昨日の説教の内容

今日のみことば

昨日のミサ中の説教は、まったく聞いていなかったけれど、説教の主題は面白いはずだった。それは、マタイ22章28~38節の話。

二人の息子が父の命を受けるが、兄は一旦抵抗して従わず、後で思い直して従ったけど、弟は、従う返事をしておきながら、実際には行動を起こさなかった、という話。この二人のうち、どちらが父にとって良い息子なのか、という選択で、当然、兄の方という答えが期待されるようになっている。

日ごろの態度が常識にかなっているように、はたから立派に見えても、必ずしも、それが、神の目から見て立派だとは限らない。一方、社会から疎外され、軽蔑された存在である、一見どうしようもない人物でも、神の目から見たら、意にかなう人物かもしれない。どうも、その差は、本人が自分をどう評価しているかにあるらしい。

放蕩息子の喩や、会堂で義人を自負する男と、隅っこで目も上げられない男を比べ称して、イエスと言う男は、いつも常識的にはへんてこな方を選ぶ。

この兄と弟の比較でも、イエスはいう。自分の日ごろの行いを自負して、実は神の言葉に耳を傾けない者より、過去どうあろうと、神の方に向き直った売笑婦や徴税人の方が、神のこころにかなうのだと。

私は案外この話、好き。義務とされた意味のわからない掟や儀礼を意味もわからず守っていれば、天国に行けると思いこんでいる者は、教会の指導者をはじめ、教会をわがもの顔に牛耳る信者の面々にぞろぞろいる。自分と同じ行動を取らない他人を裁き、村八分にし、異端者扱いにして、宗教裁判にかけることに余念がないが、彼らの自負と傲慢が、本当は障害となって、救いから遠のいていることの指摘らしい。

自らを義とする者の考えでは、信仰と言うものは、「目に見える形」で万人に確認できなければならず、門地、生い立ち、係累の種類、学歴だの、過去に何をしたなどと言うことにいたるまで、規定通りでなければ救いの対象から除外される。

そもそもイエスはそんなことを言っていない。過去に何をしようと、売笑婦をしようと盗みをしようと、人殺しをしようと、神は神の方に向き直り、信頼する人々を懐に受け入れるのであって、救いの条件とされた儀礼を形式的に満たして免罪符をつかんだつもりの者を受け入れるのではない。と、イエスは言い続ける。

しかも何度も、繰り返し繰り返し、いろいろな例えを使って言い続ける。律法のすべてを網羅して遵守し、他にこれ以上することがないと自負している者でも、運命にもてあそばれて律法にしたがうことができないような環境に生まれ育ち、自分の罪深さに苦しんでいる者と比べれば、無に等しい。

生まれつき良い環境に育ち、既定の「善の形式」を守り、それができないものをあざけり、これ以上、するべきことなど何もないと自負する者に、お前は自分が思うほど義人ではないと言い続ける。生まれたときから、規定など守れない環境に育って、自分の情けなさを「自覚して」苦しむ売笑婦の方が、神のこころに近いのだ、と言い続ける。

要するにイエスと言う男は、非常識だ。彼が憎悪とやっかみのゆえに捕えられて磔になったことを、「勝利だ、栄光だ」というパラドックスを、各種キリスト教教団の指導者本人が分析もしていない。彼の死を勝利だというならば、なになにをすれば天国に入るとか、何なにをしなければ天国に入れないという脅迫的布教をやめるがいい。

そんな内容が、昨日のみことばには、含まれていた。だから、面白くて仕様がない。