naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月2日

「日本語と英語とスペイン語の言葉の壁」

 

奥深いけれども冷たい、そして人間の心の深奥に忠実な日本の文化の中で育った私が、自分の家族を守るためにマルタの家族を受け入れなかったと同様に、同じ文化の同じ家族の下で育った姉は、危険に瀕している私たちの一家を受け入れなかった。私の心は長いこと、そのときの痛みから解放されなかった。

 

私が心をこめてマルタの物語を書いたのは、あの人は危険を察知して受け入れるのを拒んだ私を恨まなかったからだ。内戦の中で誰もが必死に生き延びようとしていたあの頃、死が日常的で隣り合わせだったあの頃、助けを求める手を拒まれるというこの記憶をもって、しかもそれを恨みもせずお互いの立場を「理解」するということはほとんどありえない事だったから。

 

 

人種差別というものはどの民族の精神構造の中にも潜んでいるものだ。あえて「人種」と言わずとも、自分と自分の家族以外のよそ者は、よほど安全と平和が守られているとき以外、敵そのものである。すべての動物は、自分と自分の子孫を守って生き延びるため、他を排除する本能を持つ。動物としての人間は、生きるために基本的に、もともと他者に対する「愛」などというものを他の生き物に対して持っていない。愛玩用に犬猫を飼っても、その犬猫が自分の子供に危害を加えたら、即座にその犬猫を排除するのが、その愛とやらの正体である。

 

私の心が痛んだ理由、それは姉が私たち親子を受け入れなかったという其の事実よりも、むしろ、受け入れなかった「理由」にあった。私は、実の姉から、自分の夫の民族に対する、差別を受けた。そのことは、あれから何10年も経った今に至るまで、克服のできない心の傷なのだ。

 

「人種差別」というものは民族間の戦闘と勝敗の歴史に深く絡んでいて、色や外見そのものが原因の全てでもない、かなり複雑な構造をもつらしい。

 

日韓朝、さらに中国人はともに永い交流の歴史を持ち、民族的にも外見はほとんど見分けがつかない、大別すれば同種の民族とみていい。しかしこの3民族は永い交流の歴史の間に淘汰の歴史を経てきたことから激しくお互いに「差別」意識をもつ。

 

アメリカは人種の坩堝でありながら、ヨーロッパの諸民族のアメリカ原住民に対する侵略、征服、奴隷化の歴史を持ち、さらにアフリカ大陸からの人身拉致と売買、アジア諸国からの移民によって成り立っている。その間民族交互のせめぎあいによって、民族間に等級のような差別が形成され、その「差別」の内容は複雑だ。

 

同時にこの差別意識というものは、自分の民族の代表としての意識ではなく、自分の民族が依拠する、より強力な民族のトラの威を借りて、より弱い立場の民族の社会に依拠する同属に対する「差別意識」にまで及ぶ。

 

具体的にいえば、同じ日本人同士でありながら、白人と結婚した日本人女性と、黒人と結婚した日本人女性、または中南米人と結婚した日本人女性、日中韓民族と結婚した日本人女性の間にもこの同種の差別意識が表れる。

 

同じ日本人の間に「等級意識」が生まれる。これも人種差別の現実である。

 

私は中米人の男とたまたま出会い、国際結婚をしたからこの「等級意識」のはざま体験をしている。我慢をし、気を遣い、観察し、心理分析をし、歴史問題、政治問題を考え、国力の国民に与える意識を思い、時には憤り、時には被害者意識に沈み込み、事実のみを受け入れることを学んで今日に至っている。

 

しかし思索の結果というものが、現実に遭遇したときにいつも冷静な行動を約束するものではない。ましてやそれが血を分けた姉妹の間での事となると。

 

姉のうちの厄介になって、始めの数週間は問題がなかった。姉はだんだん回復し、床をたたんで、起き上がるようになって、二人だけの時は、初めの内、私の中米体験物語も面白がって聞いているように見えた。話が面白いから、みんなに聴かせたほうが良いと言って友人たちを招待して、私を紹介してくれたりした。アメリカは人種のるつぼだ。招待客の半分はスペイン語がわかる客で、長いスペイン語圏の生活で英語よりスペイン語が出てきてしようがない私はスペイン語の出来る人とばかり話した。

 

