比較によって、かなり納得のいく説明があった。

レビ記19:13-18における「隣人」は、自分を中心として、ある地域的な範囲内にいるもの。しかも、自分よりも弱い立場にいるもの、同国人、あるいは、イスラエル国内に寄留している外国人、くらいまで、その範囲を広げることができる。

しかし、新約聖書の中で、同じように、「隣人を自分のごとく愛せ」と言う時の「隣人」は、地域的に固定した人のことでなく、「よき隣人」とは何か、の説明に、有名な「サマリア人のたとえ」をだしている。

それによると、「よき隣人」とは、「なる」ものであって、固定的な地域にすむものでも、特に自分と比べて強いとか弱いとか、上とか下とか、「隣の人と仲良くする」とかいうたぐいのものではないことが分かる。

例に出された、サマリア人の行為が、自分とは無関係の他人に対する無私の行為であって、その時に、其のサマリア人は、死にかかっている赤の他人の「良き隣人」と「なった」のだ。

これは凄い!

というのは、70年間信者を続けておきながら、このことに気がつかなかったことの衝撃だった。

あまり仲良くない隣の人に自宅の庭でとれた枇杷を持って行くことぐらいじゃ、キリスト教徒じゃないのだ^^。

まさか、そこまで馬鹿じゃないけれど、これは、目から鱗だった。