「自伝及び中米内戦体験記」7月26日

「子育て日誌」

1)「鳩」

 

コロニアニカラグアは木が多い。この家は古いらしくて、野鳩がすんでいる。パティオに面して二階のベランダから鉢が吊るしてあるが、その鉢の植物を誰も世話したりしないから、鳩が安心して巣を作った。というより鉢を利用して巣を作る手間を省いて、卵を生んだ。鳩が膨らんで卵を温めている様子がベランダからのぞくとよく見える。鳩が今の自分みたいな気がして親しみがわいて、毎日毎日観察した。

 

卵が孵化し、親がかわるがわるえさを運んできて子供にやるのが見える。子供は親の口の中に頭を半分突っ込んで、親が唾液とともに出すえさを食べている。産毛の生えた鳩の雛って、可愛いもんじゃない。むしろグロテスクでさえある。でもそんなこといっていたら、自分の子だって、他人にはどう見えるかわかりゃしない。かわいいものはこっちがかわいいと思ったらかわいいのだ。

 

昔子供のころ、庭のヒマラヤスギに野鳩が巣をかけたが、一羽が先に巣立ってしまったらもう、育ちの遅いのは育てないで、親はどこかに行ってしまったことがある。私がヒマラヤスギに登って置いてきぼりの雛を引き取って育てた。私は鳩が雛にどのような餌のやり方をするか見ていたから、鳩が食べそうな穀類を自分で口に含んで噛み砕いてから親の真似して雛に食べさせたものだ。そんなことを思い出しながら、私は毎日、鳩の親子を見て楽しんでいた。

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窓から眺めて、鳩の誕生を見て、描いた私の絵。

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鳩の2話の子供 

 

あるとき、赤ん坊を見に来てくれた姑が、私が毎日楽しみにして眺めている鳩の巣を見つけた。どうしてもそれがほしいという。もっていっていいかと私に聞くから、鳩の子は、自分の子とほとんど一緒に生まれて、無関係とは思えないから、毎日育つのを写真にとって楽しみにしているので、そのまま置いておいて下さいといって断った。

 

私は鳥と相性がいい。子供のときからいろいろな鳥類を育てた関係で、鳥を身近に見ると、心が平和になるのだ。そうやって、雛を育てる親鳩を毎日毎日見ているうちに、この鳥に子育てを教わるような気分でいた。

 

私に子供をプレゼントしてくれたのはコウノトリじゃなくて雀のポンチンだ。と勝手に考えていた。輪廻転生だかなんだか,そこまでは考えていなかったけれど、自分の子はいかにも鳥と縁がある。どうしても、姑に持っていってもらいたくなかった。理由なんかどうでも良い。私には何でもいいからあの鳩は大切だったのだ。

 

体の調子が優れないので、長いこと客を接待していられないから、私は疲れてしばらく横になった。それから親戚たちはがやがやと私には何も言わずに帰っていった。次の朝、カメラを構えて、あの鳩の巣を覗いて驚いた。鉢は荒らされていて雛がいない。明らかにベランダから引っ張りあげた跡がある。

 

怒りが込み上げてきた。赤ん坊への思いと鳩の雛への思いを重ねていた私は、完全に逆上した。しかも雛を盗むのに失敗したらしく、一羽の雛が下のコンクリートの地面に落ちて血を流して死んでいるのを発見したときは、自分の子供の成長と重ねてその鳩の子の事を考えていた私は頭に来て姑を人殺し呼ばわりして狂った。

 

なぜ知っていて止めなかったと、私はエノクに当り散らした。

「鳩の雛は高いんだよ。」と、間抜けな顔でエノクは言った。

 

何の事だかわからない。あくまでも私は姑が雛を育てるために持っていったとしか考えていなかった。「アルマジロより高いんだ。」と続けていったその言葉を聞いたとき、私は一瞬怪訝な面持ちでエノクを見た。そしてはじめて理解した。この国ではアルマジロもイグアナも市場で売っている。ペットとしてでなくて、食用としてだ。

 

食べたんだ!益々腹が立った。

 

頭にきた私は以後姑と口を利かなかった。エノクがいくらなだめても、気持ちはなかなか戻らなかった。盗むのなら、なぜ私に持って行っていいかと聞いた?聞かれてだめだと断っているのに盗っていった、その行為が赦せなかった。鳩の子を盗むのにかかわった義弟のダリオも私の剣幕に恐れてこなくなった。親戚たちが鳥に対する私の思いなんか知る由もないことを、そのときの私は理解しようとはしなかった。

