naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「共に」の意識

キリスト教用語って、日本語にすると、どうしようもなく鼻もちならなくて、傲慢になる。其の思想の根幹となる、「愛」とか「赦し」と言う言葉が、すでに上から目線の、「罪ある他人」に対する「罪のない自分」の意識から生まれる言葉になっている。

そもそも「愛」とはキリスト教用語では、「情念」ではない。「性格の不一致」ぐらいで相手を見限る人間関係を意味しない。だいたい人間は全員性格不一致なのであって、一々見限っていたら、人間関係は成立しないのだ。そこを大目に見たり、自分を抑えたり、見て見ぬふりをしたり、何とか工夫して人間関係を成立させるところに、本来の「愛の芽」があるのではないのかな。

本来「愛」とは仏教用語では情念そのものであって、自己執着そのものだから、その意味を持ったままの訳語を使われたら、意味が混乱するのは当然のことだ。だからと言って、どう訳したら適切なのか、まったくわからないから、説明する以外にない。キリスト教用語のアガぺは和訳できない心の態度である。

「愛」とは「赦し」なのだけれど、「赦し」と言う日本語だって、お代官様が「罪人の罪を赦してあげる」みたいな響きに聞こえる。あくまで、赦す側に罪がない。罪も欠点も弱みもない。だから赦す相手に居丈高になることもできる。そんな態度、そもそも「宗教」の価値観になりえない。

じゃあ、「赦し」とは「連帯」であると言ってみると、今度は市民運動用語、闘争用語臭くなる。そうなると、うんざりしてしまう。しかし、「連帯意識」が生まれる土壌には、「お互い同じように弱さを持つ人間同士の自覚」がある。俺はいい人、お前は悪い人、でも赦してあげる、なんていう意識があったら、「連帯意識」は成立しない。

人はみな無明の存在であると、仏教は言う。人はみな罪びとであると、キリスト教では言う。どちらの宗教も、その「自己の発見」から第一歩が始まるらしい。「不完全である自己の発見」「正しい俺と正しくないお前などという意識が無意味であることの発見」と言っても良い。

其の発見があって、はじめて出てくるのが、「共に」の意識であり、「支え合おう」と言う意識であって、「がんばれニッポン」という掛け声も、そのあたりの「ごくあいまいな」国民性から生まれている。そういう国民性を踏まえないと、愛だの赦しだのと直訳したキリスト教の根幹は、この国では伝わらない。

だから、「愛」とは、無明の自己の発見からくる「共に」の意識であり、「お互いの」赦しあいであり、「お互いの」いたわりあいである、などと言ってみたら、何とか、まともに伝わるだろうか。