やれやれ

2月13日

とうとうストレスは極限に達し、爆発した。マリはいなくなり、エルサルおシンだけが週に2回来ることになった。家事のすべてと、爺様の介護を私が引き受けることになった。だからものすごく疲労していて、パソコンに向かう時間もなかった。

今、始めて私は自分の意思で買い物をし、自分の意思で食事を決め、排泄物にまみれた舅の居場所を徹底的に洗い、かなりものすごく「生きている」。

私は、マリやエルサルおシンに対してでなく、家族の私に対する憤懣が爆発しただけだったが、家族はその事実を全く理解していない。たぶん、理解力がない。家族が一緒にいることが、無条件で正しいと考えているロマンチックな家族に、私は何を説明してもわかってもらえなかった。

私は病気でも身障者でもなく、ボケ老人でもなく、誰の介助もなく、8年間一人暮らしをしてきた。健康維持のために食事も運動も規則正しく生きていて、時には病気にもなり、救急車の要請もしたが、元気になれば同じ暮らしに戻っていた。健康だった。老人になって骨粗鬆症になってはいたが、精神を病むというようなことはなかった。

あるとき神経がぶっきれた。逆上して猛烈な抵抗をし、たまげたマリが出て行った後、私はしばらく朦朧としていた。自分に何が起きたのかわからなかった。

1週間たって、やっと我に返っている。

これまで、家事の一切は、女中が引き受け、買い物や、支払いや、経済まで、イニシアチブをとっていたのはマリだった。私は生活の一切からカヤの外に置かれて、6畳のベッドルームでパソコン相手にアンケートお宅になり、ポイント稼ぎをしているだけで、この半年暮らしていたのだ。文字通りばかみたい・・・

出る幕のない幕をめくって、私は料理をしたり、掃除をしたり、洗濯機を回したり、洗濯物を干したり、裏庭の開墾をしたりして気を紛らせていたが、マリはいい手下が来たとばかりに、あらゆるものを怠け始めた。洗濯機の中に濡れた洗濯物は放置し、料理を私に任せ、食器も洗わず好きな時に携帯で話をしまくった。木や石の配置を楽しんで「庭づくり」をしていたのに、マリは開墾できた「土」に勝手な植物を勝手な所に植えて、勝手に楽しみ始めた。亀のえさだと言って、台所のごみをえさ箱にうずたかく積み上げ、私の植えた種は踏み荒らしていた。

蚊帳の外から中に入ろうとした私は、いつのまにか女中の手下にされていた。

私は25年前にこの地を後にし、会うべき友人も、知り合いもなく、隣近所は家族さえ付き合いもなく、携帯だって持っていない。家族は全員外に出ていて、家には私とマリと、ボケが激しい102歳の舅しかいない。一人で散歩に出るにも危険がありすぎ、方向も道もわからず、店の場所さえ聞けば、どこにあるかを教えてくれずに、女中が買い物に行ってきてしまい、結局、自主的に買い物を始めたのは、今日なのだ。(この国の「店」は日本とはかなり違って、外見からわからない。自由に客が入れる店ではなくて、せまくて暗い格子のはまった窓口から「なになにがあるか」と聞かないと、買い物ができない。スーパーはあるが、かなり遠く、杖ついて荷物背負って歩くのがかなりつらい。))

それまで家の中に缶詰め状態で、鍵さえ女中が預かって、出て行くので、たとえ私に外出の機会がなくても、地震が起きようと家事が起きようと、対応できない状況に私は置かれていた。それでも家族はこの国の永住権を私のためにとろうと画策していた。私は娘の介護のために来たのだ。娘が元気になったのなら、こんな状態の生活を私が続ける方が不健康だ、永住なんかする気はない、と、何度も私は主張した。こんなの「生活」じゃない。拘置所だって、仕事は与えられている、運動の機会もある。なんでこんな待遇を受けるのが「家族の愛情」なのか、理解に苦しんだ。

こんな状態でここにいるべきでない、早く日本に引き上げたい、と私は何度もつぶやいた。