naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「鈍感と愛について」

「鈍感と愛について」

102歳の舅はのどに問題があるらしい。眠っている間を除いては、1日中、自分が座っている周りに、痰を吐き続けている。食事中であろうと、来客中であろうと、途絶える間もなく、痰を吐き続け、つぼがおいてはあるものの命中率が悪いために、周り中に新聞紙が置いてある。新聞紙は痰に濡れ、周りを虫が這いまわっている。

おまけに、舅はまだしっかりした意識を持って、誇りを捨てきれないためか、排泄はだれの助けも拒絶するだけでなく、当然、アテントみたいなおむつをつけることも拒絶するので、臭気が家じゅうに漂っている。機嫌が悪いと、衣服も換えさせず、1週間も汚物にまみれたズボンをはき続けるから、たまに靴を洗っても、臭気が消えない。

ところで、私の家族は、主人も娘も、全くその状況を受け入れていて、痰も排尿も、汚物まみれの衣服も、別に「耐えている」のでなくて、当たり前の日常として気にしていない。

私はその状況を見て、初めは唖然としていた。そのうち、「感心」し始めた。主人はどんな状況の中でも父親に寄り添い、夜中に杖を振り回す舅に起こさると、出て行って、汚物にまみれた舅を抱えて、同じベッドに横になったりする。彼はすでに、一般の嗅覚なんか持っていないようだった。娘や、孫が彼に近づくことをどうも「衛生上」避けているようだけど、自分はいつも、彼とともにある。

赤の他人が見たら、たぶん、彼は鈍感中の鈍感に見えるだろう。私もほとんど赤の他人で、昔この舅に世話になったことを記憶しているために、この状況に「我慢」しているだけで、いくら夫婦でも彼とともに、「鈍感」にはなれない。

自分で出来そうもないから、とうとう私は、これは「愛」というものなのだなあと思ってしまった。昔聖人伝で読んだ聖人の中に、らい病患者の膿を吸って看病する話を読んだことがあるが、私は読んだだけでも気持ちが悪かったほどの凡人である。つまり私は、これほどの「究極の愛」を自分の生活の中に取り入れることはできない。