「自伝及び中米内戦体験記」8月3日

あほくさい「かぼちゃ闘争」

 

ハロウインの季節になった。当時私はハロウインというアメリカの祭りをうわさでしか知らなかった。私の時代、ハロウインもバレンタインデーもまだ日本本土に上陸していなかった。金髪染め男もゲイ(当時、ゲイのことをシスターボーイとか言っていたけど、たぶんあれは丸山明弘-現三輪明弘から流行りだした言葉だ)もそんなに大手を振って町を歩いていなかった。

 

若いときから日本の祭りさえにも縁遠い人間だったし、内戦の中米は祭りどころではなかったから、ハロインとかいう祭りに私はたいして乗り気ではなかった。。殺戮の世界からやってくると、ハロウインなどと言うものは間抜けな世界の間抜けな風習としか感じられなかったから。

 

しかしその祭りは子供たちにとっては楽しい祭りらしかった。御伽噺や物語に登場する幽霊や怪物に自分たちがなってみる、そういう祭りらしかった。楽しみの少ない子供に、お祭りは楽しい思い出になるだろう。と私は娘のことを考えて、その時は少し期待した。私は「母親」になっていた。多分、自分の2歳の娘のことしか考えていなかった。

 

姉が子供たちのために、農家にかぼちゃを買いに行こうと誘ってくれた。都会より田舎の方が好きだ。私は食べ物としてのかぼちゃしか知らなかったが、農家を尋ねてドライブというのは楽しいはずだ。私は一も二もなく賛成し、かなり嬉々として子供と一緒についていった。

 

到着した農家は季節を見込んで、かぼちゃで一杯だった。今では日本でも知られているランターンを作るためのオレンジ色のかぼちゃが所狭しと並んでいた。かぼちゃにもいろいろ人相があって私は娘のために手頃でいかにも個性的なかぼちゃを選んだ。自分でもかなり気に入っていた。娘がうれしそうにそのかぼちゃを抱いて、帰りの道を車に乗り込み家まで帰った。そのかぼちゃが、全ての始まりだった。

 

一緒にかぼちゃを買いに連れて行った姉の子T君は、私が買ったかぼちゃを娘から取り上げ、自分のだと言って利かなかった。私は其のことを単純な気持ちで「それはおばさんがチッタンのため買ったのよ。」といっただけだった。

 

別にそれで3歳の坊やと争おうなんて思っていたわけではなかった。ところがそこにメヌエル姉さんが割って入ってきていった。「誰が買おうと関係ないでしょ。T君の方が年上なんだし、男の子なんだから、T君が自分のだと決めたらチッタンにはそう納得させなさい。それが教育というものでしょ。」

 

え・・・?!私の頭の中で、「教育」という言葉が半回転した。

 

そういう「教育」受けたことなかった。性別や年齢によって他人の持ち物を侵害していいというのはヤクザの論理のはずだった。

 

「私とあなたが仲が悪いのは母様が年長を立てずに、年下を立てたからです。」と彼女は言い出した。一体何が始まったのだ!私が娘に買ったかぼちゃが自分のだといっているT君のわがままが、どうして、30数年前の姉妹喧嘩に遡って行くような問題になるのだ!?

「T君は年上なんだからまずT君の意見を聞きなさい。」と姉は言いつづける。

 

「年上かどうかより、このかぼちゃは、私が買ったのです。それをT君も見ていたはずです。他人が買ったものを自分のだと主張する子供に事の良し悪しを言い聞かせるのが教育じゃないのですか。」ことが自分のことでなくて、娘を傷つけることを怖れた私はひとまずいってみた。

 

それを聞いた姉は、怒りをあらわにして私に詰め寄った。「買った買ったと言うけれど、そんなことは子供にはわかるわけないでしょ。あなたからお金を受け取って支払ったのは私だからT君はそれを見ていた。T君は当然私が買ったと思っています。それにここのうちは私のうちで、あなたが居候だと言うことは子供だって知っています。どちらが強いかの力関係もわかっています。強い親の子供が弱い親の子供より強いことを主張するのはあたりまえで、弱い親の子に強い親の子が譲るというのは偽善教育です。そういう力関係を確立しなかった母様の子育ての間違いで、だから兄弟がみんな仲が悪いのです。私は母様の子育ての間違いを繰り返したくないから、子供たちの力関係は子供たちに任せるようにしつけています。」

 

ここはサル山かよ!

