naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

天国

「天国に行く」「天国に入る」という表現が「天国」という言葉を誤解させる。雨宮神父は「神の支配の及ぶところ」と表現していたが、それでもやはり「国」なら実体のある「空間」としてとらえても不思議はない。人間は「目に見える存在」だから、すべての言葉を自分に都合のよい、「目に見える安楽の地」としてとらえてしまう。花が咲いていたり、小鳥が鳴いていたり、男にとって慰めてくれる美女がぞろぞろいたり(だったら女にとっては男がぞろぞろいるのかよ!)、うっかりするとパチンコ屋とか、ゲームセンターなどの娯楽設備が整っていたりする「金儲けの対象」としての「都合のいいところ」が「天国」だったりする。そういうところに「行ったり」「入ったり」することを夢見て、十字架にかかったりするやつがいるかい!

歴史的に言い慣わされていた表現も、可視的だ。なにしろ使徒ペトロは「天国の鍵」を持っている門番なんだから。イエスキリスト自身は、「天国に行く」とか「天国に入る」とかいう表現をしていない。かなり微妙なんだけど、「あなたは私と共にある」とか「あなたの信仰があなたを救った」とか「天の国は開かれた」とか「天の国はあなたのもの」とかいう表現を使っている。彼が日常会話として用いていた古代アラマイ語というものがどんな表現をしているか、知らないけれど、日本語に訳されたキリストの言葉とされるこれらの表現から考えても、天国を「行ったり」「入ったり」する場所としては、キリスト本人は表現していないような気がする。

彼の言う「天の国」とは、「心の平安を得た状態」、「救いの成就」そのものというように、私にはとれる。だから何々をすれば天国に行けない、何何をしたら天国に行けるという言葉は、その時代その時代の指導者の、支配のための脅迫的な表現なのじゃないかと疑っている。今でもそれらは生きていて、指導者はおろか、同等の信者がお互いにそういうことを言う。

エスという男が相手にしたのは、最も助けの必要なもっとも小さき人であって、支配者の課した義務を遂行して安心しているどうでもいい助けの不要な人でなく、指導者に従って安全地帯にいて、地位の安泰を世襲的に受け継ぐ傲慢なキリスト教徒ではなく、安全地帯から外れた場末のホームレスや、仲間外れにされて自殺に追い込まれるほど苦悩している中学生や、闇から闇へと葬られる生まれることを許されない命や、それらのまるで「洗礼という儀式から遠い」小さき人なのだ。それらの人々に心を砕いた人々の心は、ペトロの持つカギとは無関係に、たった今「天の国は開かれ」るのであり、「天の国はあなたのもの」であり、その心は「イエスと共にある」のだ。