naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

生きる意味

天候がどうもはっきりしない。西南地方は豪雨だそうで大変だが、関東はぐずついているだけ。しかし、エルサルバドルより暑い。電気代怖さに、エアコンを控えているが、夏それで過ごせるのかな。昔使っていた扇風機だけ回している。

体力を見て、時々庭仕事している。通りに面した百合が通行人に見えるように何とか周りの枝を払い、手の届く限り草を抜いた。草に覆われた階段も、途中まで整備して、そのうち上まで行こうと思う。すぐに疲れて、なかなかはかどらない。

しかし、絵が描けない。絵描きは確かにわがままだ。と、自分で思う。「純粋に絵を描く」などと言う行動が、そもそも現実的ではない。「借金を返すために売れる絵を描く」と言う現実が、本来の絵描きの本性に外れているため、どうしても始められないのだ。絵描きは実にわがままだ。

「通行人を楽しませるために」百合の花の世話をするという行動は、自分が生きている事の意味とつながるために、疲労困憊していてもその気になる。たぶん、それもわがままだ。ただ意味もなく草抜きをするという労働は、ただつらいだけだから、拒絶したくなり、変な意味を持たせると人間は動く。

それ。「生きる意味」。

「借金を返すために売れる絵を描く」だって「生きる意味」だと思うけれど、それがむなしく感じるのは、そういう絵の描き方を、品がないと思っているからだ。

人は品よりも先に生命を保たなければならないという事を、面白くなく思う動物らしい。「人は」じゃなくて「私は」と言い換えても良いけど。

なにはともあれ、「自分ができること」はそれしかないから、成功しようとしなかろうと、やらざるを得ない。そう思って、エルサルバドルでためてきた動植物の題材を眺めている。