naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」7月19日編

孤立の中で(1)

「ラビダの生活:ロビンソン園」

 

コロニアニカラグアの家が軍隊の駐屯地に近いことから、町が物騒で買い物に出て行くの危険だった。情報がほとんどなくて、今出ていくのが、安全か危険かを、いちいち自分の耳をそば立てて町から聞こえてくる音を聞いて判断するしか方法がなかった。そこで私たちはもう少し安全なところに家を探して引っ越すことになった。

 

引っ越した家はラビダという町にあって、エノクの実姉のうちも歩いていけるところにあった。メルカードは少し遠くなり、歩けないこともないが、主人が帰国する日本人から中古車を買ったので、いっしょに買い物に行けばなんとかやっていけるだろうと考えて決めた。

 

家は部屋数が多くなって、電話もついている。広い客間があって、今までみたいに壁が剥き出しのコンクリートではなくて白かったから絵を飾っても映える。壁にはグアテマラのインテリアをあしらったら、趣のあるきれいな家になった。

 

 

奥には中庭があり、洗濯場と女中部屋がついている。台所も広く明るい。

 

うれしいことに家の前に小さな土つき庭があって、植物が植えられる。人が長いこと住んでいなかったと見えて荒れていたが、とにかく使える土がある。前住んでいたうちは堅固だったが庭はコンクリートだらけで、鉢植えしか楽しめなかった。

 

帰国した日本人が大きなサボテンの鉢を置いていってくれたが、前の家は屋内の採光が悪かったので表玄関の入り口においておいたら、夜の間に盗まれてしまって、それ以後緑のない生活をしていた。

 

広さ3坪ほどだが土のある庭だ。日当たりのいい通りに面しているが、通りから一段高くなっていて、ブロックの囲いもある。そのあたりは中流の屋敷が多くみな同じような形の家が並んでいる。貧富の差が激しいと、いろいろと近所と摩擦があって面倒なことになるが、危険な軍事施設や貧民窟も近くにはない。

 

せっかくできた初めての人間関係を失った私は、この土の存在に大いに喜び、土をいじって楽しめると思い、手に入ったありとあらゆる種を植えた。この国の料理には欠かせないクラントロ(香菜、コリアンダー、パクチ)という一見パセリみたいな野菜、カシューナッツの実がなるマラニョンという果物の種、アボカドの種。メルカ-ドで仕入れてきたいろいろの野菜の種、それからいろいろな草花。

 

日本では見られない珍しい植物は芽が出るのが楽しみだった。毎日毎日庭に出て、蒔いたところに水をやり、芽が出ていないか確認した。

 

マラニョンの芽を見たときはうれしくて、周りに穴を掘ってどんな芽の出方かを見て、スケッチをしておいた。クラントロは栽培の仕方が悪いのか芽が弱々しく、囲いをしておかなかったので、鳥についばまれてしまった。

 

これは何度試しても失敗したので、多分この土地では栽培できないのだろうとあきらめた。アボカドのことをここではアグアカテという。日本に住んでいた当時、日本では見られない植物だったので、この国に来た当初は、気持ち悪くて食べられなかった。

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アボカド 

塩とレモンをかけてそのまま食べるのだが、ラム酒のつまみにして少しずつ慣れていくうちに、大好きになり、手で触って食べごろをはかって買う方法も覚えた。

 

そのアボカドのつやつやとした紫がかった新芽を見たとき、うれしくて歓声を上げた。でもこれは木が大きくなり、実がなるまでに日本の枇杷みたいに何年もかかりそうだった。

 

農具を買ってきて、毎日耕した。生ごみを埋めてミミズを呼ぼうと思った。ミミズによい土を作ってもらおう。これも母の見よう見真似である。とにかく土があるといろいろなことができる。大地は人間を健康にする。

 

戦後、父の趣味で作ったきれいな庭をつぶして畑にしたから、私は家庭菜園のノウハウを見よう見真似で覚えた。ジャガイモを芽に合わせて切って、その切り口に灰を塗って、雑菌がジャガイモを壊さないようにする方法も、昔畑で兄がやっていた。

 

あぜを作る方法も植え替えたときの水の世話も、ただジャージャー流せばいいのではないことも、私は子供のとき覚えた。どんな体験も使おうと思えば使えるものだ。困窮していた子供のころのあの経験をフルに生かすことができる。そのことに気付いたとき私はすごくうれしかった。貧乏と、貧乏の中でおぼえた工夫が今生きる。子供のとき、苦労してよかった!

