naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

ちょっと考えた

いろんなことがありすぎて、わずらわしさから逃れるために、漢字の脳トレと、漢検に没頭し、「今日のみことば」を読みまくった。「今日のみことば」も、脳トレムードで読んでいるんだけど、何を読んでも、我田引水に聞こえる。間違いかな。

あちきはきちんとヘブライ語を研究していない。だから研究者の解説を読む以外にない。読むと、なんだか、神様の話をしているんじゃなくて、自分の所属する団体に都合が良い解釈で話をしているような気がする。

エス様は神の子でもいい。しかし、同時代の同世代の人々が、彼を神の子と認識していたら、その時代のその国の最も下層階級の人々、奴隷に対する刑法である十字架刑に処せられることはなかっただろう。

ということは、同時代の人々が彼を見たら、自分たちと同じ、または、自分たち以下の人間として認識していただろうことは、想像できる。栄光の主、神の子イエスキリストとしてカトリック教会の豪華絢爛たる彫像となったこの人を、美術と礼拝の題材として自分たちの文化の中ではぐくんだのは、西洋人である。いったいその先入観がなくて、本来の「奴隷に対する処刑方法で処刑されたイエス」を考えた時、実は、彼の生前吐いた言葉はすべて、もっと真実味を帯び、ほとんど絶体絶命の感のある「神から預託された言葉」となりえるのではないかと考えている。

だって、「育ちのいい3代世襲の政治家」が、何を言っても意味のない「綺麗事」に聞こえ、最底辺のホームレスが叫ぶ言葉の方が、よほど真実味があり、心に浸透する言葉になるよ。あんなキンキラキンの祭壇に祭り上げられた神の子の言葉として聞くと、どうも、歯茎がぎしぎししてやりきれないが、ぼろをまとって、サンダルつっかけたホームレスが、「罪とされた女」をかばって、「お前たちの中で罪のない奴だけが、この女をうて」と叫んだら、腹の底にぞぞーーーっと響くよ。

今、実は、「善きサマリア人」の話を読んでいる。

解説では、「善きサマリア人」は愛の神そのものの姿であると説いているけれど、そうだったら、誰も善きサマリア人のようには、なれないじゃないの。「み言葉」の内容は、「そのような隣人となれ」と説いているのであって、神様ならこうするよ、とはいっていないと思うのだけど。仮に「神様ならこうする」のだったら、神になれない人間に、何も求めていないことになる。人間は、ただ、信じて拝んでいるだけの状態に置かれて、隣人を愛する行為は、神様の分野なら、メッセージの意味がないじゃないの。

どう考えても変だ。この解釈。