「自伝及び中米内戦体験記」7月27日

「逃避行開始」

 

とにかく、内戦はどうあれ、家の中にいる私には、子供の誕生が生活に変化をもたらしていた。内戦なんかどうでもよく、赤ん坊の顔見て、世話していれば平和だった。

 

そんなある時、エノクがただならぬ顔で帰ってきた。人間の表情が語るものは、時として言葉そのものよりも説得力がある。蒼白だったが無言で彼はその時、すべてを語っていた。

 

その日私は赤ん坊がはじめて寝返りを打ったので、うれしくて写真を撮るのに夢中になっていた。初めての子育てだからすべてが新しく珍しく、楽しいことだった。そばに行くと赤ん坊は喜んで両手を広げ、「抱っこして」というような表情で意思表示するのがかわいかった。その日は泣き声みたいな声を出すので行ってみたら、赤ん坊は盛んに動いて寝返りをうとうと思ったらしく、片腕を体重でつぶしてしまい、身動きが取れなくなっていた。

 

おや、移動し始めたのかな、と思って、ちょっと手を添えてやったら自分の力で寝返りを打ったのがうれしくて、思わず拍手したら、赤ん坊はそれに反応して、もう一度自分でやって見せた。この子すごい!とその時私は思った。まだものをいえるわけではない赤ん坊の、親のちょっとした行動に対する反応の速さに私は感嘆していた。これはまさしく原初的な、親子のみに通じ合う動物言語の実体験だった。

 

豊かな自然に囲まれた町の、堅固な壁に囲まれた広々とした家は、私がはじめて経験する小市民としての幸福な世界だった。他にすることもなかったから、赤ん坊を育て、成長を楽しんでいればよかった。すべてが順調かに見える毎日だった。時々水がなくて困ったが、それはすでに生活の一部としてなれてしまい、あまり問題だとは思わなくなっていた。ものに不自由せず、雑事は使用人に任せ、暇な時間を庭の動植物をスケッチしながらハンモックに揺られて過ごす生活なんて、かつての自分の半生から考えたら、まさに夢そのものだった。

f:id:naisentaiken:20200727184436j:plain

これは「平和」そのものだった。

f:id:naisentaiken:20200727160004j:plain

当時エルサルバドルに暮らした国際結婚家庭の日本人が家に集まってくれた時の写真。娘は向かって左の女性が抱っこしている。このメンバーも其時は、すべてを忘れて平和だった。。。 

 

 

しかしその生活は子供が生まれて4ヶ月めの、初めてのクリスマスを祝った12月末から崩壊の兆しが見え始めた。

 

赤ん坊を育てることに夢中で、しばらく町の様子に気がつかなかったが、内戦は着実に危機状態に近づいていた。壁ひとつ向こうに市街戦は散発的に続いており、人々がコロコロ死んでいることに、私はほとんど無頓着になっていたが、外の世界の事態は深刻だったのだ。

 

「赤ちゃんがはじめて寝返りを打ったのよ!」と嬉しそうに報告する私の言葉が、全く聞えなかったように、「しばらくこの家から離れよう。」とエノクが言った。

 

私はじっと彼の表情を見た。ぎくりと胸に何かが伝わり、一瞬の沈黙の後、私は何も聞かずに荷物を作り始めた。私はじたばたしなかった。声を出してたずねることは危険だ。と私の勘は働いた。

 

「壁には耳があるのだ。」

 

何かを察したら物を言わないこと、水不足に慣れると同様に内戦という状況に慣れて、この状態を日常として受け入れていた私の判断だった。

 

車に赤ん坊の身の回りのものを詰め込んだ。「どのくらいの期間を考えているの?」とだけ、私は上目遣いにエノクを見て小声で聞いた。「わからない。」と彼は答えた。硬い表情だった。とりあえず、洗って繰り返し着られる程度の自分の寝巻きと着替え、気がつく限りの赤ん坊に必要な日常的なものをバッグに詰めた。

 

チカさんには、「ちょっと旅行するから留守をよろしく頼む」と、明るく言っておいた。大体私自身がどこに行くのかもわからなかった。私が知っていれば人に伝わる。伝えていいものならエノクはすぐに言うだろう。伝えないということは、これは「逃亡」に違いない。

 

チカさんに緊張を悟られまいとして、私は赤ん坊をあやしていた。子供を抱え、一生涯をメイドとして人に使われてすごしたこの先住民の女性は、多くを語らない。知ってか知らずか黙って私たちを見送った。

