ヤーヴェを主語にする世界観

「ヤーヴェがファラオの心をかたくなにした」と言う記述の姿勢を、ずっと考えている。客観的な言い方をすれば、「モーゼとの交渉に負けたファラオがイスラエル人を国から去らせることに同意して、彼らが去った後、再び心変りして、イスラエル人のあとに兵力を送り込んだ」ということになるだろう。

前者の姿勢で明らかなのは、「客観性」が人間の側の目を通したものでなく、「ヤーヴェの目を通しての客観性」であること。自分たちの民族を中心に起きる出来事が、たとえその時、自分たちにとって不都合なことであろうとも、その事象をすべて、ヤーヴェのはからいと考えなければ、このような記述の姿勢は生まれない。

「宇宙万物が自然にできた、生物はアメ―バーのようなきわめて単純な命から進化を重ね、人間と言う生物に進化してきた」ととらえる姿勢と、「ヤーヴェが『光あれ』から始まって宇宙万物を作り、最後に人間を創造した」ととらえる姿勢との間には、同じ物事を扱っていても、かなりの違いがある。しかし、それはあくまでの「同じ物事」なのである。

たぶん、後者にあるのは「宇宙を動かしている根源的な創造主信仰」であって、前者にあるのは、「宇宙を解明し、支配する意思を持った人間の知性信仰」だろう。何も考えないで、一神教がどうの、多神教がどうのと言うような、漠然とした問題ではないことは確かなのだ。

私が時々、仏教用語を拝借していう、自力と他力の問題と考えても良い。

極めて身近な出来事についていえば、私の意思以前の問題で生じた、面倒な出来事にも、ヤーヴェの思惑があるはずだ、と、考える私は、自分の歴史の主人公を、自分だとは、思っていない。そういう姿勢のことだろう。そういう姿勢を私は他力信仰と言う。

いつの時代でも、または現代でも、または自分の歴史における出来事でも、主語はヤーヴェであって、「ファラオ」は誰でもいいのだ。

などと言うことを考えていたら、昨夜、眠くなって、8頃寝たのに、眠れなくなって、11時過ぎになって、とうとう起き出した。今週、水曜日と土曜日に招待客があって、例のごとく興奮して神経が突っ張っているらしい。あいにくの雨模様。いつも出してない絵を庭に出して展示しようと思っているけれど、無理だろうなあ。