ところが突然、思わぬことが起きた。ある時、そのような姉が主宰した集まりのとき、歓談していた私のところに、ふいにつかつかと、姉が来た。険しい顔をしている。

 

「英語を話しなさい。」と、姉がスペイン語で談笑していた私に突然申し渡しにきたのだ。それは凄く唐突な出来事だった。周りで談笑していた人々があっけにとられてしまうほど、硬直した面持ちで輪の中に入ってきた姉は、ほとんど怒鳴りつけるようにそういったのだから。 

 

私のために自分からスペイン語民族を招んだのだが、彼女は私が、スペイン語で歓談できることを期待していなかったような表情だった。

 

私は意地をはって英語を話さなかったわけでも、スペイン語ができることをひけらかしていたのでもない。自分では話しているつもりの英語がいつのまにかスペイン語になっているのだ。しまいに相手がスペイン語で応じてくれるので、気が楽になってスペイン語で話していたに過ぎない。それって、人を傷つけるようなことだったかなあ、と、変な面持ちで、私は気をそがれて黙ってしまい、姉の輪を盗み見た。

 

気がついてみれば、姉を中心とした英語人間の輪はなんだか凄くぎこちなかった。

 

「なんだろ、これ?」と感じるほど、英語グループの輪は「歓談」なんかしていないのである。私を中心としたスペイン語人間の輪の方が、断然にぎやかで、げらげら笑ってバカみたいでもあったけれど自然体だった。

 

姉のアメリカ滞在は、もう其のとき15年を超えていたから、私は姉が当然英語で普通の人間関係を保っていると思っていた。しかし接待の中心となるべき招待側の主婦としては、姉は来客に対して無口で、あまり話しの輪に入らなかったばかりでなく、スペイン語で歓談する私が、なにを話しているのか不安だったらしい。

 

姉にわからない言葉で「歓談」し、時々姉の方を見て来客が「微笑む」ということが、姉を不安にさせたのだろう。

 

アメリカ人もエルサルバドル人も、未知の他人と目が合えば「微笑む」のがあたりまえの民族で、言葉がわからなくたって、それは何も、「あざ笑っている」わけではないのはエルサルバドルで、5年暮してかなり中米化した私にはわかることだった。

 

ただし、言葉がわからなければその「微笑み」は、特に感情を表すことの苦手な日本人は当惑を感じるかもしれないことは理解できる。しかし、姉はそのときまでに、私の3倍くらい外国生活を長くやってきていたのでそんな気遣いは無用だと私は思っていた。

 

私も姉も決していわゆる社交的な人間ではない。しかし、かつて実家で毎日顔を合わせていたときは、むしろ彼女の方が外づらがよくて友人も多かった。多分我々姉妹の「変化」の理由はわかれて独立した家庭を持ってからの環境の違いによるものだっただろう。 

 

彼女の付き合いはアメリカ国内でも、一流の「名士」といわれそうな人々が相手だ。特に学者仲間が多い。「一流の名士」はそれなりのマナーを要求するだろう。私の付き合いは市場の貧しい先住民だ。それから賑やかなスペイン語族の奥さん達だ。

 

大学教授の奥さん達だからといって、大学教授級の教養を身につけているとは限らない。むしろ無知が目立ったりして、控えめに物を言わなければならないのはこちらのほうだった。姉風な等級をつけるなら、私の付き合いはむしろ「下賎」に近く、「一流」とは程遠かった。

 

ともに「必要」があって付き合わざるをえなかったとはいえ、この違いは大きい。もっと大きな違いは、私が家庭の中でも外でもスペイン語を「覚えざるを得なかった」という事実だ。好むと好まざるとに関わりなく、内戦下で生きるために必要だったからで、好みで持って相手を選んで等いられないというせっぱ詰まった状況下にあったのだ。「品」だの「教養」だのを気にしていられない状況のもとで、私はあの言語を覚えた。私はスペイン語が「できた」というより、日本人が引き上げてしまった後の内戦下のエルサルバドルで、スペイン語以外に通じる言語を持たなかった。

 

一方、姉は日本で日本人と結婚してどこに行っても家族は日本語を話すことが出来たから、日本文化を保持したまま、家の外でアメリカ文化に合わせると言う二重生活を続けていた。姉は日本に時々帰っては日本文化の粋である陶器や古風な食器などを買い求め、パーテイーでは着物を着て、日本人を演じていた。

 

