naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

神と「屁」の話

ファリサイ人

社会の中の約束事、常識、規則、法律と言うものは、社会の中で生きていくためには、必要不可欠のものである。支配とまではいかなくても、上に立ち、人を指導し、秩序を守らせる立場にあるものは、多かれ少なかれ、教条的になりやすい。

学校の先生だの、宗教的指導者などは、其の法律を守らせて社会の秩序を保ち、かなり他人を束縛して支配するような立場にあるものだから、規則万能、従わないものは排除するという方向に行くのは、仕事柄当然の成り行きである。指導者となり、他人を指導していく立場にあるものに、「誇り」と言うものはつきものである。その「誇り」は「傲慢」と裏腹の物であって、「誇り」を持って、わざわざ社会的底辺に生きる者などない。

常識なんか欠けていて、規則などうるさがる人間であるこの私でさえ、教壇に立つ仕事をしていたときは、常識や規則を生徒に押し付けて暮らしていた。自分の性格など、棚に上げていたし、弱さゆえに従えない子供の「採点」をしてくらしていた。そしてそういう指導者であることを「誇り」に思っていた。

エスと言う人は、そういう人間をファリサイ人、偽善者と言う。律法万能で、弱者に厳しく、傲慢で自尊心が強く、自分は完ぺきに規則と常識に生きる事を誇る、それによって天の国を獲得していると信じているファリサイ人に、お前たちはだから哀れだと言い続けた。誇りを傷つけられたファリサイ人は、だから、イエスを憎悪した。

しかし、そういう人間を偽善者と呼ぶなら、現在各派キリスト教会などで人を教え、上に立っている宗教上の指導者も、カトリック教会のように伝統的な秩序の中にあって、人が作った序列の中で暮らしている人々も、ほとんどがファリサイ人である。

宗教上の指導者が、「こういう人間はファリサイ人だ」と言う時、彼らは自分たちを除外している。おとなしく従順な信徒は、「ファリサイ人」と言う言葉に騙されて、ファリサイ人を普通にそこいらにごろごろしている人とは考えないで、イエスを殺した「特別憎むべき特別な集団」だと思いこみ、ファリサイ人がファリサイ人の悪口を言っていることも気がつかないし、当然のことながら、あれは聖書の中のことで、現代のおのれの中の「ファリサイ人」に気がつかない。

神の国は、人間が決めた秩序の中にあるのではない。と、イエスは言っているだけだ。「こうすれば天国に行く」「こうしなければ地獄に行く」と言う脅迫的指導を否定しているだけだ。人間が決めた秩序より前に、神の救いは無限大だと、言っているだけだ。

皇帝の物は皇帝に返し、神の物は神に返せ。と、彼は言う。神の物とは、神が創ったとされる心ある生き物すべてだろう。そのこころは神の物。地上を支配する皇帝には、自分の顔を刻んだ銀貨でもやっておけばそれで済む。神は銀貨など屁とも思っていない。

もう!また「屁」だけに反応しないでね。