 

そんなことをしながら、私は子供のころ愛読した分厚い明治の初版の「ロビンソン漂流記」をおもいだした。あの本は特に好きで何度も何度も読んだから。昔の本は漢字すべてにルビがついていたから、小学校に上がる前から読めた。あの「ロビンソン漂流記」は高学年になるまでの愛読書で、本当は兄の所有物だったが、自分の本棚に入れてあった。

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無人島のロビンソンの生きるための工夫。動物から身を守りながら、その動物を馴らして囲いの中に入れていったロビンソン。鳥が食べない木の実と食べる木の実を観察して、何が食べられるか何に毒が入っているかを分類しながら、それを採取して畑を作って行ったロビンソン。

 

そうだ。私はロビンソンなのだ。土を見て子供の時の夢を楽しみながら、私はこの困難な時代を乗り切る自信が沸いて来るのを感じた。だから私はこの庭を子供のころのロマンを胸に、「ロビンソン園」となづけた。

 

しかしロビンソン園は成功しなかった。日本の友人たちに頼んで、日本の草花の種を送ってもらい、シソのような日本独特のものを植えたら、花が見頃になり、楽しもうと思うころには何者かが畑を荒らして、きれいな花を根っこごと盗んでいった。私が楽しみにしていたマラニョンやアグアカテさえ、ある程度伸びると根こそぎ持っていかれた。

 

多分メルカードで売ったのだろう。ここに引っ越してきたとき、庭があれているのは人が長いこと住んでいなかったせいだろうと思っていた。しかしそうではなかった。お金になるものは何でも持っていくほど、民心は荒れていたのだ。私は買った農具を恨めしく眺め、自分のロマンがほんの一時で終わったことを知った。

 

「孤立の中で」2

神経症になったらしい」

 

エルサルバドル人は、それが民族性なのか、どんな事態の中でも陽気で明るくあまり深刻になったり悲壮になったりしない。もしかしたら、もう内戦という事態になれているのかもしれない。私は何が起きても深刻になりやすい日本人で、死体を飛び越えて買い物に行くような状態に、「慣れた」からといって何も感じなかったわけではなくて、激しく深刻に考えを深め、人との付き合いがない状態がそれに拍車をかけて、心は異常事態に飛び込んでしまっていた。

 

だから私が死ぬほど深刻になっているかたわらで、「今まで神様が守ってくれたのだから、これからも守って下さるさ」と言って平気な顔をしている「何とかなるさ民族」のエノクの言葉にいつも救われていた。(エノクはキリスト教徒の家庭で育ったが、自分は信者ではないと言っている。)

 

彼の楽観主義に会うと、私の心は子守唄を聴いて眠る子供のように安らぎ、心の緊張がす~~と消えていくのを感じた。自分は「とんでもない」生活をしていると言う意識を感じない為の安定剤の役割を、エノクの言葉は担っていた。

 

私はこの家で暇に任せて「記紀の研究」を再開し、同時にこの際絵を描いてみようと、エノクがイタリア土産に持ってきたイーゼルに、町で大きな文房具屋を見つけて買った画帳を載せた。文房具屋では、いろいろ絵に必要かなと思われるものをめくら滅法に買ってきて、いつものとおり何もしないくせに準備だけして満足して心の安定を保っていた。

 

研究材料があり、本があり、家の中を自分の思うように整理し、そして絵が描ける環境が整えば、私は私の世界に生きているような気分になる。電話があるからその気になれば電話もかけられる。実は電話をかける相手なんかいなかったのだけれど、「ある」と言うことはともかくポジテイブなことなのだ。それでやっと自分らしい生活を満喫できるかもしれない。私はいつもこういうロマンを心に描き、現実を離れて落ち着こう落ち着こうと努力した。

 

私の記紀神話の研究のきっかけとなった昔の教え子の崔さんが「記紀の研究」に協力を惜しまず、よく新聞の切り抜きだの新刊図書だのを送ってくれたので、ロビンソン園の夢に失敗した私は、昼夜を分かたず「記紀神話研究」に没頭し始めた。

