「自伝及び中米内戦体験記」7月23日  

 

「4度目の引越し」

 

大司教の葬儀の混乱によって、どのくらいの人が死に、どのくらいの人がトラックで運ばれて、闇に葬られたか知らない。あの時代、リベルタの海水浴場にいけば、何体も何体も惨殺された人間の体の一部が漂着してきたらしいから、「左翼」は、よほどたくさんの人肉を切り刻んだのだろう。これは「左翼」か「右翼」かはともかくとして、所謂「アメリカの裏庭」で起きたうそ偽りのない歴史的真実である。私は、惨殺現場を見たわけでもなく、死体を海に投じる現場を見たわけでもないから実際は誰が真犯人かは知らない。

 

こういうものは、先に紹介した写真集、「地を這うように(全写真1980-95)」(長倉洋海作)(大日本印刷株式会社)に実録が出ているが、わざわざ本屋に行ってみない限り、決して世界に公表されなかった嘘みたいな本当の話である。

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長倉洋海「地を這うように」

 

エノクは赤ん坊を迎えるのに、あまりにも無防備な家に住みつづけることが、みたび心配になったらしい。もっと堅固で、通りから家の中が遮断されている要塞のような壁のある家を物色し始めた。彼は偶然、もといた家の近くのコロニアニカラグアに、かなり堅固な城塞を見つけた。通りに面した壁は高くそびえていて、外から中の様子がまったく見えない。ドアは黒い鉄格子で押してもたたいてもびくともしない。戦車で乗り込んだり爆弾を仕掛けたり空からアメリカの好きな「誤爆」でもしない限り、つぶれそうにない。

 

実は以前にも書いたが、このコロニアは退役軍人が多いし、軍隊の駐屯地があることで、かなり危険地帯に思えたが、逆にここは決して「誤爆」されることのない地帯でもあったのだ。

 

その家は日本青年海外協力隊員が利用していた、かなり大きな家で、4月15日に引っ越しを完了した時、一人の協力隊員と日エル国際結婚組みのカップルがまだ一組住んでいた。直接通りに面した階下は車がかなりたくさん収容できるガレージだけで、住処は二階になっていた。だから、鉄格子の「入り口から住まいに入るには、階段があり、外部から、中が見えなかった。

 

二階は食堂も台所も客間もベッドルームもみなばらばらに分かれていて、中庭もかなり広く、真中に大きなマンゴの大木があった。周りの木々はみな大きくて、屋根も屋上もすっぽり隠している。

 

家主だった女主人は亡くなったばかりで、家主はその女主人にゆかりのある人らしい。裏の通りに住んでいる。女主人に仕えていた原住民のばあさんが、どこにも行く場所ないから使ってくれといって、屋上にあった自分用の小屋から立ち退かなかった。大きな息子も一緒に独立せずに住んでいるのが気になったが、人がいるほうが何かと便利でいざというときに役に立つかと思って、やとう契約をした。

 

ばあさんは古典的原住民で、生まれたときから靴をはかないから、足が靴のように硬くなっている。長い辮髪を一本三つ網にして、たらしている。ここに暮らしていた青年協力隊の日本人たちが、彼女を「チカさん」と呼んでいた。私たちもずっとその名で通したが、彼女の本名はフランチェスカらしい。伝統的な原住民の名前ではなかった。

 

引越しは体に負担がかかる。時々下腹部にちくちく痛みが走るのを、もう流産もしないだろうと思って、我慢して、部屋の整理をした。本を並べないと気がすまない性格である。本を並べ、絵を飾り、食堂の棚に食器を並べ、家具をどこに配置するかを指示し、さて、ベッドに横になった。そしてそれからまた起きられなくなった。

 

ベッドは今まで見たことないほど大きい。だあーーーーっと四肢を伸ばすと畳を思い出すほど気持ちがいい。

 

人付き合いの下手な私にとって都合のよいことに、夫婦のベッドルームはほかのどの部屋からも遮断されていて、その部屋にいると屋上にいる女中にも、ほかの部屋にいる日エル夫婦にも、まったく連絡が取れない。大声を出してもとどかない。電話はベッドルームから出て2メートル先の廊下にある。これが後で大変なことになることはそのとき予想もせず、静かな環境に安心して、久しぶりに体を伸ばし、よかったあと思っていた。

 

「物を作る猿として」

 

