naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

未だ思考中

今日はどこにも行かず、何もしなかった。松戸教会は、今日はバザーで、駐輪場がないから、行きたかったけれど行かなかった。実は今、片足の付け根が痛い。

で、昨日考えていたことの続きを考えた。「チェザルの物はチェザルに返し、神の物は神に返せ」と言うあの言葉、実は、高校時代の宗教の時間に聞いたのを覚えている。私はまだがきんちょで、校長の解説にちょっと首をかしげたのだあるけれど、質問をするまでには至らなかった。

校長は即座に、この言葉は「政教分離」を表していると言っていた。私が首をかしげたのは、ただ生意気だったからではなく、「政教分離」と言う現世的な説明と、なんだか違うのではないかと思ったからだ。

だいたい近世「政教分離」が唱えられたのは、この世の政治的支配階級として君臨した、西洋カトリック指導者の弊害を絶つためだったはずで、「政教分離」の「教」は本来の宗教の本質から逸脱した姿、むしろ実態はファリサイ的だったから唱えられた言葉だ。

エスはそんな「教」を「神の物」とは言っていないだろう。もともと、神と税金は無関係で、「チェザルのものはチェザルに返せ」とは、「この世的なものはこの世でかたずけるべし」と言う意味だろう。一方イエスが説く神の世界は、「全くそれと次元の違う世界だ」ということ。税が誰に収められようと、そういう事を問題にしていない。律法万能主義で、ただ決められたことを守っているような、結局はこの世のことしか興味がないような人間には、見えない世界のことを話しにきたのだ」と言う意味ではなかったか、と思ったのだ。

昨日一応締めくくったけれど、実は「神の物」と言う言葉で、イエスがなにを言いたかったのか、まだわからない。どでかく次元が違うだろうということしかわからない。つまり彼は、所謂ファリサイ人と呼ばれる人々が「問題にしていること」を問題にしていないのだ。

敵対しているように見えるけれど、なんだか、イライラしているだけみたいなイエスの返答の仕方に思えてならない。

ぼんやりとした思考だったけれど、異様にあの教室の中の問答や、校長が説いていた言葉や表情を記憶していて、いつまでもあの「政教分離」と言う言葉の浅さが記憶から離れない。