naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

駱駝と針の穴の話

駱駝と針の穴の話

「今日のみ言葉」を読んでいたら、久しぶりに面白い記事に出会った。と言うことは、あまり出会わないということでもある。どんな宗教のどんな解説だって、鼻に着くような我田引水が多いので、そういうのは、すっ飛ばして読んでいる。

それは駱駝と、針の穴の話。駱駝がそこいら辺に歩いているのが日常ではない日本人にとって、このたとえはいかにも奇抜である。奇抜だから、ついつい駱駝と針の穴に目が行ってしまい、たとえ話の本来の意味を見過ごしてしまいがちだ。

「今日のみ言葉」に書かれていたことは、別にびっくりした内容でもないのだが、駱駝と金持ちを並べて、どう違うか、と言うことを一所懸命考えているのが、面白かった。並べたって、どっちにせよ、針の穴を通れない。しかし金持ちよりラクダにほんの少し歩があるのは、金持ちは持っている物を下すことに抵抗するが、駱駝は持たされている物を下すことを喜ぶということだという。なるほどね^^。これ面白い。

私はちょっとこれからヒントを得て、こう考えた。

比喩表現として出された駱駝と針の穴から離れて、このたとえ話の原因になった出来事に目をやってみれば、もっとわかりやすいのではないか、と。

律法を遵守して、非の打ちどころなく生きている青年が、イエス様のところにやってきて、「永遠の命を得るにはこの上どうしたらいいか」と尋ねた。そうしたらイエス様は、「持ち物を全部売り払い、貧しい人のために施して来い」と言われた。それができないから、金持ちの青年はがっかりして帰って行ったことになっている。私には、この「持ち物を全部売り払い」と言う言葉にも、実際に行動を起こせというのとは別の、隠れた意味があるように思われる。

それはつまり、「律法を遵守しているんだからこれ以上、なにを?」という「自負心」である。彼はすでに「天の国に入るための」自力による条件をすべて完ぺきに用意したという「自負心」があって、これ以上、何を?」とイエス様に聞いたのだ。イエス様は、その「自負心をすべて置いてこい、その上裸で付いてこい」と言ったのではないのか。自分で儲けた金も、自分で身につけた律法遵守の自負心も、捨てない限り真理の発見に至らない、そういう事の喩ではないのか。

駱駝と針の穴の意味など、どうでもいい。「無理だよ」と言うたとえだから。

屁理屈こえて楽しむ人間はどこにでもいるもんで、「7の70倍赦せ」というイエス様の言葉を、490回で良いんだね、とかいって、赦した数を数えたりするバカがいる。ユダヤ語では「7」とはヤーヴェの創造の完成の象徴であるように、完全を意味し、7の70倍は無制限と言う意味だそうだ。背景のわからん外国語を、そのまま日本語に訳されたら、490回などという数字になっちまうので、本来の意味が伝わらない。駱駝が日常的にそこいらにいる世界の用語は、その前後を読みこまないと、意味が通じないことが多々あるものだ。

日本語の「八百万の神々」や「108の煩悩」をそのまま数字で持って外国語に訳すようなものである。

日本の、仏教用語が背景になっている言語環境で、駱駝と針の穴のたとえを解釈するなら、それはどうも、自力と他力と悟りの世界を思い浮かべればいいような気がする。

「悟りを開こう、悟りを開こう」と願って、ひたすらに修行するのは、結局「自我」「我慾」のなす業であって、自力に頼って真理に到達しようとする限り、「駱駝が針の穴を通るより難しい」のだ。その「自分だけ悟りを開きたいという我慾」を捨てて、阿弥陀如来に帰依する他力信仰が救いの道と言うのが、「多分」「すべてを捨てて我に従え」だろう。「金持ちの青年」は、特に「金が惜しい青年」と言うより、「自分はすべての条件を備えているという自負にしがみつく青年」「自我にしがみつく人間」と解釈すれば、「それを捨てなければ無理だよ」と言う言葉に納得できる。

以上、当然ながら、私の我田引水的解釈である。