私はいつか姉の上の子供が4歳くらいのとき、七五三の着物をお土産に持っていったことがあるが、その着物を着た姪の写真が地方紙に載るというようなことがあった。彼らはそれほど「日本文化」にこだわって、しかもアメリカの一流を生きていたのだ。

 

私は高校から大学にかけて、第2外国語としてはフランス語を勉強した。スペイン語に触れたのは、学校教育外である。偶然と運命が重なって1,2年適当なスペイン語を独学で適当に勉強して、スペインに1年間滞在したから、ある程度のスペイン語が身についた。10年以上日本流の教育の元に習得した、アメリカ人があきれるほどの文法的にものすごく正確な英語から比べれば、スペイン語は読み書きも正確にはできていない。そういうスペイン語を私は仕方ないから操っていた。

 

私はあのころ、言語と宗教を奪われた,アメリカ原住民の悲しさを目の当たりにして考えた。日本がかつて朝鮮を支配したときに、朝鮮に押し付けたのは日本語教育と創氏改姓だった。一つの民族が他の民族を侵略し支配するときにまず奪うのが言語、そして名前、そして宗教。

 

それによって、何が起きるかということに思いをはせたとき、私は言語というものが人間の精神にとってなんなのか、名前というものが何を表すものかということを深く考えたのである。一つの民族から言語を取り上げ、名前も宗教も取り上げることが、どれほど残酷なことかということを、私は荒廃したあの世界で知ってしまったのだ。

 

私は四面楚歌ならぬ四面スペイン語歌の中で、なんとしても日本語を守ろうと考えた。私の日本語名が発音できず、いい加減に妙なアクセントで私を呼ぼうとする相手に、何度でも繰り返して訂正を求め、自分のサインには強調するべき母音にアクセント記号までつけた。

 

自分を他人と区別するこの「名前」というものにこれほどこだわったことはそれまでになかった。日本語を自分の精神の、または自分そのものの音声化と認識したとき、これを失うことがどういうことか私は深刻に理解した。私は日本から持参した500冊の本を繰り返し繰り返し読み、日記をつけ、友人に日本語で手紙を書いた。そのヒステリックな手紙が何を意味するか、友人たちは知らなかった。私は自分を守るために日本語を守った。私はスペイン語にも英語にも「支配」されることを嫌った。言語を支配されることは魂を支配されることだということを、私はどんなにたくさんの例から確信したことだろう。しかし日本語は所詮、読み書きの世界でしか表現できなかった。

 

私は姉が其時までどんな言語生活を送っていたのかしらない。其のとき、上の子供は高校生になっていて、子供の学校関係などの付き合いもこなしていたと聞いているし、子供のことで学校の先生に相談したり、抗議したりするのも一人でやっていたということも聞いているから、それなりに英語を操って生きていたはずなのだ。その姉に、英語にコンプレックスがあるとは私は考えていなかった。

 

「英語を話せ」、といわれて驚いて、初めて姉の状態を見た。

 

それで私は「あれ?」と思った。なんか、彼女、英語集団の話しにも付いていっていないのじゃないかと思われた。表情から察すると、わかって相槌を打っているのでなく、理解できなくてはにかむようなごまかし笑いでつないでいるように見受けられた。

 

なんだか聞いていると相槌しか打ってない。笑顔は不自然でぎこちない。あいまいな相槌以外に言葉らしい言葉を発していない。私が身振り手振りも交えて、文法に斟酌なくでたらめかもしれないスペイン語をべらべら口走って、げらげら笑っているのと比較すると、姉の周りには何か緊張した異常な雰囲気が漂っていた。

 

周りの人に、緊張と気遣いを強要するような、そんなやりきれない雰囲気だった。私とは違った意味で、この人言葉に苦しんでいるのかもしれない、と私は其のとき思った。

 

スペイン語集団の男性が私に言った。「あなたたちはずいぶん歳の離れた姉妹のようですねえ。」「え?2歳の違いですよ。」と私はぽかんとして言った。相手は驚いて、「考えられない!20歳も違うのかと思った!」

 

そういわれて、改めて姉を盗み見て、彼女の頭髪が真っ白になっているのを再確認した。病床で見たときは白髪でも、ああ病気なんだなあ、という気持ちで、さして深いことは考えずにいた。人が歳よりふけているとか歳より若く見えるとか言うことに無頓着な私は、自分がどのように見え、姉がどのように見えるかを人に言われるまで気がつかなかった。