 

気を紛らす知り合いも無く、愚痴を聞いてくれる相手もいない世界で、私は些細なことに苦しんだ。夫の家族に対する私の感情は何時も振り子のように右に左に、揺れ動き、自分でも制御の方法が無かった。

 

2「抗生物質と、ナワ族の薬」

 

例の堅固な壁に閉ざされた夫婦の部屋の奥に、ドアのついていない続きの部屋があって、そこに私が日本人が置いていったベビーベッドを用意しておいた。赤ん坊用のお風呂もオムツの山もみなそこにおいてある。うわさによると夜中にも授乳しなきゃいけないらしいから、数歩歩けば対応できる位置に全部用意しておいた。

 

これからのことは全部初体験。何がおきるかわからない。エノクは幸い子育ては母親に任せきりの当時の日本人の男性と違って、子供の世話に参加させないと「二人の子供なのに独占するな」とか言って本気で怒るから、私が抗生物質を飲んでいる間の授乳は、すべてエノクに任せた。彼はすごくいそいそと「パパのおっぱい」とか言って赤ん坊にパチャ(哺乳ビン)をくわえさせて授乳している。

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パパのおっぱい授乳中 

 

私はいつも神経がとがっていたけれど、彼は穏やかだ。かける言葉だって、幼児言葉なんか知らないで育った私よりも「母親」らしい。

 

私は幼児のころから厳めしい家庭で育ち、ラテン語の祈りや、日本語も文語体の祈りを唱え、末っ子だった所為で、兄弟全員に異常に丁寧な敬語をつかって育った為、小学校にあがって、友人たちと言語が通じないのでカルチャーショックのため口が利けずに、白痴だと思われていた人間だ。

 

こちらの人は赤ん坊や子供に出会うと、端で聞いていておったまげるほど、あたりのしじまを破って突然声を3オクターブぐらい挙げて超音波を出して大騒ぎする。あんな声私には出ない。逆にそういう声を出さない私はさぞ化け物に見えただろう。

 

退院のときたくさん持ってきた抗生物質が切れた。手術の傷口がひどく痛み、乳が張らなくなってきた。病院にいたときは赤ん坊が取り上げられると乳が張ってぬれて困ったのに、今はパパのおっぱいのほうが大きいくらいだ。

 

出産に立ち会わなかった始めの女医、ウルビナ先生に電話して、意見を聞こうと思った。それで、エスコラン医師が出した二種類の薬の名前を言って、どちらを補充すべきか聞いたら、彼女、「とんでもない、授乳中にその薬飲んだら赤ん坊が奇形になるよ。両方ともだめだからこの薬にしなさい。」といって別の薬を紹介してくれた。

 

出会ったときから私はあの医者を信用していなかった。ウルビナ先生の話を聞いてにわかに心配になった私は、内心私はいったい何をされてこんなに痛みが長引いているのだろうと疑い始めた。赤ん坊が奇形になる前に私が奇形になってしまうかもしれない。しかし薬を変えてしばらくしたら、再び乳が張ってきた。

 

後で人づてに聞いた噂によると、かのエスコラン医師は自然分娩より帝王切開のほうがお金が取れるから、有無を言わさず妊婦のおなかを切ることで有名な医師だったらしい。私はいまだにそのことで彼を恨んでいる。

 

薬を変えてから、やっとまともに赤ん坊に授乳できるようになったが、出にくくなったので、ミルクも併用しなければならなかった。そこに信頼していた、月夜のインデイオばあさんのチカさんが、ココアを飲むと乳の出がよくなるよというので、早速そのココアというものを買わせにやったら、案の定私が考えていたココアじゃなくて、何かどろどろの怪しい飲み物だった。これももしかしたらあの精製していない綿のように、カカオの実から直接つぶして作った液体かもしれない。

 

シャーマンを想像しながら、しかし私はエスコランの抗生物質よりははるかに信用できたので、その茶色の液体をがぶがぶ飲んだ。本当は出産前から飲んでおくとよかったらしい。でも、乳は途切れ途切れに出て、なんとか3ヶ月持ちこたえた。子育てはシャーマン文化のほうがきっと優れているよ。

