naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

やっと「聞こえた」

2年間取り続けている「今日のみことば」の11月7日の福音の解説を読んで、「ほう、目新しい解釈だなあ、」と思った。少なくとも私は、71年間所属し続けたカトリック教会の指導者から、このような解釈は聞いた覚えがない。

ルカ14章25節~33節の「己の十字架を背負って我に従え」の解釈だ。「己の十字架」に関する解釈は、相手の抱える問題によって、勝手なことを言ってもいいらしいが、これは聖書のもととなった原語の意味する本来の意味を研究して発表しているシリーズだから、そう、勝手な十字架をその場限りで製造しているものではありない。

「十字架」の意味が「抱えている問題」「苦しみ」であることは間違いない。でも、本来の「問題」とは何か、「自分の家族を捨て」「十字架を背負って」「我に従え」という場合の「十字架」とは何かについての解釈がひどく目新しく読めた。

この解釈は少なくとも私が教えられてきたことによれば、「人間的な係累を振り棄ててでも、イエスに従う信仰の道を歩め」という風に聞こえた。その時「己の十字架をとって」の「十字架」の意味はあいまいだった。

ところが現在私が読んだ「十字架」の意味は、文脈を追っての意味だから、かえって「そうだったのか」と納得できた。

私の解釈が入るといけないので、以下にそのまま抜粋してみる。

「前略ーイエスの弟子となるための条件は、『イエスのもとに来て→父や母などを憎み→自分の十字架を背負い→イエスの後を来る』という一連の行動です。つまり、『憎むのは背負うため』であり、背負うべき十字架とは、家族の間の人間関係にかかわる十字架だと言えます。

あるがままの人間は様々な欠点を持っており、なかなか受け入れることができません。この受け入れがたい相手の欠点を『十字架』と呼んでいます。私たちが背負うべき十字架とは、共に生きるべき相手、しかも欠点を持つ相手のことです。

あるがままの相手を背負えないのは、相手に抱く理想像があって、それが邪魔をするからです。弟子が憎むべき『父、母、妻、子供、兄弟、姉妹』とは、私たちが勝手に思い描いた『相手の理想像』であって、現実の欠点だらけの相手のことではありません。むしろ、欠点だらけの『あるがままの相手』を十字架として背負うために、『相手の理想像』を憎んで捨て去ります。

そうであれば、憎むべき『自分の命』の意味も明らかです。『命』と訳されたプシューケーには、『欲望や感情を含め、人間の内面生活の場としての心』という意味があります。ここでは自分の命と思えるほどに大事にしている『夢』を指しています。自分についての『夢』を捨て、あるがままを十字架として背負って、イエスに従います。」

これって、仏教でいう「執着を断て」に通じるかな、と思った。執着を断てと一言で言うと、まるで不可能な要求に聞こえる。ところが、理想的な母とか、理想的な息子とか、理想的な教師とか、理想的な妻や夫とか、そういう夢の世界に執着し、求めるから、却ってすべてが分裂する。その夢に対する執着を断てば、己が自由になり、おのずと他人も受け入れられる。自分を知れば、自分と同じ存在である他人にできない要求もしなくなる。なんていう風に、私は「執着を断て」を解釈してきた。

それを「十字架」と言い換えるなら、キリストの言葉になっちゃうが、どうだろう。

学生時代、生きていることを悩んでいた時代があった。その時であったシスター広瀬(すでに故人なので本名で)が、「イエス様の背負って来いとおっしゃった十字架とは、あなた自身ですよ。イエス様はそのどうしようもないあなた自身をおいてこいとは言わなかった。そのまま、変な化粧せずにすっぴんで来いとおっしゃった。すっぴんのあなたが十字架ですよ。でもイエス様はすっぴんを何とかして来いとおっしゃったんでなくて、それを十字架としてそのまま来いとおっしゃった」という解釈を披露して下さった。あれは目から鱗だったなぁ。

でもあの時私は、それが本来の正当な解釈だとは思わなかった。青春の懊悩の中にあった私のために、私が背負っていた肩の荷を下ろさせるために、応急処置として彼女が勝手に解釈した逸品だと思っていた。

今久しぶりにこの聖書の一節を読み、原語の研究からの解釈に接してみて、言葉はともかく、あの解釈は「正当」だったんだと思い返した。自己を含め、人間に対する「あり得ない理想像」を振り棄てて、「真実の姿を十字架として」背負って来い、という意味だったのなら、「父も母も親類縁者も捨ててこい」というおっかない理不尽な言葉の意味が納得できるなあ、と思った。