 

以前姉が母をアメリカに招んで一緒に住んだことがあった。其のとき、姉は母を紹介した人から、「お姉さんですか」といわれてショックだったといっていた。

 

そりゃショックだったろうな。その時30代の姉が70代の母と姉妹と思われたんだ。あまりに現実味を帯びないそういう言葉に、私は其のときはそれを笑い飛ばしてからかっていた。深刻に考えたことはなかった。

 

でも、このどう見えるかということは多分外見だけが理由ではなかっただろう。姉は私のでたらめな半生と違って、当時の標準にしたがって、25で見合いをし、東大ですでに博士号を取っていた将来性のある精神科医と結婚した。結婚後数年して義兄は東大紛争を逃れてアメリカに渡り、世界的に第一線の精神科医として社会的にも経済的にも相当の地位を獲得した成功者として、「外側」から見たら「幸福」にしか見えなかった。しかし彼女は何処から見ても「幸福」そうな顔をしていなかった。 

 

家族中の顰蹙を買ってまで「何処の馬の骨かわからない低開発国の男」と結婚し、内戦の中で人の死体をまたぎながら暮らし、挙句の果てに夫婦ばらばらになってアメリカまで逃げてきた私のほうが圧倒的に「不幸」の要素を持っていた。「幸福」な姉が実年齢よりも20も老けるほど苦労したように見え、「不幸な」私は姉妹とは思えないほど「幸福みたいに」げらげら笑っていられるのは、一体どういう現実を経てきたからなのだ。まあ、私は自分たちのことを「幸福」と「不幸」に分けて考えたりはしなかったが、どうも生きる世界が違うように見えた。 

 

スペイン語は言語じゃない」

 

姉の「言語」に関する神経は、アメリカに滞在した10数年の間に、きっと極限まで突っ張っていたにちがいない。そうとしか思えないほど、姉は「言語」の問題で、神経を立てていた。

 

私の娘は2歳だった。私は日本をでるとき、エルサルバドルに骨を埋める決意で出てきたから、娘が生れても日本語を教えなかった。だから娘が片言の言葉を覚え始めたとき、それは当然、スペイン語だった。アメリカの姉の家に避難してきたときも、娘は2歳の誕生を迎えたばかりで、自分が何語を話しているか等、意識していなかった。

 

姉の家には、遅く生れた3歳になる息子がいて、上がかなり離れていたから、娘が来て遊び友達が出来たので、喜んで二人は遊んでいた。二人は色々な言葉を使って自分達の意思を表現していた。娘は片言のスペイン語を話し、従兄は英語交じりの日本語を話した。二人はお互いに真似しあって話したから、3ヶ国語が交じり合って、しかも二人とも幼児だったからそれがみな「片言」だった。

 

そのとき姉がつかつかと寄って来て、片言のスペイン語を話す2歳の娘に直接言った。「スペイン語なんて言葉じゃないのよ!変な言葉をT君に教えないで頂戴。英語を話しなさい。」娘は何を言われたのか理解せずきょとんとしている。それから私に言った。

 

「幼稚園に行きはじめたばかりのT君の言葉を滅茶苦茶にされたら、いじめに合うから、チッタン(私が娘をこう呼んでいた)に英語を話させなさい。自分の子が年下の子のまねをして、T君が退化していくのを見ている親の気持ちがどれほどつらいか、あなたは鈍感だからわからないでしょ。」

 

あ、幼児同士の「真似っこ」を「退化」って考えなかったことを「鈍感」というのかな。鈍感の私がかなり鈍感に反応して言った。

 

「チッタンはまだ2歳で自分が何語はなしているか意識していませんけどねぇ。それに、この家だって、家族同士日本語はなしているのに、チッタンにだけ聴いたこともない英語を話せというんですかぁ?」

 

ところが彼女は私のこう言う反応に怒った。「あなたの一家が私の子供の成長の邪魔をするのなら、対策を考えなければならないのは、親として当然でしょ。」

 

さて、どんな対策を考えられてしまうのかな、と鈍感な私は考えた。

 

彼女の言葉はエスカレートした。「自分の息子がこんな豚みたいな年下の子供の影響を受けるのは親にとって苦痛なのよ。そういうことを子供にわからせるのは親のあなたの義務でしょ。」という。

 

何でそこに「豚」が出てくるのだ。冗談を言うにはあまりに真剣な顔を姉はしている。以後彼女はことあるごとに私の子供を「豚のような」という言葉で表現してはばからなかった。ところでスペイン語って豚語だったの?

