naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

エルサルバドルの殉教者ロメロイベントの余波

日曜だし、しばらく自転車散歩をしていないから、教会に行くことにした。教会に行くことに、昔みたいにある絶対的な意味を感じているわけではない。でも、凄くスムーズに到着し、いつもの意味不明な言語による説教を聞き流し、意味あるとみられる儀式に参加して、帰りは江戸川サイクリングロードを走って、26キロぐらいのところにある赤い新しい道を下りて、「木」交差点のところで、スーパーお母さんによって、安い野菜類を買って家に戻った。

ところで、教会で10月に開催するバザー券と言うものが売られていた。教会でやるバザー券と言うものは、入場券ではない。これは寄付集めの目的で売られる券で、同時にくじの番号が付いていて、何がしか、物品があたるというものだ。

今回のバザー券の目的を聞いてみたら、東北大震災の寄付だという。1枚500円なのだけど、寄付なら、1000円出してみようと思った。そうしたら2枚くれようとしたので、寄付のつもりだし、バザーに来るかどうかわからないので、1枚で良いと言ったのに、意味がわからないらしい。半券に名前を書けば、賞品があたるかもしれないという。なんだか、変な気分だった。

そこで、別に寄付のつもりで出したお金だから、名前など書く気はないと言って、振り切って逃げてきた。

500円や1000円程度のお金寄付して、なんか当たることを期待するっていう心根が、どうも気に入らなかった。1000円寄付できるっていうことは、自分の生活に必要なものは自分で調達できるから、寄付するのであって、1000円に困っていたら、寄付なんかしない。1000円分の商品を期待するなら、寄付にならない。そもそも寄付に名前を書くという行為が、すでに反キリスト的じゃないの。

自分が右手でやったことを左手にも知らせるなって、誰か言った人がいるって、教会で習った覚えがあるけれど、あれ、ただの建前?

うるせーよ、もう。

こういう態度、偏屈と言うらしい。どの教会に行っても、私の偏屈が嫌われて、なんだか、手のつけられない人物だと思われている。別に痛くもないけれど、あまり気分がいいものでもない。本心は、こういう教会など行きたくない。でも、個人で寄付行為ができるほど、大量のお金を持っていないんで、こういう集まりを利用している。

実は、この前、JICAとエルサルバドル大使館の共催で、エルサルバドルの殉教者ロメロの映写会があった。彼は内戦時代のカトリック大司教で、政府批判を繰り返したために、ミサ中に凶弾に倒れた人物である。その後、国連も偉大な人として取り上げ、其の命日を人権の記念日に定めるほど、影響を与えた人物である。そのロメロがカトリック教会に置いて、聖人として認められるとか認められないとかいう話があった。エルサルバドル時代以来の、協力隊上りの腐れ縁女史は「今年も認められなかったらしい」と言ったので、「ああよかった」と私は答えた。

ロメロは、何処の誰とも変わらない「ただの人間」だった。特別清よい生まれでもなく、特別な奇跡を行ったわけでもなく、いうなれば正義感にかられて黙っていられなくなって、丸腰でマイク片手に吠えていただけだった。彼が自分の死を察知して叫び続けたのは、「自分が死んでも自分はエルサルバドルの民衆の中によみがえる」と言う言葉だった。それは自分の信奉者がぞろぞろ出てくることでもなく、銅像が建てられることを期待したのでもなく、みこしに担がれて祭りの主役になることを期待したのでもなく、民芸品屋の店先に、ロメロの名を書いたろうそくや十字架や、頭が光ったロメロ聖人の写真が並ぶことでもなく、多くの人が、彼のあとに続いてくることだった。

それが、彼が言った、「一粒の麦が死んで多くの麦としてよみがえる」という言葉の本当の意味であり、「聖人」と呼ばれて、祭壇上に載せられ、私拝む人、あなた拝まれる人という神話の主人公になって、すべての人々に安心されてしまうことではなかったのだ。

私の所属するカトリック教会は、とかくに「聖人」なる物を産出することが好きな集団である。一人の偉業を果たした人が「聖人」にされちまった暁に、彼のすべては、忘れられるのである。そのうちに、彼の伝説までできて、生まれまで尊いことになり、脇の下から生まれたり、処女から生まれたりするようになる。そういう胡散臭いことを、私は好まない。それは私の偏屈のなせる業であって、他に八百万の民が聖人なる物を拝もうと、私は別に拒絶しない。わかる人、いねーの知っているから、よけいな説教垂れなくても良いぞ。