自力と他力

「人の授かった苦しみは、本人の罪の故でなく、神が栄光を表すためである」

この言葉は聖書のどこかの個所にあるイエスのセリフを、私流儀に翻訳したものである。どの個所だったか、私は記憶がない。いつもの事だけど、場所なんてどうでもいいんだ、私には。

らい病とか婦人病などで、イエスが生きていた当時の世界で、「不治の病」とされていた病に冒されていたものは、「本人の罪のせいでかかった不治の病」と一般に考えられていたらしい。仏教なんかで言う「前世の報い」みたいな考え方だろう。

だからそれらの病人は捨て置かれ、社会から抹殺され、けがれた悪魔つきと考えられ、誰も相手にしない事を、むしろ戒律は勧めていたらしい。

ところがイエスは、そういう悪魔つきばかりと付き合って、彼らをいやし、戒律に忠実な真面目人間たちを偽善者呼ばわりして、権力を敵に回して殺された。あっさりと言っちまえば、イエスの殺された原因とは、どうもそんなことらしいのだ。

ところで、歴代のキリスト教集団は、初めから最後までイエスの精神を誤解し続けてきたように思える。「万軍の主」と言う言葉で神をたたえるように、信者は敵を倒す「軍」であって、「主」とは「軍神」に他ならない。当然「栄光」などと言う言葉は覇権を握ったものの権力の絶対性を表し、権力者の都合で戒律がどんどん作られ、この世で成功をおさめられないものは、当然「前世の報い」で片づけられる。そういうキリスト教が今でも世界を支配している。

エスが「神の栄光」と言ったその意味は、故意に誤解または曲解されて、何処にも生きていないのじゃないかと、思えて仕方がない。

私はその言葉をずっと考え続けている。寝につくときにその言葉が頭をかすめ、目が覚めるときその言葉がゆらゆらとしている。

手を当てることによって、らい病患者が癒されたり、不治の婦人病が治ったり、死者がよみがえったりするという「奇跡」が、イエスのいない現代で起こり得るか。「神の栄光が現れる」とは、そいう奇跡を意味するのか。だとしたら、「神の栄光」とやらは2000年前にしかありえなかった事になる。

医療が発達し、不治の病がなくなると、「栄光の」神も営業不振になるのか?「神の栄光が現れる」と言う言葉の意味を、死んだ者がよみがえったり、不治の病が治ったり、めくらの目が見えたり、いざりが突然歩きだしたり、そういう事を意味すると考えるなら、医療が発達した今、残るは「不老不死」の薬だけと言う事になる。

それが開発されちゃったら、神の栄光、どうなっちゃうんだろうね。

(注:私はここで現代で言う「差別用語」を頻発しているのを知っている。しかし聖書の時代を考えている私にとって、「ハンセン氏病」などと言うのはナンセンスだ。その他の病も私は「不浄」とされていた時代の感覚で語っているのであしからず。その時代に「差別用語」を使わないようにする神経があったのなら、「罪によって与えられた不浄の病」なんて言う感覚もないからね。)

災難にあった私に「奇跡」は起きなかった。私の心は傷ついたままで、盗まれた財産は戻らないし、この年齢の私に、働いてもう一度蓄財をする力もない。だから「奇跡」とは、なんなのか、と、考える時、「神の栄光」の意味するものを考えざるを得ない。

8歳のころ、私にものを恵んだあの二人の影が、時々よぎるのは、どうもそこにヒントがあるらしい。と、考えるようになった。あの幼児体験によって、私はどんな人間に成長したか、長じて同じような貧困家庭を見たときに、私がどのように反応したか、あの反応を考えたとき、「神の栄光」なるものは、規模は小さいけれど、確実に私の心に働いたと考えてはいけないのか。

だとしたら、今回の災難に遭遇した後、私は各所に、多くの人の心の中に、「神の栄光」が働く状況の「生き証人」なのではないのか、と思うのだ。

私は空の鳥がなぜ生きて、野の百合がなぜ咲くのかを、考えてはいなかった。蓄財しない空の鳥や、野の花を無償で生かしている者の存在を忘れていた。ヨブは散々な目にあったけれど、最後に財産は戻ってきて、義人として生きたらしいが、私は旧約のヨブを通り越して、新約の空の鳥や野の花として、食料の毛虫や動物の糞を肥やしにして生きて行けよ、と言う意味らしい事に気がつき始めてしまった。つまりそれは、自力を滅却した絶対他力信仰の世界だわ。

そうか、それを受け入れよ、ということか。私が逡巡している理由は、そのへんになるのだな…

逡巡をやめて裸になったら、私の意味の、「神の栄光」、きっと現れるよ^^。

「万軍の主」か^^。古いなあ、この表現。旧約の詩編の世界をさまよったって、軍備増強してキラキラした「栄光」を夢見たって、空の鳥の平和は得られないだろうに、おかしいなあ、キリスト教集団て。