 

「対策」ってこれかいな。こいつはほんとに「メヌエル」だ!

 

娘は側で世話をしていても、まだ2歳という年齢で、食べ物をマナーどおりに食べられる年齢ではない。おまけに娘は鼻が悪くて、いつも鼻が詰まっていた。それが食べるとき口をあけてクチャクチャやるからマナーに反するらしい。T君はそれをみて真似をするらしい。それを見て姉は神経を立てて怒るのだ。

 

「T君、豚のまねをしてはいけません!あなたは豚じゃないんだから!」

 

たまりかねて私が抗議したら、「豚に似ているのを豚といって何が悪い」と本気で反論をしてくる。「うわー、メヌエルってすごい病気なんだ!」

 

娘が物を食べているときに下に食べ物を落とす。一緒に食べているときにいちいち下にもぐりこんで拾っているわけにいかないから食べるだけ食べさせていたら、それを姉はとがめていった。

 

「あなたは子供を使って食べ物を落とさせ、私が買った新しいじゅうたんを汚して私を苦しめようとしているの!」

 

私が、2歳の子供の演出をやって、子供に食べ物を落とさせてじゅうたんを汚して姉を苦しめる、といわれてもねえ。途方もないことをおっしゃいますよ、この人は。これって、やっぱりあの「メヌエル」の症状なの?

 

そう思った私は、あえて反論せず、食事のたびに机の下にもぐりこんで子供がものを落とすたびに拾った。私は子供が食べている間、机の下に這いつくばっていた。

 

やがて姉が娘に子供の食事用の高い椅子を倉庫から出してきて貸してくれた。ああ、よかったと思ってそれに娘を腰掛けさせて食事をさせていると、T君が椅子をがたがたさせて突き落とそうとした。危うく私は椅子を支えて倒れないようにしてから、T君に私が直接注意なんかしたらとんでもないことになると思ったから、姉に注意してくれるように言った。そうしたら姉は言った。

 

「その椅子はもともとT君が使っていたもので、T君に当然の権利があるのよ。礼もいわずに椅子に座っているチッタンが悪いんでしょ。」

 

ア、そう…。

 

「3歳の子の不要になった椅子の所有権ねえ…」使わなくなったから物置においておいたものを、それを使う年齢の子が来たから出したのは姉なんだ。私が姉にお礼を言うのは当然として、そういう事情を知らない2歳の子が3歳の元所有者にお礼を言わねばならないかなあ。いろいろの思いが去来して私はあえて抵抗しなかった。

 

だってもう、あほらしいにもほどがある。

 

しかし私は次第に姉のところにいるのが苦痛になってきた。彼女が言語のことでかなり苦しんだらしいことは想像できた。しかしたとえ、彼女がある精神的な病に冒されていたのだとしても、婚家の祖国の内戦で、家族バラバラになって不安定な精神状態にあった私も、ほとんどこの姉とのやりとりに限界まで耐えたと感じていた。

 

お互いに同じような年齢の子供のことで、親どおしが傷つけあうことを恐れて、私は彼女に反論をしなかったが、もうこれ以上共同生活は無理だ、と私は思い始めていた。

 

2歳のこども相手に「お前の話すスペイン語は言語じゃない」とか、「お前が自分の子の成長の邪魔している」とか、「豚みたいな」とか言う言葉さえ使わなければ、精神不安定だった私にだって、姉のアメリカ生活の苦悩をもっと親身になって考えられたかもしれない。しかしその時の彼女の言葉は、困ったから相談しようという姿勢ではなくて、すでに侵入してきた「敵」から自分の子供を守ろうとする姿勢以外の何物でもなかった。

 

後になって聞いた話だけれど、姉には姉の「人種差別」との戦いがあったらしい。彼女の周りには、太平洋戦争で日本と戦った元軍人や、かつて、「戦争花嫁」と呼ばれた日本人が住んでいた。日米両国の人々が、それぞれの戦争の後遺症を抱えていた。

 

