naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「天国」と「天の国」の違い

「天国と天の国」

かなり前から私は、キリスト教用語とされている「天国」と言う言葉ほど、信者にさえ、誤解されている言葉はないのではないか、と考えてきた。そもそも旧約聖書にある、ヤーヴェがイスラエルに約束したとされる、「約束の地」の解釈からして、当のイスラエル人自身に誤解された言葉ではないのかと、私は考えていて、誤解のゆえに、4000年間も、地球上の小さな面積の土地をめぐって、果てしない殺し合いが続いているのだと、疑ってきたのだ。

そもそも「ヤーヴェ」という呼び名が、宇宙存在の根源を表す言葉ならば、「ヤーヴェ」の本質から考えて、苦難の末の「約束の地」が、地上の、すでに人間が住んでいる土地で、住んでいる人間を追いだしてまで奪取することを「約束」するようないきものとは考えられないのだ。そういう物語はギリシャ神話の世界であって、物に執着する人間の興亡の歴史にすぎない。

そもそも、聖書が「私」に伝わってくる過程を考えてみれば、その誤解されやすい言葉を、ヘブライ語からギリシャ語に翻訳し、さらにラテン語に訳し、近代になってからは、ドイツ語や英語に訳し、末端の「私」に伝えられる時は、キリスト教文化を土台に持っていない、無理な転換の多い日本語なのだ。与えられた「聖書」なる物は、「古事記」の世界と大して変わらない代物である。

一番大事なヤーヴェさえ、「神」と訳されれば、古事記の世界の神々と混同されてしまう。古事記の世界の神々は「生成変化」するものであって、ヤーヴェの本質と、何処も似ていない。

かつて、私は「古事記」を研究した。それは、歴史研究と言うよりも、原語の研究から始まった。私はいわゆる専門家ではないから、固定的観念から自由であった。古代、このように「表現」された言葉は、本当は、どういう意味を持つものか、ということをしつこくしつこく研究した。それは、むかしMSNコミュニティーと言うものがあった時、わざわざ「記紀神話考」というタイトルを設けて、連載したけれど、今はもう、ネットの中から消えてしまった。

そのうち私は、あの研究を、読者をすべて失うこと覚悟で、このブログに連載しようと思う。それは私の「言葉の歴史」に対する、死ぬ前にどうしても伝えたい思いがあるのだから。

私は昨日、雨宮師の「聖書に聞く」を読んでいて、伝えられた言葉の原語(言語ではない。ある言葉のもとになった原典の意味する言葉)の意味にこだわる、著者の一つの項目を見て、わが意を得たりと言う思いだった。それが「天国と天の国」である。

彼の追求の仕方は、なんだか私のやり方に共通点がある。まず彼は、「天国」と言うキリスト教用語とされている日本語を日本国語大辞典で調べ、書かれている定義が本来、福音書が伝える「天の国」または「神の国」の意味と大きく外れていることを突き止めた。わずかに「の」を間に挟んだだけの日本語である^^。こういうところが、私が共鳴するところなのだ。

「国」とか「地」とか聞けば、誰だって、地上における、視覚に訴える、或る空間を考える。「地」どころか、「救世主」の到来さえ、イスラエル人は、ダビデの子孫から生まれるはずのこの世界を支配する覇者の到来を想定していた。誰も、旅の途中で産気づいた女性から、宿屋もとれず厩で生まれる子を想定していなかった。

彼が成長して、説く「天の国」なるものを、やっぱり彼らは地上の強大な国のはずだという思いから自由ではなかった。

ところで私が、天国でも天の国でもいいけれど、実体のある空間ではないと気がついたのは、子供の時から唱えている祈り、「主祷文」の一節である。今は、口語になっているが、私の口を衝いて出てくる祈りの文句は文語である。この祈りは、何しろ70年間唱えている祈りだから、意味など考えたことがなかったのだが、或る時、「み国の来たらんことを」と言う一節を唱えたときに、「天国」とは何ぞやと考えていたときだったから、ひらめいたのだ。

「み国」は「行くところ」でなく、「自分のところに『来る』ように願うものなのだ」と言うことに気がついた。どの派のキリスト教でも唱えている、イエスが教えた祈り「主の祈り」である。

「実態のある領土」なら、「来てくれ」とは願わない。自分に向かって「来る」ものなら、それは「救い」の象徴としての言葉であって、「こころの状態」に違いない、と考えたのである。いわば、「あなたの平和が私の心に来ますように」「私の心がヤーヴェの慈悲によって、救われますように」と同じような意味のはずだ。

雨宮師はこの点をどう言っているか。

まず彼は、日本国語大辞典から引用し、「天国とは、信者の死後の霊を迎えると信じられる世界」と定義されているが、「天の国」という言葉が頻繁に出てくる「山上の垂訓」と呼ばれる個所から、判断して、イエスのいう「天の国」とは、「信者の死後の霊を迎える世界」ではないと断言する。

「天の国は近づいた」とマルコ福音書にあるが、ここでも「天の国」は「近づくもの」であって、こちらが「行く」ところでも「入る」ところでもないのだ。

さらに、「国」と訳された原語の意味は「王権(神)の支配の及ぶところ」または「支配」そのものだそうだ。意味は、「神の支配:救いそのもの」が近付いた、という言葉である。

その「天の国」がどういう人間の物かと言うと、それは、「こころの貧しい(謙虚な)もの、悲しむもの、柔和なもの、義に飢え乾くもの、憐れみ深いもの、こころの清いもの、平和を実現する者、義のために迫害されるもの」のものである。つまり、そういう人々が獲得する「救いの業」そのもののことを「天の国」と言うのだ。

「天の国」とは、花がわんさと咲いていたり、天使がうようよしていたり、男の周りに美女がわんさと侍っていたり、そういうようなテーマパークでもなければ、歓楽街でもない。なになにをしないと、入れてやんないぞ、とか、何なにをすれば、入場券をやるぞ、とか、もろもろの取引で持って、「入る国」ではない、ということが、かなり明確に述べられていて、私はすっきりした。