naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「罪」の続き

「罪」3

エス様の言う「自分は罪人を招くために来た」という言葉の意味は、「人祖といわれる人間一般」が、「裸の状態」、つまり「弱さ、無力、無明の存在」を隠すために、「いちじくの葉」つまり、「自分ではないもののように装う物」を求め、「自分を正しい人だと思っている人」を相手にするのでなく、「自分のあるがままの姿を受け入れ」「自分を自分でないもののように装うことをせず」、自分の「罪の状態」、つまり「裸の結果」に苦しんでいるものを招くために来たと言うことだろう。

その「罪人」に対して、存在の与え主特製の「いちじくの葉」、つまり「御父の愛による救い」をもたらすために来たということ。

つまり、救いとは、「自分は律法を守っているからすでに救われている者」と自認するのでなく、「自分の弱さを認めて、自分をこの世に送った存在の力に頼むもの」が対象になる。

それが会堂におけるファリサイ人と、隅っこで胸を打つ正直者のたとえの意味だろう。

そのことは、律法を金科玉条として絶対視していた社会、律法によって秩序を保っていた社会、律法学者が社会の頂点に立って人々の「こころ」を支配していた伝統的なユダヤ教徒にとって、受け入れがたい「革命」であったろうことは、うなずける。

キリスト教徒の迫害者であったパウロは、自分を「律法に置いて非の打ちどころのないもの」と思っていた。ヘブライ語の本来の意味をつかみかねるが、「律法に置いて非の打ちどころのないもの」と言う「自己評価」は、「救いの必要性を拒絶している」ことと同じではなかったか。自分の一挙手一投足を律法遵守で固め切り、誰にも後ろ指を指されるようなことをしていないという自負だから、それを打ち砕かれる新しい思想など、受け付けるわけにはいかなかっただろう。パウロは「迫害者」にならざるを得なかったし、たぶん、「迫害者」であることも、「律法に置いて正義」だっただろう。

こっそり言うけれど「正義」ほど恐ろしいものはない。人は「正義」によって人を殺すのであって、「愛」によって人を殺すわけがない。イエスだって、彼らの「正義」によって殺されたのだし、「正義の名」において、人は何をしてもいいのだ。当然のことながら、「正義」によってイエスを処刑した側は、その行動は正しいのであって、キリスト教徒の主張など、屁でもない。当のキリスト教徒だって、政権を奪取してからは、散々「正義」によって気にいらないものを抹殺してきたのだ。

―――――――――――――――――――
「正義と愛」

ところで、其の正義と愛はほとんど常に、セットとして並び称せられる。旧約の神は「正義の神」であって、神の選民であるイスラエルの前に立ちはだかるものを「正義」によって打ち砕くことになっている。

この「正義」を中心に考える場合、イエスの唱えた「愛」と整合性があるかどうかということを、私はこっそり考えている。

右の頬を殴られたら殴り返すのが「正義」である。上着をとられたら、喧嘩してとり返すが、もっとも現代的な方法でも、警察に盗難届を出して、処罰を与えるか、裁判に訴えて権利を主張するのが正義であって、上着をとられたら、下着も与えよと言うイエスの言葉は、「正義」とは言えない。自分の子を殺されたら、相手を殺すのが、本来の正義であって、法的に裁くと言っても、相手を死刑に処するなら、正義ある裁判として、喜ぶのが一般である。

その「敵」のために祈り、その「敵」のために祝福を送れという、イエスの言葉は、「正義の実行」とはほど遠い。どんな手段を使っても、オサマビンラディンを殺すのが、アメリカ国民としての正義であって、アメリカは、キリスト教陣営の国の代表である。千葉県で殺されたリンゼイさんの両親は、「正義ある裁判」を求め、おそらく殺害者に死刑を望んでいるのだろう。私も「復讐心」を抱いたことのある、ごく普通の人間だから彼らの心情、理解できる。

しかし、イエスは敵のために祈り、敵のために祝福を送れ、と言ったのだ。

エスの言葉は「正義」だろうか?

たぶん、ここに、彼の救いのメッセージと言うものがあるのだろうと、私はこっそり思っている。

誰でも、自分の心を洞察できるなら、「正義」を口走る人間は、自分は「絶対に」正しい側にいる、と思いこんでいるものなのだ。自分は間違っていない、自分は少なくとも犯罪者ではない、といきまくとき、誰も、自分にも「ある一瞬」殺人の衝動があり、気にいらない人間の「死」を望み、そこにナイフがありさえすれば殺人を実行する人間であるということに気づいていない。

「自分は絶対に正義である」と言う自負は、パウロがいう、「私は律法に置いて非の打ちどころのないものでした」という自負と同質のものである。そして、イエスは救いの対象を「自分を絶対視する者」に置かず、「自分の弱さを知り、自分の弱さに苦しむもの」に置いたのだ。

彼のいう「愛」とは、自分を誹謗する者に呪を送る「正義」でなく、自分を殴る相手に殴り返す権利を主張する「正義」でなく、「自分の愛する家族を殺した者」に死刑を宣告する「正義」でなく、「自分の弱さを知り、自分の弱さに苦しむもの」として、「敵のために祈り、祝福を送る愛」だった。

彼の愛は、理不尽である。正義ではない。

「正義の神」をヤーヴェと呼んだイスラエル民族にして、彼の「愛」は受け入れられない。たぶんそれは、当然のことだっただろう。彼の「愛」は「正義」によって処刑された。