 

家族だけになってから、車の中でそっと聞いた。「どこに行くの?」

 

「キロアのうち。」とエノクは答えた。

 

彼の同級生で別の大学の教壇にたっている。そんなにしげしげではないがパーテイーなどで出会ったことはある。礼儀正しく温厚であまり目立たない人物で、ちょっと竹の子のような顔かたちの男の顔が浮かんだ。奥さんのことはほとんど知らなかった。家族が何人いるのかも知らなかった。(これだいぶ前に書いたんだけど、不思議な表現だ。タケノコのような顔って、どういう顔だろうね^^)

 

声に出して「尋ねる」ということ、余計なことを「知る」と言うことが命にかかわるほど危険なことを私は知っていた。そしてこの国は、付き合っている友人の種類のせいで、本人に特別な疑念があろうとなかろうと、簡単に投獄される国だった。

 

エノクは国立大学の助教授で、国立大学は知的レベルの高い血の気の多い学生を多く抱え、反政府勢力の温床と思われていたから、身を大学に置くだけで、危険はいつも隣り合わせだった。

 

「エノクに何か危険が迫っている。」もうそれだけで後のことは知る必要がなかった。とにかく彼は「家族を危険から守ろう」としている。

 

「家族を危険から守る」という言葉のずしりとした重みを、50年も戦争に巻き込まれず、平和と繁栄を謳歌している、男は給料を運ぶ生き物でしかない日本では、想像することもできない。ここは弱肉強食のジャングルで、家族を危険から守るオスの本性を、男はみんな持っている。私はオスに誘導されて避難する子連れのメスとして、全てを納得し、物もいわずついていく。

 

それは逃避行の開始であった。

 

「避難所:キロアの家」

 

見覚えのない道をとおって、埃っぽい町についた。田舎でもなく、都会でもない。その中間の小さな町だ。ぐるりを家に囲まれた広場で子供が遊んでいる。子供が遊べる広場があるところは危険が少ない証拠だ。キロアとその家族が外で待っていた。鋭いけれども目がきれいな、感じのよい奥さんと、とても礼儀正しい二人の男の子。しっかりとした挨拶ができる。

 

どういう事情で身の危険を感じて避難してきたかわからない友人の一家を家庭の中に受け入れるということが、どういうことだかこの国に住む人なら知っているだろう。そのことを深く感じ、恐る恐る家に入った。

 

しかし誰もあえて問題の核心には触れない。見事なほど統制のとれた一家で、多分ご主人は断固とした信念の持ち主だ。そうでなかったら奥さんや子供たちがこの家の主に従って、こんなに冷静に問題のわからない他人の一家を受け入れるはずがない。と、そのときは思っていたが、多分、エノクとキロアの間では、ある理解と合意がなされていたのだろう。「知らないこと」を選んだのは私だけの勝手な意志だったから。

 

一家は4歳の子供を含めて全員、私たちをまるで自分から招待した客のごとく快く迎えてくれた。ありがたかった。と同時にある責任を感じた。われわれに何かあったらこの一家も全滅だ。うっかり外に出られない。うっかり近所の人と仲良くできない。うっかり余計なおしゃべりができない。私はいつもこういう場合、スペイン語が通じない振りをする。それから赤ん坊の面倒ばかり見る。

 

スペイン語がわからない外国人の奥さんが赤ん坊の面倒を見ている。誰でも納得するような唯一のやりかただ。日本人が国民性として、異常にはにかみ屋で、外国語も外国生活もへたくそなのは、世界的に有名なことで、納得済みのことだったのは、後にさまざまな経験の中で出会った日本人とそれを寛大に受け入れている外国社会を見て、思うことである。

 

お母さんに似た長男は小学生で、お父さん似の竹の子頭の次男はまだ4歳。二人ともおとなしい、いかにも育ちのよさそうに見える子供たちだった。家の中に赤ん坊が来たのがうれしいらしく、争って乳母車を押して相手してくれる。赤ん坊も喜んでそれに反応する。遠出のできない環境になれた子供たちにとって、この小さな変化は願ってもない喜びみたいなので、私は少なくとも安心した。

 

子供たちが私たちの来訪を喜んでおり、安定していれば、両親も安心だろう。

 

