naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

牛馬の糞にまみれて

エス様が、白くて長いお召しもので、おごそかな顔して頭から光を放ってそこいらを歩いていたら、みんなおったまげて争って挨拶に出、自分の家に招待して接待したり、土下座して拝んだりするだろう。

なかなかそういう姿が見られないもんだから、画家や彫刻家はそれらしき姿を描いたり組み立てたり彫ったりして拝む対象を作ってしまう。それが教会の芸術品で、あれに惑わされて、イエス様とはラファエルやミケランジェロ描くところの容貌をしているのではないかと誤解してしまう。

そういう人間の誤解を知っているから、いろいろな新興宗教の教祖とか言う人達は、自ら紫のローブをまとったり、ぼんやりとしか見えないような御簾の中に鎮座したり、あの手この手で「なんとかの化身」を演じている。

ところがどっこい、「復活したはずの」イエス様は、そういう姿で現れないらしい。彼は乞食になったり、親に虐待される子供になったり、監獄に入れられような無頼漢になったり、百の姿をとってあらわれる。

そのことがはっきり聖書に書いてあるから面白い。

最後の審判の時に、イエス様は言うそうだ。

お前は私が飢えているときに食べさせず、ころもがない時に着せてくれず、おいはぎに身ぐるみはがされていたときに助けてくれず、牢屋に入っているときに尋ねてもくれなかった。だからお前は天国の入場券を渡せない。みたいな事を。

そう言われた被告は、おったまげて抗議するらしい。

いつあなたが飢えているときに私が食べさせず、ころもがない時ころもを与えず、おいはぎに身ぐるみはがされたときに助けず、牢屋に入っているときに尋ねなかったというのですか?

エスは答えて言うらしい。

あの時道端で飢えていたのは、私なのだ。あの時冬の路上でころもがなくて寒がっていたのは私なのだ。あの時おいはぎに身ぐるみはがされていたのは、私なのだ。あの時牢屋に入っていたのは、私なのだ。それをお前は見て知っていて見殺しにしたじゃないか。

お前が見たあの小さき者たちにしてくれなかったことは、私にしてくれなかった事なのだ。

其の時初めて、被告はわかるらしい。イエス様がこの世にあらわれる時、おごそかな顔をしているわけでなく、美しい白いローブを着ているわけでもなく、従者をしたがえ権力の中枢についている「ハンサムで力の強いあこがれの王」として現れるわけではなかった事を。

2000年前、牛馬の糞にまみれた飼い葉おけで生まれた赤子は、2000年間、牛馬の糞にまみれてこの世にあらわれ、あなたのとなり、私の隣にうろちょろし、あなたや私の心が動く度、静かに天の台帳に記録して来たらしい。自分と一緒に同じ世界に居てほしい人と、自分のいない別の世界に行ってほしい人を。

そういうイエス様が私は好きだ。