 

そのうち原稿用紙がなくなり、困った。しかしそんなつまらないものをわざわざ日本から送ってもらうのは面白くなかったから、主人に頼んでたまたま持ってきていた日本の原稿用紙を大量にコピーしてもらった。紙の質が悪くて、インクがにじんだが、ひとまず原稿用紙の問題は解決した。原稿用紙にこだわったのは、私はこの研究をどこか日本の雑誌社に送って出版しようともくろんでいたからである。

 

私の熱中振りを見て主人が言った。「そんなまとまった研究があるのなら、僕が大学の仲間を集めてやるから、スペイン語で講義をしないか。パネルも使って、表なども作ってそれだけの講義やったら面白いよ。」

 

それを聞いてものすごくうれしかった。しかし私は大学で講義ができるほど、スペイン語には自信がなかった。エノクに何回かスペイン語の学校に通わせてくれるように頼んだが、危険地帯をバスを使っていかなければならないので、なかなか実現しなかった。

 

私のスペイン語歴は浅い。大学の第2外国語はフランス語だった。私に当時、よくアルバイトを斡旋してくれた恩師が、東京にオリンピックが来た年に、スペイン語の通訳の口があるから、スペイン語をやれと言い出して、「あいよ!」といって始めたものの、当然のことながら、ものにならなかった。何しろオリンピックの始まる2週間前ですから^^。言うほうも凄いけれど、その気になるほうも凄いかも。

 

しかし、そのときスペイン語を学び始めたのがきっかけで、私の人生は大きく変わったのだ。あるスペイン人のシスターと出会い、彼女に命を救われる経験までして、その後スペインに任地が変わった彼女をしたって、スペインに行き、言葉なんかどうでもいいから1年間当地に遊学した。

 

しかし私のスペイン語力は、独学時代と、大して変わらず、当時はまだ日本の上智大学が出している「スペイン語1年」という教科書から、一歩も出ない語学力だった。

 

まだ語彙が少なくて新聞も読めず、議論なんかには参加するほど、日常会話ができなかった。この計画は今でも惜しいと思っているのだけど、大学が軍隊に占拠されたままだったのと、私の神経症が理由となって、友人たちがうちに集まらなくなったのとで、この千載一遇のチャンスは実現を逃してしまった。

 

家が広くなったせいか、または私の接待が日本的で、「ものも言わずに食事を出しつづけるあの大和民族の奥さん族の特性」を生きていたからか、ほとんど毎週主人の友人がこの家に集まってきて、わいわい騒いでいた。フランシスコのパーテイーもそうだったが、こちらの奥さんは台所に引っ込んでせっせと食物を生産している日本の奥さんとは正反対で、パーテイーの中心にでんと構えて、まったく動かず、ご主人たちがバーテンになって忙しくラム酒の調合をしている。

 

食事がでるとご主人が我先にお皿を持って飛んでいって、自分の奥さんの好きなものを取ってきて、自分たちは食事をせずに奥さんの傍らで飲んでいる。何かある種の動物がメスに餌を運んで好意を得ようとする行動に似ている。

 

私はそれが恥ずかしくて、初めのころ、主人に「お願いだから私のために食べ物を取ってくるのはやめて」といったのだけれど、それを聞いていたほかの客が「ここじゃ、早く持ってきて食べないと、遠慮する奴なんかいないから、何も食べられないよ」、といっていた。これがお国の習慣である。

 

8年いるうちに慣れてきて、私も最後は真中にでんと座って動かなくなったけれど、ラビダに越してきたころはまだ私は日本的な奥さんだった。 

 

彼らはよく歌い、よくふざけ、よく議論をし、よく食べてよく飲んだ。マルタの兄弟がギターを持ち込んで歌い、そういう時間は内戦なんかどこ吹く風と、誰もが生きていることを楽しんだ。

 

しかし母国語をまったく話せない状態で、国の家族とも連絡がなく、仕事もなく、本と植物を相手にしていた私の神経は、日に日に病んでいった。

 