その日は特別奥さんの手料理で歓待してくれた。こちらの人はどんなときでも悲壮がらない。そのときそのときを大切に楽しむ心のゆとりを持っている。日本人の私はかなり緊張していたが、彼らがロンを傾け、奥さんの手作りのセビチェを食べながら、ほとんど大笑いして楽しんでいるのを見て、やっと気持ちにゆとりを持つことができて、いろいろ私も胸襟を開いて話し始めた。

 

セビチェとは、白身の生魚にトマト、たまねぎのみじん切りをベースに各種野菜、塩、胡椒、オレガノ、レモンを加えたマリネのようなお酒のつまみだ。一晩漬け込んで、食べる前に最後にクラントロ(香草、コリアンダー、パクチ)を加える。刺身を知っている日本人には、好まれる料理だ。

 

じつは、この料理が、私にも気に入ったので、この時見よう見まねで覚え、日本に帰ってからも酒のつまみとして、来客の折作り続けている。嫌われたことは、ない。

 

不完全なスペイン語の私の話も、異国の人間の話題だから案外面白いらしい。居候は面白い話題で楽しんでもらう事が出来るんだと気がついて、私は自分の人生で面白かったこと、珍しかったこと、つまり自分流儀の千一夜物語をはじめた。みんな、それを聞いてすごく目を輝かせて面白がってくれる。

 

そうか、この手があったか。自分では何がなんだかわからなくて他人のうちの居候になっている私にとって、問題の核心に触れないように話題を生み出すには、みんなが知らない異国の話をするという手があった。

 

ご主人の名を エクトル レオナルド というらしい。それで子供たちの名前は、長男がエクトルで次男がレオナルドである。それだけですでにこの奥さんがものすごくご主人を愛していることがわかる。奥さんのご主人に対する愛情と信頼と尊敬がこの一家をまとめていることもわかる。子供達にそっくりご主人の名前をつける、長男にも次男にもご主人の名前をつけるということは、いくらエルサルバドルでもあまりない。

 

しかも、彼女、三男が生まれたら、ご主人の エクトル レオナルド をひっくりかえして レオナルド エクトル にするそうだ。四男うまれたらどうするの?エクトレオとか、いっちゃって^^。

 

私は漢字の組み合わせでどうにでもいろいろな意味をこめて命名できる日本の風習を語る。自分の名前の説明もする。さらに彼らの名前に漢字を当てはめて作ってあげたらすごく喜んでいる。

 

私もかなり呼び名には注文をつける人間だけど、キロアの一家はひどく自分の名前にこだわりを持っている。他人から呼んでもらいたいという名前と家庭で呼び合っている名前を変えている。へえと思った。

 

名前の呼び方にこだわる人間が名前とその名前を持つ固有の自分に誇りを持っている人間だということを私はよく知っている。そういうわけで私は、自分の名前にこだわりと誇りを持つこの家族が気に入った。この一家なら、自分たちに危険が及ぼうと、助けようと思った人間を助けるという信念をもっているのも納得できる。

 

実は、私は24歳の頃、国外にはじめて出て以来、それまであまり気にしなかった自分の名前に、すごくこだわるようになった。

 

自分の固有の名前ぐらい自己主張をして、本来自分の名前として認識していたとおりの発音で呼んでもらってもいいだろうという考えがある。それは欧米文化に迎合せず、大和民族としての自分の独自性をはっきり主張しておくのが世界に馬鹿にされないひとつの方法だという思いがあるからだ。

 

かつて、スペインを旅行したときに、出会った日本人が、自分は真理子という名前だけど、スペインではマリアと呼んでくれといっていた。スペインに行くと、どうして真理子がマリアになっちゃうのか、それはそれは不思議に思った。

 

現在はやっと中学校の英語の教科書も、日本人の固有の姓名を、本来の順序で表記するようになった。しかし、私の時代の教科書は、たとえば「山田花子」なら「はなこ・やまだ」と表記して、発音まで「はなーこ・やまーだ」と後ろから第二音節を強調する英語風の発音に変えて憚らなかったし、欧米を旅行する日本人が名のるとき、英語風の発音にして平気なことを私は苦々しく思っていた。

 

私の本名は、私の世代の多くの日本人女性と同様、語尾に子を含む3文字である。Rurikoという。ヨ-ロッパ語族の外国人に、このつづりを見せて放って置けば真中のシラブルにアクセントをつけて「ルリーコ」と読んでしまう。私はそれをさせまいと、はじめのシラブルの「ル」の上にアクセント記号をつけておいた。姓名の順序も結婚する前、国外に行ったとき、姓を先に、名を後に、日本の順序を遵守していた。

