naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

今度は医療の問題(1)

日本人は、既成事実を曲げる事を好まない人種だ。この日が花見と決めたら、土砂降りになっても花見に行く。時間厳守を遂行しようとして、乗客もろとも電車を暴走させて事故を起こすのも、「真面目な」日本人。

詐欺の話はともかくとして、老人医療に関して思う事。
いろいろなニュースを見ながら思いだすのは、平成2年に見送った母の事だ。

母が末期がんで、もう余命数カ月の宣告を受けた時、兄弟の合意で母は自宅近くのカトリックホスピスに預けることになった。兄弟の合意と言ったって、私はその協議に参加しなかったから、どのような形でそう決まったのかよく知らない。私の一家はボーンカトリックで、母の死を迎えるなら、カトリックの施設がいいだろうと言う事になったらしい。

私は後で、母がその施設に収容されてから、お見舞いという形で一人で母に会いに行った。

母は不安な面持ちで私を見ると、「ああ、やっと来てくれたの」と言った。「やっと」ってなんだろう…。不審に思った私は、母の状況を直接聞いてみた。そうしたら、母は私の腕をつかみ、「どうか、助けて」というのである。

誰も介護しなくていいから、武蔵境の、お父様のなくなった家の畳の上で死にたい…。え…

よくよく聞いてみた。そうしたら言うのである。

「ここは試験的に始めたばかりらしいホスピスで、毎日毎日見学のために、まるで巡礼団みたいのが押し掛けてくる。その人たちが一々、頑張って とかお大事に とか声をかけていく。こちらは死にそうな一人の病人だけど、あの巡礼団は元気な複数の人間だ。病人を見たら声をかけることが礼儀なのかもしれない。礼儀に対しては礼儀で答えざるを得ず、声をかけられるたびに「ありがとうございます」と答えれば、あちらは集団で、こちらは一人の死にかけた老人だと言う事が理解されない。くたびれる。落ち着けない。いらいらする。

お兄さんたちはカトリック信者の最後だからカトリックらしいところで死を迎える方がいいと言う。カトリック信者らしい死に方なんて、この歳になって元気に生きている人間から言われたくない。誰にも言われなくたってもう80を過ぎたら、指導されなくたって死ぬための心の準備もできている。知りもしないシスターたちの、知りもしない聖歌をきんきん聞かされて静かに死ねるか。

それだけじゃない。ここが死を見送るためのホスピスだということの意味を理解できるか?毎日毎日、隣の人、斜めの人が死んでいくのを見て暮さなければならない。人のうめき声、唸り声にさらされた揚句、収容されている人が死んだらしいことを毎晩毎晩感じさせられる。いくら死ぬからって毎晩こんなことで静かに死ねるか!

ものすごくよく分かった。それがたとえわがままという批判を受けようと、母のこの言葉がよく分かった。88歳の母の死にざまを50,60の鼻たれ小僧に指導されてたまるかという母のいまいましさも痛いほど分かった。毎晩死者を見送る悲しさを、「仲間として味わわされる」死に行く運命の母の気持ちがどんなものか、少しは想像でした。

何とかしようと私は思った。

追記:26年前の話です。医療の現場は研究も進んで変わっている事でしょう。死んだ者の意見は聞く折がないと思うので、ちょっと思い出して書いてみましたが、逆にケアする側の方々のご苦労はほとんどわからない人間の言う事です。付け加えておきますと、母が退院する際、車に乗る直前に、病院に向かって、なにもいわず、深々と頭を下げました。一人の看護婦さんが松戸の私の家に母を搬送する車に、ずっと同行してくださいました。わがままな人でしたが、最後にすべてに感謝して逝きました。