人間を色分けすることについて。

 
鶏の声の違い
 
日本の鶏は「虚仮国交」となく。アメリカの鶏は「クックドゥ―ドゥルドゥ―」となく。スペイン語圏の鶏は「キッキリキー」となく。ただ、誰も鶏自身に意見を聞いたことがない。
 
私は3カ国の鶏と付き合ったことがあるが、実は同じ鳴き声に聞こえた。客観的にモノを聞くと、それほど違いがないことを、人はああだこうだという。
 
自分の耳や目しか基準にしないで物を言えば、盲人が象の定義を言うに等しい。
 
政治家がツイッターで「左翼の糞ども」という時、彼は左翼の定義を念頭に置いてものを言っているのでなく、「おまえは気に入らない」という意味であって、それは悪口にすぎない。政治家が「当時の軍隊に慰安婦は必要だった」と発言するとき、その前後関係がどうあろうとも、どんな理由があろうとも、世の中の女性は一斉に反応し、彼は政治生命を失うほどの結果を招く。私がその発言者の言葉の背景に、「否定的ではない」言葉を発したら、「おまえは右翼だ」とある教え子に罵倒された。私はかつて、天皇陛下の孫の愛子ちゃんのことを「かわいい」と一言言ったら、その時も「おまえは右翼だ」という批評を受けた。しかし私は学生時代ベトナム反戦運動のデモの中に身を投じ、反米思想を持っていた「左翼の糞ども」の一人であった。
 
「ものすごい勢いで高齢化社会が来る」という言葉が蔓延している。冗談じゃない。人は誰でも1年に1歳しか年をとらない。老人ばかりが「ものすごい勢いで」年とっているわけではない。同時に老人がいきなり増えたのでなく、赤ん坊が1年ごとに年を重ねただけだ。
 
国策によって、人口抑制をすれば、子供が増えない。そういう国で若者と老人の人口比を比べれば、老人が多いというのは、当然のことで、なにもじじばばが「ものすごい勢いで年とっている」わけではない。変な言葉を意味もなくとなえて騒ぐのは、マスコミの操作であって、マインドコントロールは何も新興宗教の専売特許じゃない。
今、「兄弟が多い」という言葉は、3人くらいの兄弟のことらしい。私は9人兄弟で育ったというと、カトリックだからだろうと人はいう。カトリックと9人兄弟の間に、何のつながりもない。旧約聖書天地創造の物語を持ち出して、ヤーヴェが人間を作って、「産めよ増やせよ」と言ったから、というならば、それはユダヤ教の精神で、イエスが出てきて以後のキリスト教諸派の教義に、9人兄弟を奨励する文言は見つからない。ましてカトリック修道院などというものを発明して、独身主義の男女を大量に生みだした教団だ。
 
人は、他人のことを表現するとき、特定の個人の特に目立ったへんてこな行動を、その所属する集団の特徴だと思いこむ。私は鼻にアレルギーがあって、どこにでもガーゼを持ち歩いて鼻をかんでいる。だからと言ってカトリックに鼻をかむ教義というものはない。それどころか、私の所属する教会は、私がどんな人間かを知っている。「教会が一丸となって」署名活動をしたり、反対運動をしたりするとき、私は自分の精神とあわない活動に「ついでに、とりあえず」名を連ねたりしない人間だ。
 
私はボーンカトリックで、かなり厳しい家庭で育った。地域の祭りに参加したこともなく、神社や寺院に出入りしたこともなく育った。太平洋開戦の直前に生まれ、敵国宗教を報じる輩として、一家は地域社会から孤立していた。私は今でも育った地方に足を踏み入れることを躊躇するほど、あの地域から疎外されていた。
娘を日本で育て始めたとき、私はその経験を思った。娘を地域から孤立させないために、私は日曜に行われた地域の祭りの子供神輿に、教会を休ませて娘を参加させた。自分の宗教は他人に押し付けるものではないということを、実は、私はラテンアメリカ生活の中で、文化も宗教も言語も奪われた民族の悲哀を見て思った。
 
私は所属教会がこぞって活動をした「閣僚の靖国神社参拝」反対の署名運動に、署名するのを拒んだ。私はかつて靖国に行ったことがない。参拝目的で行こうとも思わない。しかし私には反対運動をするほど、その問題を問題だと思っていない。
 