 

「かぼちゃの所有権」が問題ではなかった。姉は自分本位に構成しなおした子供時代の妄想の世界を生きている。

 

姉の中では、私の子供と姉の子供は、子供時代の私と姉なんだ。

 

問題の「母」が私を立てたことなんかただの一度もなかった。それどころか、末っ子の私は兄弟どおしのどんな争いにも、有無をいわせず、首根っこ捕まえられて土下座させられ、庭の木に縛り付けられ、暗い物置に閉じ込められ、年上のものに謝るまで家に入ることも赦されなかったものすごい幼少女時代をすごしたのだ。

 

姉がどんな論理で自分の子供を育てたって勝手だけど、違う家族の違う子供なんだ。サル山のサルの力関係じゃあるまいし、何が年下は年上にしたがえだ。

 

姉の論理に不気味な予感を感じた。支配、被支配の関係で二人の子供を見られたら、かなり自分の娘が危険な状況にさらされる。なぜなら、彼女の妄想のなかの彼女と私の子供時代は、まったくその支配、被支配の関係だったことを私は思い出してしまったから。

 

しかしそのとき、姉の論理の展開にすっかり動揺した私は、うっかり姉の妄想の世界に引きずり込まれた。遠く子供のころのあの殺伐とした家族の中に私の思いは戻っていった。たまたま同じ道を歩いていたら、姉が振り向きざま私の眉間に石を投げつけた、あの兄弟間の淘汰の世界に魂が浮遊し始めた。あの時、声を殺してむせび泣く私に味方して、私を助けたものなぞ、家族の中に一人もいなかった。

 

力関係といったって、あの家族の中で年上のものは年下のものより圧倒的に強かった。あれは弱肉強食の淘汰の世界だった。私は数回の家出と自殺未遂事件を起こしている。私の疲弊しきった精神を救ったのは23歳のときに出会ったスペイン人のシスターだ。その前に、私はあの実家の家族から恩恵を感じたことなど一度もない。

 

私の思いは、姉の妄想に刺激を受けて、幼年時代に戻っていった。

 

この姉、じゃんけんやトランプごときのゲームでさえ、私が勝つことを許さなかった、私がたまたま勝ったら飛び掛り、私の身体に爪を立ててきた。腹が立つと爪を立てるのは、もうこの人も私も成人していた頃まで続いたのだった。8人家族にたった1台あった自転車の練習をしていると、姉は自転車の前にはだかって、私が近づくと蹴ったり殴ったりして、決して私にあの自転車に触れさせなかった。私はほとんど金縛りになって、あの自転車に近づくことができず、私は自転車を見ると心のブレーキが掛かりどうしても自転車に乗れなかった。

 

(実はこの自転車という乗り物に乗れるようになったのは、69歳の時にネットで出会ったネッ友が、足腰の故障に苦しんでいた私に、自転車をプレゼントしてくれて以来である。彼は私が自転車ごときに乗れないことを知らなかった。)

 

おかしい。兄弟げんかの裁定に私はあの実家の家族の中でただの一度も「立てられた」事なんかなかった。ましてや、年下の言い分なんか誰も聞こうとする姿勢なんかなかった。其のとき自分は30数年前の幼かった自分が今の自分の娘の立場のように感じ、姉は私の娘を敵と考えて淘汰しようとしていると感じた。

 

娘をこの姉から守るのは自分しかない。攻撃された動物の親は、敵と立ち向かって子を守るのが本能だ。サル山の猿の論理に私は完全に乗ってしまった。そう。姉の「メヌエル」は、完全に私に移されたのだ。

 

あの暴力の論理を正当化するために彼女は自分のしたことを全て「母の教育の失敗」のせいにしている。私は子供のころの体験から解放されず、40代になってまったくその「母」の影響下から逃れた其のときでさえ、母に恐怖を感じていた。あの怖い母の「教育の失敗」を批判する気など、つゆさらさらなかった。

 

くだんの母は8歳で実母を失い、継母との複雑な人間関係を経て、一人出奔して上京したのが16歳、然る軍人の家の女中をしながら夜学に通い、苦学して高女を出たらしい。

 

私が知っている限り母はものすごい読書家だったけど、夜学の高女以上の高等教育なんか受けていない。なんだか知らないけれど事あるごとに誇らしげに、自分は「武士の子」だといっていた。その「武士」の系図の中に、西行がいるそうで、それも彼女の誇りだった。東京でこれも故郷愛媛からを出奔してきた父と出会い、結婚したのは何歳のときかしらない。満州と東京で9人の子供を産み、そのうち3人が早逝し、48歳にして未亡人となった。その後、死に物狂いで市の民生員の保護を受けながら6人の「お父様の遺児」を育てた。

 

あの時代のあのような人生体験をした無学な女性が、鬼になってでも、6人の子供に学歴をつけようとがんばった。結果、苦労して大学を出してやった娘から「教育の失敗」を非難されるというほうが異常なことだよ、メヌエル姉さん。

 

私はかぼちゃの所有権を譲らなかった。譲ればそこから何が起こるか私は察しがついたから。私はかつての姉の奴隷ではなく、独立して一家を守る、子供を守る母親だった。ましてや、3歳の子供のT君に年下の他人の子供を力でねじ伏せることなどに同意してはならないと思った。彼女が息子を私の娘から守る母親なら、私は自分の娘をどうしようもない論理で娘をないがしろにする伯母から守る母親だった。私達は、すでにかたき同士だった。

 

「買い物が出来ない」

 

