文字と連想

「獄舎」とは凄い文字だな。

獣偏がついた話す犬を飼っておく所みたい。おのずと巣鴨だの網走だのという歴史的「あの施設」を連想してしまい、人間社会の外に住む事を余儀なくされた「話す犬」扱いの人々を想像してしまい、つい最近のニュースにあった母、祖母殺しで逮捕された少女のセリフなどを連想してしまった。

その少女はニュースによると、母、祖母殺しの理由として、「現状を替えたかった」と言ったそうだ。そりゃ、希望通り「現状を替える」ことはできただろう。獣偏がついた話す犬の収容所に住むと言う事を選択したんだから。

実は、雨宮神父の聖書講座が始まったのだけど、時間も合わず、場所も遠くなったので、残念ながら欠席している。講座の内容を友人が送ってきてくれて、読んでいるのだけど、実に興味深い。「イエスの史実性」についてらしい。

エスらしき男の存在は、聖書以外の記述にもあって、当然、「人間」としてのイエスの実在の証だけど、同時代で、「イエスは神の子」という信仰を抱くのは、無理だっただろうから、人間として実在の証拠品で結構だ。

で、内容はともかく、その記述の中に、その「獄舎」という言葉が出てきた。漢字というものは極めて優れた表意文字だけど、その文字から、人間の感性や文字を作った社会の思考までわかるから、考えさせられてしまう。

まあ、私は全く聖書と無関係な話をしているんだけど、およそ、目に見えるもので、人間や社会と無関係というものは、無いな。

エスの実在の証明は、ともかく、問題は、「どのように実在したか」という事だろう。「どのように」の部分は、ほとんど信仰の分野に入るから、証明という科学捜査はむずかしかろう。