naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

また、勝手な考察

「救いとイエス様の死と復活の関係」

この課題は、実は、「研究対象」ではない。たぶん、「信仰対象」以外の扱いができない問題だ。そのことを薄々承知しながら、私は自分が納得した答えを得たいから、自分のこころの記録として、記述することにする。公認された説でもなく、公認すべき相手に、見せていないから、あくまで自己流であって、誰の参考にもならない。

エス様の言動が、律法学者を激怒させたということは聖書に書いてあるし、彼が預言に描かれているメシアであるという噂は、ユダヤを政治的に軍事的に統一し支配する王をメシアの姿として夢見ていた人々には、冗談じゃない邪教が蔓延し始める危険を、指導者たちが感じたことは、想像できることだ。

指導者にとって、都合の悪い「新しい教え」は、すべて「邪教」である。かつて、徳川政府にとって、キリスト教は「邪教」であった。徳川政府がキリスト教を「邪教」として迫害した時代に、スペインカトリックアメリカ大陸に侵略した軍隊に同行して、民族言語を取り上げ、民族宗教を「邪教」として弾圧し、破壊し、壊滅に導いた。

そして、イエスの時代のイスラエルで、これはあくまで私の推測だが、ヤーヴェの正義の具現、ヤーヴェそのものであった「律法」を至上と考えた伝統的ユダヤ教にメスを入れ、「正義によってうち滅ぼすべき敵」への「無条件の愛」を説いたイエスの「福音」なるものは、「邪教」であった。伝統的ユダヤ教は、「支配者の都合を優先する正当な宗教」であったから。

たぶん、あくまで「多分」、「無条件の愛」と言うものは、人間世界に、いかなる優越者もいかなる落後者もありえない、特権もなければ、人が人を裁く権利もない、人が人との関係で認められる手段は「愛」のみ、という思想なのだろう。人はすべて裸を覆い隠す「イチジクの葉っぱ」なしで、「イチジクの葉っぱ」に頼らず自己認識をする時に、ヤーベのみに自己を預け、与えられた生を生きる、そこに永遠の救いがある、というメッセージなのだろう。

だから、この思想が、人祖の犯した「原罪」と呼ばれる状態からの解放を意味したと考えられる。(と、私は考える。)

つまりそれは、自らの真の姿を知らず、自我に執着して自他に優劣を設けるために、「真の姿を覆い隠すためのいちじくの葉」の克服を意味するから。(と、私は考える。)

だからイエスは、地上の権威によって裁かれることを受け入れ、裁いた人々にさえ、「無条件の赦し」を与えると言う、「神の子」「如来」としての使命を、全うしなければならなかったのだろう。

エス如来は、どうしても「復活」しなければならない。彼を信じ、彼において「赦しと愛」の秘儀にあずかる人々のうちに、永遠に復活し続けなければならない。彼に示された「無条件の赦しと愛」を試行錯誤のうちに実行に移す決意によって。

「と、以上のことを、私は考える。」