ミサに行ってきた

ミサに行ってきた。

ところでいつも思うのだけど、ラテンアメリカの教会って、十字架や、キリスト像よりも、ひと際どでかいマリア様が祀られていて、気味悪い。家から一番近い教会がグアダルペのマリア様というのが守護神みたいな教会で、聖体を収めた聖櫃の上に、おっ立っている。聖櫃を守っているというなら話がわかるが、明らかに聖櫃を踏みつけている。

何しろスペインという国は、八百万のマリア様の生産国だ。20代のときにスペインを旅行して、あのマリア様群に驚嘆したもんだ。聖週間と呼ばれるキリストの受難を再現する週間に、スペイン各地で神輿に乗せられて街中を練り歩いているのが、さまざまなマリア様で、受難のキリストはその後ろからついて行き、ナサレーノスと呼ばれる疑似受難者の群れが、自分の体を鞭打ち、足に鎖を巻きつけながら、そのあとを行進するのは、なんだかマゾの群れみたいで気味悪かった。

で、今行っている教会の守護神であるグアダルペのマリア様というのが、いつどこで湧いたのか、私は知らない。確かこのマリア様は、メキシコの守護神でもあるから、メキシコで湧いたのかもしれない。このマリア像は、あまり人間的ではなくて、マリア様の立像で周りをぎざぎざのテープみたいな色とりどりの「光」が取り巻いている。あんなの現れても、あまり拝む気がしない。どうせなら、もっと拝みたくなるような神々しいマリア様を生産してほしいものだ。

このスペイン産の八百万のマリア様のせいで、カトリックは「マリア教」と呼ばれてさえいる。ただし、目に訴えないから誰も理解していないミサそのものは、八百万のマリア賛美ではなくて、日本でもドイツでもアメリカでもスペインでも、この国でも、同じ段取りに従って、キリストの聖体中心に執り行われているから、まあ、マリア像を見なければいいのだけど、それにしてもあまりにどでかくて、目に入るからしようがない。ペルーのカテドラルでも、原住民から分捕った金銀財宝を積み重ねた下品極まりない装飾の真上に、やっぱりマリア様がおっ立っていたな。

スペインカトリックキリスト教布教の歴史は、実に反キリスト的で殺戮と略奪が歴史の前面に押し出されるから、実は私は日本に生まれてよったとこっそり思っている。何しろ日本は豊臣徳川政権下で、カトリックは弾圧され、迫害を受ける側にあった。迫害をする側より、迫害を受ける側にいた方が、ずっと気が楽だからね。

おかげで宗教もマリア狂の強制を受けず、言語も奪われず、スペイン語の名残は、パンだの、テンプラだの、カルタだのが、わずかにスペイン語ポルトガル語の名残で残っているだけ。豊臣徳川はやっぱり、日本文化の天神様として祀っていてもいいよ。

ところで私はカトリックを変更する気はない。変更すれば自分の歴史を変更できると思うような、軽薄な考えは持っていない。本質を守り、歴史の犯した罪業は背負っていくべきだと思っている。と、いかにも非人間的な姿をしたメキシコの守護神を眺めながら思った。しかしね、メキシコの本当の守護神は、モンテクスマだべ。(アステカの守護神は「ウィシュトシワトル」だそうです。でも、スペインにだまされて滅ぼされた最後の王を私は守護神と呼びたかった。)