 

赤ん坊って刻一刻と変わるんだ。すごく東洋的で、姪に似ていた赤ん坊は、退院して三日目になったら、顔幅が狭くなって目鼻立ちがはっきりしてきて、骨格が変わってきた。こんなに変わるのなら、初めの頃の写真撮っておくんだった、と思った。ひょっとすると、そのうち本当に真っ黒になってパパとうりふたつになるかもしれないぞ。

 

そうそう。「真っ黒」で思い出したけれど、この国の人はおおらかで悪気がないのだけど、繊細な神経なんか持ち合わせていないらしい。東洋人の血の混ざった赤ん坊が珍しいから、まるで生まれたての犬の子を見て珍しがって喜ぶみたいに見にきては、いろいろ感想を言う。

 

思ったことは、まったく遠慮しないでどんどん口にする。「わああ、鼻ぺちゃでかわいい!」「わああ、チナみたいでかわいい!」「そのうち目が釣りあがってきてもっとかわいくなるよねえ」指で自分の目を吊り上げて、「こんな風になる」というように私に見せる。

 

語尾に「かわいい」っていいさえすれば、何言ってもいいんだ。「わああ、真っ黒けでかわいい。」「口が耳まで裂けていてかわいいねえ。」「胴長で足が短くてかわいい。」「蟹股のところがなんともいえなくかわいいねえ。」なんてのもありだ。これは後で使ってやろう。

 

3「チンパンジーの賛」

 

その当時私は、知育以前の赤ん坊の育て方に関する限り、先住民の子育てのやり方を尊敬していた。知育以前の子育てに文明はむしろ不要と考えていた。生まれてから乳児期を経て幼児期にいたる3歳までの、本人がまだ無意識状態ですごす人生の黎明のころの親とのかかわりが、子供の人生を決定してしまうと硬く信じていた。

 

グアテマラで見た先住民の母親は、乳児を布にくるんで、強烈な縞柄の万能ショールのようなものにいれ、斜めに背中に巻きつけて、どこに行くのも連れ歩いていた。託児所も保育園もない世界で、彼女たちは子供を自分の身から離さず、自分で子育てをやっていた。

 

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これ、私の作品。

 

メルカードに座って一日中物を売りながら、彼女たちはそこで授乳もしたし、下の世話もしていた。子供は泥にまみれ、髪は櫛を入れたこともないような状態だった。親は赤ん坊がたらした鼻水を口で吸い、噛み砕いた食べ物を子供に口移してやっていた。これらの情景は私が子供のころ、日本でも電車の中で普通に見られた情景だった。

 

そういう親たちの自然な姿を眺めながら、二本足の動物が洞穴で子育てをやっていた時代から、これが本物の子育ての原点だという印象を深くして、かなり感動を覚えていた。

 

ところが、姑も夫も、自分達のやり方が間違っていて、文明国とやらの子育ての仕方が正しいと思っていた。私が赤ん坊を抱いているのを見て、抱き癖がつくからあまり抱いちゃいけないという。おかしなことを言うと私は思って、姑に言った。

 

「ドンニャエンマは赤ちゃんを抱かなかったんですか?」そうしたら彼女は、恥ずかしそうに答えた。

 

「私たちのころはそんな学問はなかったから、いつも抱いていたけれど。」なんだ、子育てに無学を恥じているのか。

 

彼女はうつむいて、ほとんど泣きそうな顔で、自分が抱っこして育てたことを「告白」した。

 

「抱っこして育てたドンニャエンマの子供たちに問題がありましたか?」私がそういうと姑は急ににこにこして答えた。

 

「私の息子たちはみんな立派に育ちました。」そういう姑の誇らしげな顔を見て私は満足した。「じゃあ、そんな学問よりドンニャエンマのほうが正しかったんですね。」

 

横合いからエノクが言った。「でもアメリカでは子供が泣いても一日中でもほったらかしておくよ。」

 

「なにも、」と、そこで私は言った。「あんな非行少年と少年犯罪に満ちた国の、家庭も崩壊して離婚率が世界一の国の教育のやり方なんか参考にすることないでしょ。自分で自然に育てているチンパンジーには非行少年いないもの。チンパンジーの子育てのほうが、アメリカの子育てよりよほど参考になりますよ。」

