naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

毒麦の話

ミサには説教と言うものがある。ミサの説教は、神父さんが好みで勝手なことを言うのでなくて、カトリック教会なら、世界のことは確認していないけれど、日本国内では、年間を通して、どの福音から題材をとるということが決まっているらしい。
 
しかし、いろいろな神父さんがいるから、話す人によっては、同じ題材でも私の心が受け付けない場合がある。私のこころに問題があるんだと言われればそれまでだが、睡眠導入剤みたいな説教もあるんで、生理上いたしかたないともいえる。
 
相手にわからせたい言葉や意味があるなら、わかってもらえるよう工夫するのも、言葉を発する方の責任じゃないのかなあ。なんて、このところ、毎日曜、感じる。
 
昨日の司式司祭は、なにじんか知らないけれど、外国人だった。日本人かなと一瞬思ったから、西洋系の人ではなくて、アジア系の人。で、彼、異常な抑揚をつけて「日本語かもしれない言葉」を話すから、慣れない相手なので、意味がほとんど通じなかった。私の心がどうのじゃなくて、単語を続けて発音したり、離して発音したりが、本来の日本語からずれているのだ。
 
たとえば、「あるひーーとがよ、いーーたねおーーはーーたけにーーまいたひとびーーとがねーー、むっていーーるあーー いだにてーーきがきてむ ぎのなかにどーーくむぎをまーーいーーていっためがーーでーーーて・・・」なんて彼独特の抑揚をつけて言われても、日本語として通じないのは、私のこころの所為じゃない。
 
「或る人が よい種を 畑にまいた。 人々が眠っている間に 敵が来て 麦の中に 毒麦を蒔いていった。芽が出て・・・」というのが本来の日本語であることは、あらかじめその日のミサの式次第として印刷物を渡されるから、なんとかわかる。しかしその解説は、司式者のオリジナルで、同じような「日本語もどき」でいわれても、まったく意味が通じないのだ。
 
私は、外国人の日本語に慣れていないわけではない。子供の時から行っていた教会の主任司祭は、戦中戦後を問わず、私が高校時代まで、ほとんどがドイツ人だった。現在外国人も日本語が達者だけれど、その時代の外国人の日本語は、物凄くへたくそだった。子供だったから、耳にした言語を言語だと思っていたから、理解できたわけで、私は案外どんな言葉でも理解できる耳を持っているのだ。だけど、昨日の言葉はわかんなかった。
 
失礼も何もない。わかんないものは、わかんないのだ。日本の信者は、ひどく従順に飼いならされているから、絶対に司祭を批判しないし、意見もいわないし、こっそり教えてあげることもしない。うっかりそんなことをすれば袋叩きに会うのがおちである。
 
それに、日本語を言っているつもりの外国人に、通じないというのは、失礼なことらしい。昔日本に暮らしていた主人がさんざん傷ついていたから、その気持ちはよくわかる。私だって、アメリカに行って、英語で覚えた歌を歌ったら、「英語の歌を日本語で歌うの初めて聞いた。素敵だね――」とか言われて傷ついた覚えがある。
 
だから、この際、何も言えない。問題を起こさないためには、眠っちゃうのが一番の得策だ。カトリックのミサは、プロテスタントの礼拝と違って、説教が主ではなくて、メインは聖変化と聖体拝領にある。説教に力を入れるプロテスタントの牧師の説教のうまさも知っているから、自分の教会の説教のまずさにあうと、はっきりいって、「きいちゃいらんないよ」もう!
 
で、本題。
 
実は例の雨宮神父が編集責任をおって刊行している「今日のみ言葉」と言う冊子があるのを、見つけた。毎週の説教の内容と解説が、彼の監修で発刊されているらしい。半年分とか、1年分をまとめて購読申し込めば、あらかじめ、説教の内容と解説が読めるらしい。教会の説教にうんざりした挙句、とうとう、それを申し込んだ。それがきたのが、昨日、教会から帰った後。
 
さっそく、その日の分の解説を読んだ。
 
それが「毒麦」の話。
 
話の内容は、実は、あまりピンとこない。
 
良い麦の畑に、毒麦の種を植えたやつがいて、それがよい麦と一緒に成長を始めた時、しもべが主人に、毒麦を抜いてしまおうか、と相談した。そうしたら、主人が反対して、間違えてよい麦まで抜いてしまう恐れがあるから、両方一緒に育って、刈り入れの時まで放置せよと言ったという話。
 
良い麦とか、毒麦とか、育つ前からいわれると、なんだか、よい奴は初めから良くて、悪い奴は、初めから悪いと断定されているような、変な気分だった。
 
ところで、解説によると、争点はそういうところにあるのではないらしい。
 
結論だけいうと、人間には善人に見えてそうではなかったり、悪人に見えてそうではなかったり、なかなか判断が難しく、判断を過って処罰したり、排除したりすることがあるので、判断は、最後の審判の神様に任せなさいということらしい。
 
人は、個人的に「気にいらない」ものを「悪」として排除しがちで、教会という共同体も、ともすれば、「仲良しクラブ」になりがちだから、異質なものを排除しがちな自分の性急さに注意しなさいという意味の、拡大解釈もありらしい。
 
何処に行っても「異質な存在」である私にとって、これは「都合のいいメッセージ」かもしれない。でも「毒麦」を植えたのは「敵」だからね。どうもごまかされているようで、この解釈、腑に落ちない。
 
かなり展開して、一人の人間の中にある善の芽、悪の芽もお互いにせめぎ合うことによって人が成長するのだから、断定をするな、ということもほのめかしている。むむむ。こんなこと、あのたとえ話から、引き出すのは、無理だ。
 
ただし、原語の解釈がそうだというなら、解釈の内容は、よくわかる。
 
人間どおし、自分の常識や自分の世界の秩序のあり方から、善悪の判断をすることによって、世界の紛争は絶えないのだから、「お前の判断は間違っているぞ!」と言う警告として聞けば、納得。私も、餓鬼の時から一方的な判断によって、よく「毒麦」として断罪されがちだった人間だからなあ。でも私が毒麦に見えたとしても、植えたのは、「敵」でして、「敵」って愛さなきゃ、いけなかったんじゃないの?
 
:ξ(`▽´)ξ: クックック