naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

Dios se lo pague

なんだかびっくりしちゃった。ネットの中の長年の付き合いで、宗教上の意見交換もよくしていた人に、先日書いた「上着を取られたら下着を」と言う言葉の解釈を見せたところ、彼は一番下にある3000円のカンパの部分だけを読んで、カンパしてくれと要求されたと勘違いしたらしい。

彼がヤフーのオフメで、長長と、自分が経てきた人生の苦労をパソコンの画面いっぱいにかいてきた時、私は何事だろうと思った。と言うのは、私は彼との長年の付き合いで、彼の人生のそういう事実を知っていたから、改めて知らせられる意味が全く分からなかった。

いったい何で今頃、自分は今まで苦しんだし、今も苦しいのだ、という物語を知らせてきたのだろうと、実は2日間悩んでしまった。

私はカンパしてくれなどと、ただの一度も誰にも頼んでいない。突然3000円を下さった方がいて、確かに私はうれしかったが、私はその方と言葉を交わした記憶もないし、知りもしないし、会ったこともない。

もし、言葉を交わしたことがあって、知っていて、会ったことがある方なら、突然のカンパの申し出に、あれほど純粋に喜びはしなかった。

考えても見てほしい。私は人生上、様々の体験をして、多くの人の助けによって生きて来て、今があるのをいやと言うほど知っている。難民となって帰国以来、私はその体験をし続けた。その事実があったから、私は10数年間、自分の体力と経済力の限界が来るまで、RECOMと呼ばれるラテンアメリカの内戦の被災者救援活動に参加して、援助する側に回ったのだ。所属教会や2つの母校が開催するバザーに、一人で店を出し、ラテンアメリカの民芸品を売って収益を救援組織に送り込んだ。

だから私は、体験によって、救援活動をする側の意識も、受ける側の意識も、いやと言うほど知っている。この身に体験し続けている。受ける側のこころに単純な感謝のみを期待する与える側の意識だって知っている。単純な感謝だけとは言えない、複雑な思いと葛藤に苦しむ受ける側の立場だって、いやと言うほどわかる。

誰が、自ら金をくれなどと言うもんか。「同情するならカネをくれ」と言うセリフが、昔あるテレビドラマの子役のセリフとして、流行ったが、実際にそんなことを思って人の情けを受ける人間などいないのだ。人は誰でも助けるべきだなどと言う考えもない。助けてくれる人がいたら、そりゃ、今の私は手を合わせて感謝するよ。地震津波などの自然災害でなく、自分が自己責任で起こした不祥事をとがめることなくあざ笑うことなく、助けてくれる人達に、私は手を合わせて感謝する。

しかし私はこの事も、自分の信念として付け加えておく。

私は同時に、天を仰いで感謝する。苦境の中にある私を今助けてくれる人たちは、私の側にどんな咎があろうとも、天は私を見放さず、派遣してくれた人々だと、私は信じている。それを思うから、私は生きる。感謝は人に対してだけではない。あなたを送ったあの大いなる存在に、伏してまろびて感謝する。ありがとう。そして私の「羽なし天使たち」、

Dios se lo pague.