naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

カイガラムシ大明神

砂漠のマナの話

これ、出エジプト記の物語。私は、砂漠に神様が降らせたことになっているマナの話が好きである。

エジプトで奴隷として苦役を強いられていたイスラエル人が、モーゼの先導で、荒れ野に入った時、人々は、食糧の不足から、モーゼに奴隷状態の方がましだったと文句を言った。

其の時に神様が降らせたのが、マナと言われる「パン」だった。それは、実際はなんだか知らないが(^^)、夜露が寒天状に固まったようなものだったらしい、と子供の時読んだ聖書の一種に書いてあったと記憶している。私は勝手に葛餅みたいなものを想像しているが、「今日のみ言葉」の解説によると、それは「タマリスクの木に寄生するカイガラムシが、タマリスクから多量の樹液を吸う時、余分な樹液が地に落ちて固まったもの」と推測されるそうだ。

こういう説明を「科学的実証」と言うらしいが、聖書の記述を「科学的に実証」なんかしなくていい。そんなことは宗教的に意味がないことだ。

昔私が結婚前に勤めていたキリスト教系の学校で、バイブルキャンプと言うものがあったから、生徒を引率する都合上、参加した。そこで、牧師だか、なんだか、聖職者の一種が、モーゼが海を割って、紅海を渡った記述を、物凄く一所懸命に、映像を使い、科学的に可能だということを説明していたのを聞いた。

要は、聖書の記述は嘘じゃないと言いたいのは、よくわかるが、科学的に解明できてから、嘘じゃないというなら、科学を信仰していればいいのであって、何もわけのわからない神話を証明することないじゃないの。

聖人でもなんでもない、このださい婆の私の一生だって、偶然と偶然のぶつかり合いによって、さまざまな時に、「ああ、自分は救われた!神に感謝」と叫ぶような出来事にあっている。それをいちいち「科学的に分析し」「実証」してくれなくたって、私はあの感謝の心の純粋さに、傷がついたりしない。

だいたい、其のタマリスクの木っていうもの、私は知らないし、カイガラムシも私は知らない。そういうものがありえたからと言って、荒れ野を集団で放浪するイスラエル民族の前に、毎朝、タマリスクとカイガラムシが出現して、人々の飢えを満たしたなら、かなりすごいカイガラムシだね^^。日本人なら、そんな凄いカイガラムシカイガラムシのままほっとかないよ。カイガラムシ大明神と命名して御神体にし、社を立てて、拝むんじゃないの?

で、それはそうとして、私がこの砂漠のマナの物語を「非科学的に」好むのは、「各自が毎日必要なだけしか採取を赦されなかった」という点なのだ。

物が不足すれば、人々は、スーパーに殺到して、米を買いだめし、パンを買いだめし、トイレットペーパーを買いだしして、「もたもたしている社会的弱者」がそのために死ぬことなど、誰も想定しない。買いだめ協奏曲を演じている「善男善女」に、たとえ悪気がなくたって、人は誰でも、どの他人よりも1秒でも長く生き残る方を選ぶ。だからことが起きると、3LDKの家の1部屋が穀物倉庫になる。それがエゴイズムの極致であることなど、普段は考える人でもその時は考えない。

荒れ野で飢えた人々に、毎朝マナが降ってきて、人々は、飢えを免れた。ところが、神様は、自分が飢えを満たすための1食分以上には、採取を赦さなかった。それは、助け合いながら、一人も欠けることなく、すべての民が生き残るためだった。聖書なんだから、カイガラムシの科学分析より、ウソみたいに見える物語でもそのメッセージを読みとるほうが、有益なんじゃないのか、と、私は余計なことを考えた。