日本の友人が、私が妊娠したと聞いて、まるで男が妊娠したかのようにものすごく大げさにびっくりして、「えええーーつ!あなたでも妊娠できるのお?」とか手紙をくれ、絶対無知に違いない私の理解を助けてくれようと、いろいろ本を送ってきた。その中に新生児を迎えるための衣類の作り方などが書いてある本があった。

 

引越しで無理をして、また体が怪しい反応を示し始めたので、自分で買い物に行くことも禁じられてできなくなり、私はエノクに頼んで、布地をたくさん買ってきてもらった。それで同じ型紙で、色を変えて片っ端から服を作った。エルサルバドルは気温の変化のほとんどない国だから、新生児から大体1歳になるまでの服を何枚かずつ作っておけば、季節の変化で無駄になるということがない。

 

お手伝いのばあさんがいるし、買い物掃除洗濯任せておけばいいので、家事はすることがないから、猛烈な勢いでミシンを踏んで、衣類を大量生産したら、また体が怪しくなり、とうとう足踏みミシンも禁じられてしまった。それで今度は作った衣類に手で刺繍をし始めた。

 

手縫いで作れるものは皆造ってやれと思って、エノクに綿(わた)がほしいと頼んだら、どこからか仕入れてきた。その「綿」、確かに綿には違いない。しかし、精製されていない、畑からつんだばかりの萼も蔕も枝もついた、いかにも「純粋の」おかしくなっちゃうほどの本物の綿だった。彼、そういう精製されていない摘んだばかりの綿を袋いっぱいに持ってきて、「ほら、綿だよ、くれた人が、何をするんだといっていたけれど、何するの?」という。

 

う!私は赤ん坊の布団を作りたかったんだ。実家にいたときから、私は母を手伝って、自家用の布団ぐらい、作っていた。だから、布団の作り方を知っていたのだ。まさか、摘んだばかりの綿の「花」が来るとは想像もしていなかった。

 

でも、私はそれを見て、すごく喜んだ。こりゃあ、ロビンソンの次は、アンクル トムス ケビンだ^^。

 

私はその「綿」には違いない塊から、本気で布団を造ろうと思い、萼や枝を取り除いて、マシュマロのような綿の花を伸ばし、つなぎ始めた。しかし、これだけ小さなものを、赤ん坊用の半畳ほどの布団にするには、かなり根を詰めなければいけない。で、今度はエノクに、薬局から脱脂綿を買ってきてほしいと頼んだ。脱脂綿をベースにしてその上に、この綿を伸ばせば、布団の形に落ち着くだろうと考えたのだ。

 

それでやっと布団は完成し、綿が残ったので、象と、熊のぬいぐるみをこしらえた。赤ん坊の誕生を祝ってくれる人はいないから、生まれたときに数々の用意したもので飾り、写真を撮っておいて、誕生を待ち望んだ母がいたことを、子供が大きくなったときの証拠品として、残しておこうと思ったのだ。父の命も、母の命も、いつ消えるかわからない情勢の中での、生まれ来る命に対する、思いだった。

 

それから、今度は引っ越したばかりで、まだ窓が丸裸でさびしかったから、カーテンも作った。ミシンが使えないから、すべて手縫いである。

 

そのカーテンを若いころテーラーをしたことがあるという舅が見て、すごい技術だといって感嘆していたが、小学校で運針を習った日本人なら全員できることだよといって、済ましていた。日本の義務教育をしっかり身につけておけば、世界のどこでも生きていけるんですよ、私は舅に誇らしげに言った。

 

読み書きそろばん、歴史に科学を手始めに、料理も裁縫も、美術の基礎も音楽の基礎も、スポーツの基礎にいたるまで、当時の日本は、小学校教育で身につけることができたのだ。私はそのとき、自分が受けた日本の教育がかなり誇らしかった。

 

手縫いのついでに、できた衣類にはすべてアップリケだの刺繍だのをしまくり、時を過ごした。この刺繍も、小学校のときに習ったものである。私は小学校時代、実は、月謝滞納で追い出されちゃったけれども、スペイン系のシスターが経営するミッションスクールだった。

 

私はそこで、正規の授業でスペイン刺繍を学んだのである。当時はへたくそだったし、ものがなかったからまともな練習ができなかったが、手はしっかり学んだものを覚えていた。12歳のとき以来刺繍なんかしたことない。しかし手と言うものはすごいもので、再度始めたらしっかりと思い出すものらしい。

 

私はひまに任せてそうやってもっぱら道具を作る猿を演じつづけた。もう日常茶飯事になっている市街戦の音など、怖いとも悲しいとも感じなくなっていた。