毎月毎月からだの調子が緊張状態になると、私の神経も極度に緊張状態になって、彼らの笑い声さえ気に障り、ちょっと品のない冗談にも、激しく反応し、すぐに怒りとなって爆発した。

 

彼らの一人が私が日本から持ってきた、昭玉の遺作の日本人形を見て、品のない戯言を言って笑ったとき、私は彼にものすごく激しく抗議した。

 

「日本文化を侮辱するな、この野蛮人め!」と叫んだのである。その人形は、普通外国人が日本文化の紹介のときに目にするような、藤娘のような類の人形ではなくて、多分、彼らにはわからない、芸術的に高度な作品だった。

 

古典的な雛人形がほしかった私が、日本を出るときに探し回って、男女一対の古風な人形を見つけたのだ。母がそれを見て、「立派なものをよく見つけたのね」と感心してくれた逸品である。芸術性のほとんどない内戦の中の荒れた中米で暮らしていた私の、心のよりどころであった。

 

私の怒りに驚いた主人の友人は、そのときは彼のほうから謝ってちょっとしらけただけだったが、彼らは私の神経の状態を当然のことながら知らなかった。

 

そうしたある日やってきた彼らは、再び酔っ払って、家中を勝手に探索し、私が描きかけていた主人の肖像画にひげを描いていたずらした。

 

そのとき、私の怒りは頂点に達した。逆上した私はつかつかと筆を持っている男の前に行き、筆をもぎ取って叫んだ。

 

「この絵に触るな、あなたみたいな人にこの絵を触る権利はない。すぐにこの家から出て行け!」

 

私は多分そのとき結婚以来この国の状況に我慢しつづけていたこれまでのすべての問題や、寂しさに耐えてきた神経の緊張が一度に沸騰して、それほどたいした問題でもないことをきっかけに爆発したのだろう。その形相を見て驚いた彼らは急いで引き上げ、それ以来ほとんどこの家にこなくなった。自分だって自分の「形相」など見ていないから知らないけれど、般若の面だったんだろうなあ。

 

この国の人々は愉快で愛情深い人々だったが神経が粗雑で、芸術を愛するほどには、心に余裕がない時代を生きていた。

 

一方私のほうは、芸術家の家庭に生まれ、この国に来てから美に飢えていた。だから、日本から持ってきたものをとりわけ大切にしていたのである。日本の陶器、日本の人形、日本の食器、そして着物、それらはまるで私の心の日本を祭った祭壇であった。

 

ましてや、私はエノクが買ってきたイーゼルに向かってざれ絵を描いていたのでなく、素人芸とはいえ、自分が心の支えにしている主人の肖像画を描いていたのだ。下手であろうと上手であろうと、その絵に触れられることは土足で祭壇を駆け上がられることと同じであった。

 

しかし私の言い分がどうあろうと、私はこの家を楽しい家だと思って集まってきていた主人の友人を全部追い出してしまった。

 

彼の愛する人々を、こともあろうに私が「野蛮人」とののしった。こうなったらエノクは私を赦さないだろう。

 

みんな本当は朗らかで無邪気な連中である。しかし私は彼らの無邪気な行動にいちいち日本文化への侮辱、芸術への侮辱、無理解、文化程度の低さというような、彼らが考えてもいなかったすごい課題を突きつけて怒り狂ったのだから。

 

彼らが帰ってから、かなり私は落ち込んだ。エノクに日本に帰れなんて言われたらどうしようと考え始めて苦しんでいた。

 

考えてみれば、私は日本人に自分の主人の愛する民衆を原始人と呼ばれて傷ついていたくせに、結局自分は彼らのことを野蛮人と心に思っている、その内面の矛盾を暴露してしまったのだ。取り返しがつかない。

 

もう後に引けず、言い訳もできず、どんな奇麗事も通用しないことを私は自ら犯してしまった。

 

真夜中、私は主人がどこかで鼻歌を歌っている声に目を覚ました。恐る恐る出ていってみると、彼は例のイーゼルの前で、何かをやっている。

 

見ると彼はさっき自分の友達がいたずらして描いたひげを一生懸命消そうとしていた。

 

私をちらと見て、彼は言った。

 

「悪かったなあ。こんなことしているのを止めもしないで、いっしょに笑っていたりして、彼らは絵なんてわからないんだよ。酔っ払ったら本当にただの餓鬼なのさ。」

 