それらの狭間で、彼女の長男が小学生のとき、学校でいじめにあって全治3ヶ月もの重傷を負い、転校せざるを得なくなるような事件も起きた。大人しい、性格の優しい甥だった。姉は重症を負った息子を前に、死を予感して、泣いて暮したという。そういう事情が度重なれば、彼女は誰を見ても敵と考え、いきおい猛々しく防御の姿勢をとらざるを得なかっただろう。問題はそのとき、私がそういう事実を知らなかったことなのだ。

 

母がその昔姉のところに何年間か滞在していたとき、私は彼女の一家を訊ねたことがあったけれど、あのときの彼女は幸福そうだった。

 

彼女達が日本にいたときから、私は甥と姪を可愛がっていたし、子供達は日本から来た私を歓迎してくれた。彼女も穏やかで、アメリカの生活をそれなりに楽しんでいたし、病気らしい気配もなかった。

 

私達は私が生まれたときから仲が悪かったけれども、そのとき、私は姉の「幸福」を確認して帰国したのだった。

 

「姉のアメリカ」

 

私が姉の「権利意識」について、驚いたことがあった。それがすべてのアメリカではないかもしれないが、彼女は彼女なりの「アメリカ化した」生活をしていたのだけれど、「中米化」した私の意識とは余りに違いがありすぎた。

 

それは彼女の冷蔵庫に入れた食物に全てその所有主の名前がつけてあることだった。私はエルサルバドルでも、日本でもこんな家族見たことがない。果物にもアイスクリームにも子供の名前がつけてあって、お互いにその「権利」を侵害してはいけないのだ。おまけに、もっと驚いたことには、「侵害」の範囲は、「分け与える」ことにまで及んでいた。

 

私は個人の権利が徹底的に侵害される国からきた。しかしそれは個人の権利を主張する前にお互いに助け合うということがあたりまえの国でもあった。よいか悪いかはともかくとして、同居している家族に来た個人の手紙さえ回しよみするのが習慣だったのだ。食べ物は一つのトルテイージャを5人で分けて食べた。一滴の水だって分け合う国で、一家の冷蔵庫の中の品物一つ一つに所有者の名前をつけるという発想はなかった。

 

3歳のこどもが2歳の子供の前で、自分の「権利」によってアイスキャンディーを一人で食べているのを見て、私は姉に、娘の為にアイスキャンディーを「売ってください」と頼んだのだが、「売って」さえもくれなかった。「息子はアレルギーで乳製品を食べられない。だから息子の為にはアイスキャンデイーを買ったのだ。これは息子の権利なのだ。」

 

ところが、私のほうは、娘の「権利」を買おうにも、アメリカの彼女の住む地域には日本やエルサルバドルと違って、歩いていけるところに、食品や日常品を買う店などなかった。姉はいつも車で商店街まで往復していて、車がなければ生活できない地域に、姉の一家は住んでいた。

 

姉にとってのアメリカは「個人の権利」の国だった。侵害されれば、弁護士をつけて戦ってでも、権利を守り、権利を取り戻すことが日常の国だった。そのことは良い悪いはともかくとして、生々しく「命を助け合う」国から来た私には理解しがたく、むしろ異常なことのように思えたのだ。

 

あるとき姉が学校で撮った次女の写真を見ながら義兄と話しているのを聞いた。次女の通う学校は毎月子供の成長の記録を撮るために、生徒一人一人の写真をとる習慣があった。そのとき姉が見ていた写真の中の次女は目をつむっていた。

 

「こんな写真を商品として売る写真屋は、抗議して撮り直しをさせるするべきですね」と姉が義兄に言った。姉が持っていた写真を見て、義兄は言った。「ひどいねえ。こんな写真を売りつける写真屋は、戦って、仕事が出来なくなるところまで追い詰めなければならないね。」

 

そうか。撮り直しをさせるだけじゃすまなくて、その写真屋が仕事ができなくなるまで追い詰めるのが、権利を守るアメリカのやり方か。アメリカの人々の権利の守り方は、個人の権利を侵害することがあたりまえとはいえ、同時に助け合いの精神の豊かなエルサルバドルの人々を見てきた私には、かなり衝撃的なことだった。というよりも私は2歳の幼児にまで権利権利と権利の主張をしてまで、分け与えることの尊さを排除する、その「アメリカ的らしい個人主義思想」に、むしろ反感を覚えてしまったのである。