「罪」について

「罪」を課題に考えていたら、以前に、楽天ブログに書いた以下のメモが出てきた。ここに書いたかどうかわからないが、もう少し展開して、似たようなものに書きなおした。


創世記の、人祖の「罪」の意味の解釈から、その「罪からの救いのために来た」イエスの使命、役割の解釈について掘り下げる。

人祖の楽園追放物語が意味する「罪」とは、不完全な存在である人祖が自力で「完全」を求めて破綻した物語と、例の先生は解釈する。そのことを以下のように解釈する。

創世紀の話は「原罪」の物語で始まる。「原罪」もやはり「罪」と言う言葉で訳される以上、人間の苦悩を問題にしていることは、確かである。というより、「原罪」とはもろもろの「苦悩」の原因ともとれる。「苦悩」の原因とは自我に執着すること、自力の完全性を夢に見ること。

故に、

1)創世記の記述:「人祖は裸であることを知っていたが、恥ずかしがりはしなかった」の意味は、「人祖は無力であることを知っていたが、無力を受け入れていた」と解釈できる。

2)「人祖は知恵の木の実を食べて、裸を恥ずかしいと思うようになり、裸を隠すためにいちじくの葉を身にまとった」と言う記述の意味は、

「人祖は、『善悪を知る知恵』を獲得したために、本来裸の状態(無力)を「恥」と考えた。そこでそれを自らの「知恵」によって、隠すことができると考えた」と解釈できる。

この「知恵」なるものを具体的に言うと、富であり、学問であり、学歴であり、社会的地位であり、権力であり、武力であり、人を支配する支配力である。それらを開発することによって、人祖は「完全」を手にすることができると考えた。

歴史的に諸民族間で起きている闘争は、すべてその完全性の制覇の夢から来ていて、其の闘争のゆえに、人類は、何度も滅びの危機を経験してきた。

超現代的にいえば、耐震住宅だの、オール電化だの、原発安全神話だのを上げることができるが、人類はまだその神話にしがみつくことをやめてはいない。つまり「いちじくの葉」は、「完全性獲得の夢を実現する自力信仰」だ。

3)新約聖書の記述において、イエス様が批判したファリサイ人とは、本来の裸を認めず裸を隠すために「律法順守」を「いちじくの葉」として身にまとった人々と解釈できる。

ところで日本語訳で見ると、イエス様と言う人は、人間の本性からいってできないようなことを新しい掟みたいにと言っているように「教えられてきた」。

例をあげると、イエス様の言葉によると、姦通そのものを禁じた旧約の掟のみならず、他人の妻を見て欲情を感じるなら、それも姦通であるとされ、まるで新しい掟は、旧約の掟より厳しくなったようにさえ、思われてきた。

一方、同じイエス様は、右の頬を殴られたら左も出せ、上着をとられたら下着も出せ、敵のために祈り、敵のために祝福を送れ、とまで「できもしない徹底的な愛敵の精神」を人間に求めているように聞こえる。

仏教学者のひろさちやは、イエス様の教えが厳しすぎるから、キリスト教徒は偽善者にならざるを得ないと、解釈さえしている。そりゃ、本性からいって到底達成できないような「掟」を守れと言われたら、「かのように」ふるまわざるを得ないだろう。

ところで、それらの言葉を断片的に、前後に関係なく取り上げて議論すれば、確かにそういうことになるが、雨宮師の聖書講座を聞いていて、今まで思わされていたこととは、違う解釈があるのではないかと、気がついた。

エス様は、常に、「自分は決められた掟を守って生きてきた、自分は完全だと思い込んでいるファリサイ人」に対して、焦点を当てていた。

会堂の真ん中で、「自分は姦通者ではなく、嫌われる職業についているものでもない、掟で要求される以上の物を納め、施しをし、すべて自分は完ぺきに生きている」ことを「感謝する」と豪語している男に対して、

「姦通者ではない」と自認しているお前だって、完全と言えるか、心の中では、他人の妻にこっそり欲情をを抱いているではないか、それで「自分は彼よりまし」「自分は誰と比べても完ぺき」などと言えるか、と言っているのだ。それよりは、会堂の隅っこで、胸を打ちながら、自分は罪人だ、と言って苦しんでいる人間の方が、救いに近いのだ、という意味なのだ。

律法を守らなくていいと言っているわけでも、新しいより厳しい掟を作ったわけでもなく、外に見えない自分のこころの真実に目を閉じて、他人と比べて自分は、完全だと言うような、判断をするな、と言っているのだ。

彼は禁じたり脅迫したりしているのでなく、自省を促しているのではないか、「他人と比べて」「自分は彼よりましだ」「彼は姦通をしているのに、自分はしていない」「掟を守らないやつはたくさんいる中で、自分はすべて守っている」と言って安心している人に対して、「本当にお前は完全か?」と問いかけているのではないのか。

そのように私は思い始めた。

「私だって、姦通を実行したことなんてない^^。だけど70年間、誰に対しても欲情を感じなかったわけではない。」「私は教会で献金ぐらいしていた。自分で仕事を持っていたときは、非常識な金額を納めていたことさえある。だけど、自分の身を切るような行為を、自分より貧困に苦しんでいる相手に行使したことはない。」

「それでお前は、あいつより、自分はましだと言えるのか?」

と、イエス様はいいたいのだろう。