「ええ?」私はいぶかしく思った。

 

「お友達を追い出してしまって、もう取り返しがつかないかと思ったけど…」私は、友人を見送ってから怒り狂って帰る主人を想定していたのだ。

 

しかし彼はいった。「君はここの女主人だよ。酔っ払いのことは気にしなくていいんだ。この家では君が一番えらいんだ。でも、この絵、直らないかなあ。新しく描きなおさなければだめかもしれない。」そういって、彼は木炭の使い方を知らないものだから、余計ひどく画面を真っ黒に汚していた。

 

野蛮人発言のことは気がついていないみたいだった。気がついていたとしても、酔っ払いの所為にしてそのことに触れなかった。そのことに触れないことが彼の優しさだったのだろう。彼はいつも私が謝らなければいけないときに、自分から話し掛けてきて、神経を病んだ私の心を癒した。

 

孤立の中で(3)

 

「腸チフス、アメーバー赤痢デング熱

 

私は神経やみのせいで、エノクの姉とも仲たがいをした。エルサルバドルの家族というものは独立しても、家族で家族内のメンバー宛に個人的に来た手紙を回しよみするし、兄弟の家なんか行き来自由なのである。そういう事情がわからないから、私は彼の姉の態度に腹を立てた。

 

その手紙のことでとんでもないことが起きたことがある。私は高校時代のあるシスターと連絡をとりあい、その返事が来た時のことだ。シスターは、名前の前に、Sisterの意味で、Sr.と書く。シスターには修道名というのがあって、大体がヨーロッパの聖人名である。その差出人として、Sr.Vincentとあったのを見た家族が、その文字をスペイン語式に、「セニョールヴィンセンテ」と読んだ。

 

さて、ルリコは男と文通しているぞということになった。もう、そのあとは、ご想像のままに。(ばかばかしくてお話にならないからさ)

 

で、ある晩エノクが出張中でいなかったとき、夜も12時を過ぎて、義姉は見知らぬ男性と二人で私のうちにやってきた。連れてきた男は彼女の亭主ではない。

 

彼女の亭主はすでに紹介を受けていたから知っている。彼女は酔っていて、連れてきた相手がちょっと気味が悪かったので、エノクは出張中でいないからといって断ろうと思ってドアを開けた。

 

ところが彼女はドアを押して入ってきて、その見知らぬ男性に、「ここはあなたのうちだからどうぞどうぞといって、椅子を薦める。

 

「あなたのうち」というのは親しい人に対する、「くつろいでください」というような意味合いを込めた表現なのだけれど、私はそのときそういうことを知らず、とんでもないずうずうしい女だと思った。私は自分の弟の留守中に見知らぬ酔っ払い男を夜中に連れ込むこの義姉の神経に逆上し、強引にドアのほうに押し返して、追い出した。彼女は押し出されながら抵抗して騒いでいたが、私は力ずくで追い出した。外で彼女は怒っていたが、私の方も毛を逆立てて彼女よりももっと怒っていた。

 

それからしばらくしたある日、エノクの誕生日がきた。私は腕によりをかけて夕食を特別に用意し、彼を待っていた。このときも私はこの国の誕生日というものの扱いの知識がなかった。まさか、誕生日を言う日が、独立した息子を一生涯その実家で大騒ぎをしてまで祝ったりするような日だという事には気がつかなかった。だから私は誰も呼ばなかった。

 

そもそも混乱の戦後を生きた私は、実家で自分の誕生日など祝ってもらったことがないのだ。だから家族の誕生日なんか書類を書くときしか思い出さない。でもこの国で独りぼっちになってみると、誕生日のお祝いがなんだかとても特別な日のように思われた。だからかなり心をこめ、手の込んだ料理をしたのだ。

 

ところがエノクが帰ってきたとき、それを待ち伏せしていたように、彼の姉が用事があるといって彼を連れていった。家に入ったわけでなく、外で待ち伏せしていて連れて行ったのである。

 

夜も明ける頃帰ってきたエノクに聞いたところ、彼女は自分の家に実家の家族を全部呼んで、エノクの誕生祝をしたのである。

 

