無用と有用の狭間

ドアノブ掛けは本来書道用の、文字を書くものらしい。自室のドアに、短歌などを書いて掛けるものかもしれない。使用中とか外出中とか書いておくものか、よく知らない。でもこれを、ある書道用の文房具屋で見た時、絵に良いなと思った。

絵を描いてみたら、買ってくれる人もいる。壁にかけてもよし、または丸い穴が大きいからテーブルに置いて穴の部分にコップを置いて花を生けるのも良い。どのようにして楽しんでくれてもいいのだ。

あるサイトに、ドアにこんなものかけたら邪魔じゃないか、あほらしいとコメントしてきた人物がいた。自分が邪魔だと思ったらほっときゃいいのに、わざわざ営業妨害をしてくる。数点売れたけれど、この「絵を描いたドアノブ掛け」を買ってくれてドアノブにかけている人は一人もいないのを私は知っている。

ものというものは、本来どうあるべきと言うことはない。薪を枕にして寝る人もいるし、瓦礫や割れた茶碗を芸術にする人もいる。短いスカートに長ズボンを履き、さらにその上に短パンをはいたようなファッションも、私の時代なら気ちがい沙汰だった。

人間だってそうだ。常識はずれな人間も使いようがある。生きていてはいけない生物なんてなにもない。蚊も蠅もゴキブリも研究材料になる。

今の世は、アングロサクソン族の始動による経済的合理主義を真理とすることから成り立ってきた。美術も宗教もすべてその影響を受けた。日本はもともと、言霊の国、八百万の神々の国で、物事の奥底に漂う見えない物を感じて良しとする人種によって支えられてきた。

経済的合理主義は多くの面で「便利」であり、物事の白黒をつけるなら単純で面倒がなくて良い。

経済的合理主義を絶対的真理とする学校教育で最優秀とされた人物には、私が、合理的には無意味に見えるオカルト趣味の心の呼びかけを信じてやってきた行動によって、経済のすべてを瓦解させ、多くの善意の友人たち

に支えられて生き延びようとしている姿が、ただ「みっともないこと」と映るらしい。自分だってみっとも良いとは思っていない。今は助けてくれた善意の友人たちに感謝することができるだけだ。

その優秀な人物は、私が今苦しんでそれでも友人たちの支えによって立ち直ろうとしている時に、見るに見かねたんだろう。

他人の善意に頼らず、自助努力として、住んでいる自宅を売れと言ってきた。生活に無用な絵を描いて買い手を期待すると言う、反経済的な努力は、経済的合理主義の真理を教えられた学校で優秀だった彼女は、自助努力とは考えられないようだ。しつこくお前の住んでいる家を売れと言う。1回や2回じゃない。とうとう、ブログと言う公の場で、公開状を送ってきた。しかも匿名という手段で。匿名とは自己防御を忘れず、自分だけは傷つかず、相手だけを公に傷つけることに他ならない卑怯な手段だ。ブログ炎上と言う結果を招く公開リンチに発展する事もありうる手段だ。

何も相談を受けていないのに、他人の人生に割りこんで、ホームレスになる事を勧めることが非常識だとは考えてもいない。他人に頼るくらいなら生きる地盤を失うほど自分が苦労して見ろと言いたいらしい。そのくせ自分は自宅を失った経験でもあるのか、といいたくなる。

私は実家で子供の時から自宅が人手に渡って苦しみ、奪回のために戦い通した母の人生を目の当たりにして育ってきた。家の権利書を有事の際のいの一番の持ち出し物件として幼い子供達に言い含めてきた母の姿を見てきた。その母の家を売って、兄弟で6等分して買ったのが今私の住んでいる家である。母の庭のにのこされた植物を彦生えを取ってきて移植し、泥鰌と金魚を引き取り、母が大事にしていたツバキを真中に植えて、母の墓標とした。私はこの家に他人が口を挟むことなど、思いもつかなかった。腹立つ前に、ほとんどあきれてものが言えない。

母の霊をこの家に持ってきた、という事は、経済的合理主義の信奉者にとって、意味不明のオカルト趣味だろう。

経済的合理主義によって物や人間の価値を決めつづけたら、世の中おかしくなる。学校教育と言うものは経済的合理主義を真理として成り立っているから、その真理から外れる物や人間を無用のものとして扱う。無用にされたゴミの山に、人々が苦しもうと、無用にされた人々をそれぞれの分類によって施設にぶっこもうと、経済的合理主義の真理によって、問題は解決しない。どんどん崩壊の方向に進むだけだ。