宏子ちゃんが逝った

昨日、友人のお通夜に行ってきた。娘がエルサルバドル滞在中に、手術をしなければならなくなり、私が日本で一人暮らしの間詐欺被害にあって無一文になっていたときだったので、旅費も工面できなかった。その時旅費を提供してくれた友人だった。借金はいまだに返していなかった。

負債を負っている事が引っかかって、出来るまではと連絡をとっていなかった。何度か電話連絡をしたのだけど、電話をとる人がいなかった。年賀状のやり取りはしていたので、私は彼女が自分で書いていると思っていた。病気の内容をまったく何も知らされなかった。

最近になって別の同級生から、彼女が重篤な病気だという事を聞いて、心配していたが、連絡の方法を失っていた。

昨日ご遺族の発表で、何と2年間こん睡状態だったという事だった。御嬢さんが生き返る事を信じて2年間にわたってマッサージを続けたそうだ。其れは其れは気丈なお嬢さんだという事をしっている。

でもすべてが終わった。自分も同じ年齢だから、いつどうなるか、わからない。だからか何か知らないが、しきりに『死』の意味が念頭をよぎる。
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私はたぶん、幼女のころから家族の死に立ち会って見送ってきたのと、その後も友人や身近な人々を見送ってきたせいもあって、その後の精霊みたいな存在を意識する事が多かった。これは宗教の別や、各宗教の決まりを超えて、あまり、死んだ、消えた、非存在、想像の上だけの存在のつもり、という感覚がない。3歳の時に亡くなった姉はいつもそばにいたし、8歳の時に亡くなった父はいつも斜め前方に実在していた。肉眼と心眼の区別なんて、考えた事がない。のちに異国の内戦の中に8年生きて、人の死は身近にあった。人の存在を生と呼ぶべきか、「生」が目に見えなくなった後の物体をなんと呼ぶべきか、まだわからない。

この世で交流を深めた人の精霊は、むしろ生前よりも身近にある。私はこのような話を『主張』したいわけではない。新たな宗教を作りたいわけでもさらさらない。このようなことをいえば笑うだろう人々の存在も知っている。

信仰も信念も思いも、わざわざ大声で合唱しない方がいい。神なる存在が真理なら、この世の人間が大声で叫んで信じるぞ信じるぞと言わなくたって、存在そのもが亡くならない。信仰などどうでもいい。まして、自分の意思無関係に生まれた場所によって呼び名の違う存在を、呼び名の違いによって、宗教戦争など続けるのは、ただの人間の自我の衝突にすぎない事を、私はしっている。