偶像3


偶像3

次に講座があるまで、長い夏休みに入ってしまった。時期講座は秋になる。それで、ちょっと物足りないし、寂しいので、独学を始めた。読んでいる本は、雨宮師の「聖書に聞く」(オリエント宗教研究所)

まあ、この本は、彼の講座を聞いていれば、重複が多いが、じっくりと考えながら、「何を言いたいのか」把握するには、なかなかいい。

この前、「偶像」について、講座で聞いたことを描いた覚えがあるけれど、この本の中に、もう少し、偶像の意味を展開している箇所があって、目を引いた。

「偶像」とは、石や木で作られた彫像と言うことではない、それは人間の願望の投影にすぎないとは、この前、記述したとおりである。で、今日の発見は、其の説明である。

たとえ拝む相手が「ヤーヴェ」であっても、ある条件下ではヤーヴェも偶像になりうる。それは自分の願望の実現のために「ヤーヴェ」を利用すると言う態度でしか、ヤーヴェとのかかわりを考えない時。願望が実現すれば、その関係は終了することになる。

人間関係でも、利用価値のみで人間との関係を築く人は、相手に利用価値がなくなると、去っていく。自分の利益や願望を中心に生きると言うことは、相手に、自分の願望だけを投影していることになり、それを聖書では「偶像」と呼ぶのだそうだ。

エスが、10人の人を癒し、イエスを賛美しに戻ってきたのは一人だけだったと言う新約聖書の記述を分析すると、他の9人は癒されたことへの喜びが少なかったわけでなく、自分の願望の実現のみに喜んで、願望を実現させた相手との関係を忘れた、と言うことなのだそうだ。合格祈願の神様に祈って合格した結果、これは自分の実力だと酔いしれているようなものらしい。それを「偶像」として、ヤーヴェが禁止したと、著者は分析する。

ところで、今日の話。

自宅の枇杷が豊作で、鳥が群がってきているが、人間が食べられるものは、ご近所に分けようと、袋に小分けして、近所に配って回った。私は別に、あげる相手を条件によって選んでいるのでなく、歩いていて、目があったから上げると言うこともしているのだけど、人によってはそのことを負担に思うらしい。

今朝早く、ゴミ出しに行ったら、裏の角のおばさんが出ていて、自分で育てたと言うトマトの苗を数本くれた。私は喜んで家に帰って、植えたのだけど、ふと気がついて、そのおばさんにも、枇杷を分けようと、持って行った。

ところが、彼女、「トマトの苗なんて、実がなるかどうかもわからない、捨てる寸前の苗なんだから、お返しなんかしなくていい」と、言う。なんだか、そのおばさん、私が10年前に引っ越してきてから、ずっとそうなんだけど、よくものをくれるくせに、あげると、迷惑がる人なのだ。なんだか、負債をかえしに来たと思うらしい。その気持ち、わからないわけではないけれど、私は、知らない人でも目があったから枇杷を上げる人間だ。貸し借りのことなど考えていない。

仕方なく、言った。

これ、トマトの苗とは無関係ですよ。全部鳥に食べられちゃうだけだから、もったいないから食べてくださいよ。みずみずしくてなかなかおいしいんだから。

あら、そう、鳥に食べられるよりはましね、それならもらうわ、といって、枇杷を納めてくれた。

自分のことを「鳥よりはまし」と言いながら、自分の誇りを守ろうとする彼女の神経、疲れるだろうなあ、と、思った。これって、自分が利用され、他人の一時的な偶像になることを嫌っているのかな、などと考えたら、偶像の儚さを、ちょっと理解した^^。