 

二人は黙った。私がアメリカ人よりチンパンジーを尊敬していることに、意味を測りかねてドンニャエンマは怪訝な顔をしていた。アメリカはどこよりも文明の進んだ、教育も学問も比べられる国などないほどに優れた国のはずだった。そして日本も、文明国のはずだった。教育に熱心で、働き者の国民を持つ、東洋の先進国のはずだった。

 

その文明国日本人の私が大まじめな顔をして、アメリカよりもチンパンジーチンパンジーという。わけのわからない馬鹿を言う私がさぞ異常に見えただろう。アメリカ文明よりもチンパンジー文明を尊敬するその裏に、幼児体験の潜在意識が働いていることなど、誰も知らなかったから。

 

内の子の生まれる一週間後に、やはり女の子を出産したマルタが、時々子供を連れて遊びにくるようになった。マルタの子供は3人目で、上の二人が男の子だから、すごく喜んでいた。父親はハンサムだし、マルタも育ちのよさそうなきれいな顔をしている。上の二人の子供たちも整った、ちょっと中近東系の顔だちだ。

 

しかし、新しく生まれた女の子は体は大きく顔つきは大ぶりで、目も鼻も口も大きい。日本人の赤ちゃんみたいに、ぽにゃぽにゃしたあどけなさがない。私はこの手の、大人としては美形の両親から生まれる子供が、赤ん坊のときどのような顔立ちか知らなかったから、その顔立ちを見て戸惑った。きわめてグロテスクで、どうにもかわいいとは表現しようもない。

 

おまけに困ったことに、こちらの民族は、生まれてから数週間後に持って生まれた頭髪はすっかり抜けてしまって、毛があったという証拠も残さず、まったくつるっぱげになる。マルタはそのつるっぱげに女の子の印のリボンなんかを貼り付けている。乳児服を着せればもっと落ち着くのに、女の子を表現したいあまり、フリルのたっぷりついたワンピースを着せている。耳にはすでにピアスが着いている。なんだか男が女装しているみたいである。もうアンバランスで、服装の趣味も強烈で、言う言葉に困って、「元気そうで…丈夫そうで…ううううう、」なんていう言葉しか出ないのだ。

 

マルタは内の子が生まれたとき、いち早く現れてお人形と、なんだか私にもプレゼントを持ってきてくれた。そして内の赤ん坊を見て、あの民族独特の極めて激しい超音波を発して、かわいいかわいいといいに来てくれた。鼓膜がびりびり震えたけれど、うれしかった。しかし、「正直」などというろくでもない性格を遺伝的に持っている私は、あまりすごい顔を見てしまったので、声が出ない。策を弄して、寝ている赤ん坊を抱いて「お友達になりましょうねえ」とかいって、赤ん坊同士の会話を代弁しているがごとくごまかした。

 

こんなことなら目をつむって、見ないうちに、先に大声でかわいいかわいいと唱えておけばよかった。修行不足が悔やまれた。

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マルタの赤ちゃんと

 

4「愛国心を育てよう」

 

一番幸福な日々だった。中庭にハンモックをつるして、赤ん坊を抱いてゆれながら、庭にくる小鳥たちを観察した。

 

背中がうぐいす色で、黒い縁取りのある白い胸毛がしゃれた感じの太っちょの鳥が、庭の木の実を食べにきている。くちばしは赤くて体長20センチぐらい。名前がわからない。

 

もう一羽、鶫(つぐみ)のような羽の色の鳥、胸に斑点がついていて、尾がぴんと上がっていて、姿は地味だけどきれいな声で鳴く。グアヤバを食べている。また別のがきた。頭と目のふちが黒くて腹が黄色。翼と尾が薄茶に白の縁取り。

 

こちらの人はあまり動植物の名前を知らない。チカさんに聞いてもわからない。鳥を見れば何でもかでも「パロマ(鳩)」という。主人は赤い花を見れば何でも「クラベル(カーネーション)」という人だ。(今は全部「バラ」になったけど)。鳥の名前なんかわかるわけがない。でも名前がわからないと、私は落ち着かない。

 