 

たまたまエルサルバドル人と結婚したから、主人を立てて、エルサルバドル方式の姓名の順序にしたがって、その時は名乗っていた。しかし発音は相手ができるまで、しつこく直して本来の発音どおりに呼ばせていた。私が自分の名前を呼んでもらうのに、本来の発音にこだわることは、自己主張の激しい欧米人にかえって好感をもたれていた。

 

「そうか。あなたは世界を支配している英語圏世界に迎合しないのか。」そういって多くの人が私の意見に一目置いた。

 

記述のように、私は一体エノクの身に何が起きて、どうして他人のうちに避難せねばならず、彼が何から家族を守ろうとしているのか知らなかった。その事実は数十年経った今も、彼の口からは知らされていない。その後の友人達がたどったの運命から、私は推し量るしかないのである。

 

知る知らないはともかくとして、この家に避難を開始したのをかわぎりに、私の一家は住居を転々とする、そういう生活が始まるのである。

 

ニカラグア革命のこと」

 

とにかく、エノクの周りには国家が危険視している人が多かった。国立大学は思想的にリベラルな考えを持つものが集まっていたのだ。それにはそれだけの当時の社会背景があった。

 

この時代、隣の国のニカラグアで、反政府勢力のサンディニスタが、アメリカに後押しされたソモサの独裁政権を倒し、革命政権が誕生したのだ。ソモサの独裁政権とは、伝統的な王権支配でもなく、ある思想信念に基づく独裁政権ではなく、ソモサ一族というアメリカと結びついた利権がらみの一族独裁政権であった。あの国には、ただソモサ一族という搾取階級と、後はほとんど全部農奴という被搾取階級がいただけだった。

 

中米諸国は革命勢力が旗揚げをし、米ソの代理戦争の舞台と呼ばれていたが、それはマスコミ特有の大雑把な色分けであって、どこの国にも、飢餓で死にたくないと、「自主的に」既存の勢力に抵抗を考える人間はいるのである。

 

飢餓で死にたくないと「自主的に」既存の勢力に抵抗を試みる集団を助けるのが、当時、ソ連しかいなかったということは、事実である。飢餓で死にたくない人々を、福祉の対象としてしか見ない勢力が、福祉の対象を失うことを恐れて、まったく何も思想的にも理論的にも、主義など持たぬ独裁政権を助ける勢力が、アメリカだった。

 

ゆえにこの中米の内乱を米ソの代理戦争というのである。

 

サンディニスタ政権の誕生によって中米諸国の反政府勢力は、にわかに希望をもち、沸き立った。

 

1979年ニカラグアサンディニスタ民族解放戦線は50年におよぶソモサ軍事独裁政権を倒し、勝利する。若者たちが手作りで革命を勝利させた中米の小国が突如世界的に有名になり、自分の国では実現しえない社会変革の夢をサンディニスタ革命に求める人びとが世界中から集まってくるようになった。

 

そのときの興奮を、私はエノクの友人達の集まりの中で逆巻く議論を聞いていたから知っていた。そしてその希望とその希望が粉砕されていく過程も知っていた。

 

サンディニスタ革命によって、読み書きのできる国中の少年少女が村々に入り、6ヶ月で非識字率を52%から12%に下げ、三種予防注射を徹底させて小児麻痺をなくし、土地なし農業労働者に土地を分配し、女たちの社会参加を実現させた。

 

しかし中米の共産主義化を恐れるレーガン米大統領が仕掛けたコントラ戦争の泥沼に、ニカラグア民衆は引きずり込まれていった。

 

しかし、サンディニスタの政権はただの共産主義政権ではなかった。国民合意の、閣僚に「解放の神学」を奉じるカトリック教会の聖職者も参加するような政権だった。しかし、アメリカはその「カトリック教会」の「解放の神学」の実現を恐れたのであって、怖れたのが共産主義化であるというのは、正当化のための欺瞞であった。

 

人間が人間らしく生きるための革命に生命を賭けた若者たちの結末は、粉砕、虐殺、二度と立ち直れないまでの破壊だった。そして、それらのことは決して世界に報道されなかった。

 

 

f:id:naisentaiken:20200727161653j:plain

避難所の家のハンモックで、赤ん坊を抱くエノク。