戦争をすれば、必ず両方に傷がつく。傷を抱えて生きていくのは勝者も敗者も同じだ。犠牲者は両方にいて、どちらの将兵も自国のために戦って死んだ。勝とうと負けようと、遺族の悲しみに差別はない。一国の総理を殺した安重根が犯罪者でなく英雄なのは、何も世界や人類共通の真理ではなく、朝鮮民族の言い分である。ルーズベルトトルーマンが広島長崎の一般人を原爆投下によって大量殺戮したのは、「あの時は必要だった」とは言えないほどの人類に対する犯罪そのものだと、私は思う。それでもなおかつ、世界の常識では、ルーズベルトトルーマンが英雄であり、原爆の被災者の救済は日本の政府が行っていることを、誰も不審に思わない。
 
中国は人殺しであろうと盗みであろうと、中国人の日本人に対する犯罪は「愛国無罪」とかいう論理がまかり通る国らしい。ある国が、自国を愛する行動が殺人であっても盗みであっても、「愛国心」によって引き起こされた行動だというなら、第2次世界大戦で戦った東京裁判の被告であった日本の指導者や将兵全員、「愛国無罪」であるという論理も成り立つのだ。それがまかり通らないなら、中国や韓国の「愛国無罪」も成り立たない。
 
自国のために戦った将兵を、日本古来の宗教の精神で、まつる神社を靖国というなら、敗戦国といえども、戦死した将兵の墓参りくらいしていいだろう。日本の神は「成るもの」であって、基督教国が奉ずる「ヤーヴェ」とは、固有名詞でなくて「ありてあるもの」、「自在」という意味だ。誰も日本の将兵が「ヤーヴェ」になったと言っているわけでなく、日本本来の「神」になったと言っていっているのだ。古来日本の「神」とは「もえいずるあしかびのごとくなりませる」ものであって、「自在」ではない。
 
私は北朝鮮の政策を正しいと思ったことがないし、この国を前向きに評価したこともない。しかし、世界一強大な核兵器を持ったアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国が核兵器を持つことは正しいなら、北朝鮮とイランイラクは持ってはいけないという大国の常識は非論理的である。核保有はどの国が持っても危険であって、北朝鮮の核保有だけが危険であるという論理が成り立たないと主張する北朝鮮の姿勢が、特別不正であるとは思えない。
 
ある政治家が、病院で名前を呼ばれず、番号を呼ばれたことに腹を立て、おれは囚人じゃないと言って診療費を払わずに帰ったという記事に対して、ごうごうたる批判が起きてブログ炎上したそうだ。その結果、彼は自殺に追いやられたという。


橋下発言もそうだが、彼らが「政治家」でなければ、一理ある発言だと、私はこっそり思う。私は病気の時、だいたいが近くのクリニックを利用していて、大きな病院に行かない。だから、私は規模の小さいクリニックで、名前で呼ばれる。しかし、帰国してから、どうしても近所に内科の診療でなく、病院の診療が必要になって、昔何回か行ったことのある大きな病院に行ったところ、名前が番号どころか、すべてがコンピューター化されていて、とまどった。


初診のため、症状などの記入をしなければならないところも、全部コンピューターに打ち込まねばならず、「人間の声」など全く聞こえなかった。「病院というところはこんなところじゃないはずだ」と私はその時思った。其の記憶があったから、私はごうごうたる非難を受けて、ブログ炎上の結果、自殺に追い込まれた其の政治家を気の毒に思った。
 
そういう些細な「思い」を一言でもいおうものなら、人は私を「右翼の野郎め」「左翼の野郎め」とののしるだろう。右翼がなんたるか、左翼が何たるか、まったく言及することなく、「おまえは何々である」と決めつける。「おまえのいったこの部分は、この理由でもって、反対である」というなら、議論の余地もある。ただただ相手を白黒塗って色分けしてから、罵倒するなら、罵倒する人間の知性の欠如を物語るのみで、相手にするに足りない。
 
鶏は本当は何を言っているのか、鶏に聞いてから「虚仮国交」となくのはけしからんというべきである。
 
私はどんな政治団体にも属さず、どんな宗教団体の代表でもなく、どんな地域からも孤立した、自分の思想をもった孤独な婆さんである。