エノクに「図鑑を買ってきて」と頼んだけど、買った図鑑はスペイン版のもの、つまりヨーロッパ中心の図鑑しかない。スペインとエルサルバドルは距離の問題でなく大陸そのものが違うのに、なぜ図鑑までエルサルバドル固有のものがないんだ。植民地時代から引きずっているこの国の問題が、こんなところにまできているんだ。不満だった。

 

私はエルサルバドルをそれほど愛していたわけではないけど、不満だった。くそ!と思った。ないなら、自分でエルサルバドル固有の図鑑を作っちまえ。

 

 

そう思った私は、赤ん坊を世話しながら、ひまを見て動植物のスケッチをした。

 

そのうちこの子がこの絵を見て、この悲しい内戦に荒らされた自分の国の美しいものに気がついて愛着を覚えてくれるように。この国がこの子の祖国なんだ。何が起きようとこの子の祖国はこのエルサルバドルなんだ。そのことをいいかげんにしておくわけにはいかない。自分がどこに帰属するかという問題で、昔教壇にあったころ、在日韓国人の生徒が悩んでいた。その悩みを共有しようと思って、当時古典を教えていた私の「記紀神話研究」が始まったんだ。

 

国際結婚で生まれた自分の子供が将来帰属の問題で悩むとき、私はこの子が父親の国を愛することができるようにしておかなければいけない、と思った。

 

いまどき日本の国家は愛国心教育の必要性などというものを喧伝しているけれど、国土を愛するということは、いつ何時変わるかもしれない不安定な政府の要人なんかに敬礼したり、国旗に向かって胸に手を当てたりする形式じゃないんだ。

 

そういう形式は、国際的礼儀とか社会常識と言う点では必要なんだろう。

 

他国の人が日本の国歌に礼儀を持って起立し、静粛にしているとき、日本人が腕組みしたり座って煙草を吸っていたり、ガムをぐちゃぐちゃかんでいたりするよりは、いいだろう。あんな態度、自国の国旗に敬意を表している他国人に対して失礼だ。なかには、ニュースで、中国人なんかが日の丸を燃やしたりしているのを見ていると、いっしょのなって喜んでいる日本人さえいる。

 

アメリカに占領されて、自信を失った挙句、国民性も愛国心も郷土愛も礼儀も失ってしまい、自分に対する誇りさえ失って、自分が持って生まれた髪の毛までアメリカ人色に染め上げるよりは、少なくとも、国際的に認知されている自国の国旗に敬意を表するぐらいの「常識」があって良いだろう。あれは、「常識」であって、信念なんかではないのだ。だいたい、自国の象徴を他国の前でないがしろにする「信念」て、なんのだ?

 

しかし本当はそんな模倣や形式の中に「愛」というものはないはずだ。そんな形式でなくて、国民の一人一人が自分のアイデンティティをしっかり持つことからはじめなきゃいけないはずだ。スペインの植民地ではなく、この国土の固有の物を自分のものとして心の中に取り込んでいける、立脚点をきちんと持った上で、国際社会に独り立ちできる、そういう愛国心を育てよう。

 

内戦のさなか、毎日身近な人が行方不明になるというような事態の中で、生まれた赤ん坊がどのようにこの国の子供として生きていくんだろうと思いながら、私は庭で見かける小鳥や植物を片っ端からスケッチした。アイデンティティを育むということを、身近にある草木一本を愛することからはじめさせようと、そのときの私は思った。それは親が作って食べさせる離乳食のようなものだった。

 

私は昭和16年の太平洋戦争開戦前夜に生まれ、激動の日本を見て育った。9人いた兄弟は軍国教育を受けた世代から、新制度の戦後教育の草分けの私の世代まで、さまざまな矛盾した考え方を持つ家族の中で育った。車を運転しながら、多摩御陵の前をとおると、敬礼する兄から、天皇を「おてんちゃん」という兄まで内の中に同居していた。国家の大難と、その滅びと、異国の征服と、日本人のアイデンティティの喪失を見て育った。私には沈黙して国というものを考える環境があった。

 

自分の子は、日本では「ハーフ」と呼ばれる、どこにも所属しないような人間として、生まれつき帰属の問題で悩みそうな立場を背負って生まれた。道を整えてやらないとまずいことになるぞと思った。そんなことを考えながら、私がエルサルバドルの動植物をスケッチをしたのは、そのときの内戦という環境のせいであって美術の創作という意味ではなかった。

以下は私のスケッチした植物

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