私の怒りは頂点に達した。この場合は怒りはもちろん、義姉だけでなく、家族も友人も知り合いもなく、すべての人間関係から閉ざされている、そしてただひたすらに夫の帰りだけを待っている私を一人残して、私が用意した祝いの食事をすっぽかして、実家の家族が用意した自分の誕生祝の席に行ったエノクに向けられた。私は逆上したあまり、病気になった。

 

私は支えであった夫の神経を疑った。やさしさも愛情も疑った。急に私から力がなくなり、私の体は今まで知らなかった病気の巣になった。

 

ある日私は自分が高熱に侵されていることに気がついた。背中はベッドに張り付いたまま起き上がれない。燃える釜の中に入っているみたいで、ただただ熱い。肩で息をし、はあはあと言うだけだった。何事だろうと鏡を見ると顔は真っ赤である。エノクがあわてて私を車に乗せ、医者に連れていった。

 

それは病院ではなく、個人の医者だった。

 

医者はじっと私を見詰め、何も診察らしいことをせずに、「これはチフスだ。」といった。氷のツララを思わせるような鋭い目つきのなんだか曰くありげな医者だった。薬をもらい、帰りの車の中で、エノクに聞いた。

 

「あれ、なにもの?普通の人間じゃない。」

 

「うん。わかるか?」

 

夫は私の眼力にちょっと驚いていった。「ゲリラ側で従軍していた医者だ。国家警察につかまって、拷問を受けた。金玉をつぶされ大腿部は火で焼かれて骨しかないんだ。今も医療活動が制限されているけど、いい腕を持っている。」普通の顔をしてこう言うことを言う。

 

2,3度私はそこに通い、その医者の出す薬の力で治った。彼は限界状態の中で、いくらでも死にそうな病人を治してきたベテランの医師だったのだ。

 

それが治ってしばらくして、私は久しぶりに大好物の牡蠣を食べた。そうしたらその日のうちに激しい腹痛を起こし、立て続けの下痢のため体は消耗し、もうだめかと思った。高熱に侵され体が火照り、あえいで水ばかりがぶがぶ飲んだ。

 

きれいな水どころではない。そんなものはあの国になかったから、洗濯場のため桶の水でなくて、水道の水が飲めるだけ幸いだった。(ただし、ある日本人から聴いたけれど、水道水から糸みみずが出てくることがあったらしい。)

 

またあの医者のところに行った。彼はまたじろりと一瞥を送り、ふん!といった。何も検査したわけではない。問診もせず、触りもしない。何人もその死を見送り、何人も助けてきたものの眼力のみで、診断したのだ。今度はただの牡蠣あたりではなく、アメーバー赤痢だった。

 

それもまた1ヶ月ほど寝込んで治った。日本ではもっと早く治せるのかもしれない。しかしここはまさに野戦病院だった。病人を犯しているのがどういう菌であり、何をすれば治るということを経験によって知っている医者がいるだけで、ありがたい世界なのだ。しかも、ろくすっぽ、薬らしい薬なんかないのだ。

 

その後のことだったが、私は、エノクが学会でアメリカのバークレーに出張だというので、連れていってもらった。一人じゃもうおいていけなかったのだろう。どんな出張にもつれていってくれた。しかしまた、そのホテルでも私は健康ではなかった。バークレーについたその夜、私の頭はがんがん痛みはじめ、頭が割れないように両手で押さえて転げまわって苦しんだ。

 

またきたな!と思った。

 

今度はなんだ?

 

デング熱だった。さすがアメリカはすぐにまともな医者に診てもらうことができ、適切で迅速な処置で頭痛が引いていき、深い眠りに落ちていった。

 

今まで、エルサルバドルで、洗濯場の泥水を飲もうと生の野菜を食べようと、海岸で取り立ての生きた貝を食べようと、元気で抵抗力のあった体は、支えのすべてであった夫に対してわずかな一瞬疑って、支えを失ったと思った瞬間に、がらがらとくずれ、エルサルバドル中にある病原菌を一手に引き受けることになったのだ。

 

それからも倒れては熱を出し、医者に行ってはほんの少しの間持ち直し、体はやせて、貧血ばかり起こし、ぼんやりとベッドの上に座って暮した。

 

もうだめだな、と何度思ったかわからない。