naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

あけましておめでとう

実は私はつらかった。
友人から、12月23日以降、ブログになんの記録もないけれど、心配しているという便りが来た。その心配の便りはうれしかったが、それでも私は手が動かなかった。

クリスマスから正月にかけてのお祭りの季節に、「おめでとう」といいあう習慣が、実は私にはつらかった。私は一生懸命生きているけれど、いつも私は形式や習慣や常識にすぎないことであっても、自分の今の心に受け入れられないものには、その形式さえも守れないほど、正直だった。

私にはおめでとうと言い合う習慣がつらかった。本心を言うと、(いつも本心しか言わないが)自分の心は荒んでいて、もう、生きていく気力もないのだ。友人の訃報に接したときでさえ、私は「うらやましい」と、こっそり反応して、この世のならわしの「まともな挨拶」ができなかった。

この2年間、私の人生の終焉に近い時期に起きた出来事は、どんな励ましにも、支援にも、活路を見いだせないほどに、私を苦しめた。友人の存在はうれしかった。わずかな言葉でも、声かけられ励まされるとうれしかった。しかし、わずかな一片の否定的ことばにも激怒した。それが自分のすべての人格否定であると感じる感受性に、私はあらがうことができないほどに。

最後には祈りの言葉も出なかった。クリスマスに、大みそかに、教会にも行ったし、祈りの形式にも従った。しかし心はむなしかった。

日本時間の元旦はこちらの現地時間より15時間早くあける。そのことを私は気にしていた。メールだけでも年賀状を出さなければならない、少なくとも、私の苦境を心から救おうとしてくれた友人たちに対して、何か挨拶しなければならない。

ところが、通り一遍のあいさつを送る気になれず、おまけに、今使っているパソコンは離日直前にあるネッ友から譲り受けたもので、過去の情報が全くなくて、アドレスはわずかにフリーメールの記録の中に残っている古いものしかなかった。

その記録を、2日かけて何とかかき集め、楽天グリーティングの助けを借りて、やっとだしたのが、日本時間12月31日の23時だった。

実はそれにはきっかけがあった。

それは、認知症になった102歳の舅が、私に見せるある反応だった。

この人は、すでに、過去の面影がなく、排泄物にまみれて、ただ、死ねないから生きている。

食べ物は、フリホーレスとトルティージャとチーズとインスタントコーヒーと茹で卵しか受け付けない。たまに、ビールを飲みたがるが食べ物は同じである。

彼は過去の世界に生きていて、時々大声で呼ぶのは死者の名前ばかりである。目は空を睨んでいて、「つまらなく生きている」「目に見える人間」に対して、本来こうあるべきだと思うような目つきをしていない。

その舅が時たまだけど、私に見せる目つきが気になった。その目つきは「つまらなく生きている、目に見える人間に対して、本来こうあるべきだと思うような目つき」なのだ。

その目つきは語っている。「私はお前を肯定している。私はお前に敬意を払っている。おまえは『自分が知っているあの人間』だ。私はお前をいとしく思う。」

数日前、主人がいなかったとき、娘が舅の食事を作って出した。その食事を一緒に食べたのは私と娘だけだった。ところが舅はその食事を、いつもみたいにこぼしたり散らかしたりせずに、きれいに舐めるようにはいらげた。あまり気に留めなかった私に娘が言った。

「珍しい!おじいちゃん、いつも食事散らかすのに、今日はびっくりするほどきれいに食べた。こんなの初めて。」

そう言ってしばらく娘がきれいなお皿を眺めていた。私はその時、「いつも食事を世話するマリもお父さんもいないから遠慮があるんでしょう。」といったら、娘が言った。「それ、お母さんのときだけ。私は時々、一人で出しているけれど、こんなこと初めて」

確か、いつか、私しかいなかったとき、とりあえず、私が食事を作った。お爺さんにだけ、毎食同じものを出していることに疑問を感じていた私は、自分が食べるものと同じものを少しづつと、いつものみんなが出しているものを一緒に出した。お爺さんはその時、食事を眺めて、不思議そうにしていたが、出されたものをすべて平らげた。それを帰ってきた家族に報告したら、そういうことはあり得ない、必ずどこかに隠して捨てているはずだ、と口をそろえて主張した。

ところがそうではないことを、私は感じていた。お爺さんはのどの咳が絶えず、いつもいつも周り中に痰を吐き散らしていた。マリがいないとき、私はそれを腹ばいになって、拭き取り、床をすべて磨いて、その上に青いビニールシートを貼った。わざわざ、日本の100円ショップから取り寄せたものだった。

彼と目があったとき、彼は会釈するような表情をした。それから数日、彼は痰を周りに吐かず、そばに置いた屑籠の中に一生懸命命中させていた。

マリが帰ってきて、主人が帰ってきて、介護がいつもの体制に戻ると、舅はいつもの舅に戻って、あらぬ方を眺めながら過去の人間と対話した。顔を見ても全く私に気がつかなかった。主人が世話をしていると、嫁さんはどこに行った、また追い出したか、また逃げて行ったか、と険しく疑い深く、詰問するらしかった。仕方なく、夜中でも起きて、挨拶すると、彼はやっと安堵して、眠るのだった。

ところが時々、二人だけになり、私がそばを通りがかって会釈すると、彼は昔の表情をして私を見るのに気がついた。愛おしそうな優しい目つきだ。ああ、と私の心は疼いた。

この人がいなかったら、私は主人と結婚生活など続けていられなかったほどに、どんな困難な時も、影に日向に支えてくれたのは、この舅だった。この舅が生きているなら、私も生きて見ようかと思った。それほど私はこれ以上生きることに積極的になれなかった。クリスマスや正月に、のどの奥から「おめでとう」の言葉が出なかった。ヒトと会うのを避けていた。

でも、102歳の認知症の、たまに私と会う時にしか、往時の面影を残さない、仕方がないから生きているだけの、この舅のあの愛おしそうな視線に会うと、私に、ある感覚が蘇る。蘇るという言葉、生命の蘇生を促すという意味らしい。

新年明けましておめでとう。