冬が来た。私は真夏の国に生まれて夏服しか持っていない娘に、何か冬物を買ってやろうと思った。しかし姉は、「貴女はお金を使える身分ではなかろう」と言って、買い物を阻止しようとする。買い物は車がないといけない。

 

困っていたら、「T君のお下がりで、もう着られない冬物があるから、それをあげるから買うのは待ちなさい」という。それならばと私は待った。ところが彼女は、T君が自分のものを人に上げるのがいやだといって手放さないので、自分から手放すまで待ってくれという。しかしT君はどうしても自分では着られなくなったその服にしがみついていて、雪が降り出しても手放さなかった。

 

アメリカは屋内の暖房は効いているので、屋内にいる限り問題はない。しかし外出も、庭で遊ぶこともできない。「もう冬になっているのに娘には冬のパジャマも冬服もひとつもないから買い物に連れて行ってください」と懇願する私に、姉はかの独特の教育論を長々と展開した後、息子の教育が大切だから、息子があの服を手放すまで待てといって、連れて行くことを拒んだ。なんだかわけがわからない。 

 

なぜその1枚の服だけにこだわるのかさっぱりわからない。そして、私が真夏の国からやってきて冬を初めて知った自分の子供の冬服を買うのに、なぜ教育論が出てくるのかもわからない。

 

あるとき、姉の友達が、内戦の国を逃れて妹が子供を連れてきているということを姉から聞き込んで、まったくの親切から、「何かお手伝いさせてください。」といってきた。「車でもなんでも提供しますから、できることがあったらやらせてください、お姉さまもお忙しいでしょうし、私はひまですから」と。それは姉の前で言った言葉で、決して内緒でもなんでもなかった。

 

「始めまして」と挨拶したら、「大変でしたね」といって、自分のほうから申し出てくれたのだ。私が彼女に「姉が連れて行ってくれない」といったわけでもなく、それをほのめかしたわけでもなかった。まったくの初対面だったのだ。私は喜んで、娘の冬物の買い物をしたいので連れて行っていただきたいと頼み、姉も、「妹をよろしくお願いします」と頼んでくれた。…と私は記憶している。

 

「…と記憶している」と私が言うのは、それ以後起きた出来事があまりに理解不可能だったため、いったい自分の記憶に誤りがあるのだろうかと何回も反芻しているからである。

 

姉の友人が明日の買い物を約束してその日帰ってから、姉は私にいった。

 

「居候している人間には自分に罪悪感があるから、何とかして他人に自分の正当性を訴えたがる。あなたはここに永いこと暮らしていかなければならない姉の立場を考えないで、自分の都合のために、苦労して築いてきた姉の友人関係をめちゃくちゃにしていく気か。」

 

「はて、居候の罪悪感てなんだろう?他人に正当性を訴えなければならない罪なんか犯していたっけ・・・」

 

それに付け加えて彼女は言った。「あの人はT君が慕っている人なんだ。あなたがあの人と買い物にいって自分の娘を連れて行ったら、T君がいじけてしまう。」

 

次の朝、姉の友人はやってきた。私は子供は二人とも連れて行きましょうといって、買い物に姉の子供も連れて行った。

 

あたふたと、国を後にしてきたから、最小限のものしか持っていなかった。特に2歳の娘には冬物の衣類のみならず遊んでもいい自分のおもちゃというものがなかった。従兄である姉の子供のおもちゃを触ると姉が飛び出してきて、それはこの子のものだと主張して譲らなかった。冷蔵庫の食べ物には家族のだれかれの名前が書いてあった。子供同士でくれたから娘が手に持っていたものでさえ、姉は「とるな」と言って、娘に譲らなかった。

 

何がなんだか分からない出来事がこの家で起きている…と私は思った。いくら仲の悪い姉でも昔からこんなじゃなかった。物にひどく執着することは知っていたが、2歳の子供と食べ物を争うほど異常ではなかった。いったいどうしたんだろう。冗談じゃなく、これはある種の「病気」なんだろうか。

 

いろいろ考え、気を遣い、買い物も、子供のものは大きなもの以外は、できるだけ、二人分買った。手の中に入るぐらいの小さなおもちゃ、いっしょに食べられるように、乳製品や卵の入っていないお菓子を、連れてきてくれた友人に聞いて買った。

 

かつて、実家にいたとき、気を遣う私に姉は、母に取り入っていい子を演じている偽善者だとののしったことがあった。其のことを心の片隅に思い起こしながら、二人分の買い物をした。

 

車の中でもスーパーの中でも、姉の友人とは普通の対応、普通の付き合い、普通の会話があった。私は「常識」というものが「社界に対する適応能力」と関係があるのだということを深々と味わった。「普通」なことが異常と感じるほど、又は「普通」であることに感動を感じるほど、其のときの私の居候生活は普通ではなかった。

 

しかし家に帰って、二人の為に気を使って買ったおもちゃに姉が怒った。子供にはお誕生日とクリスマス以外におもちゃを与えないようにしつけているので、子供の気を引こうとしてこんなものを買ってもらっちゃ困る、というのだ。

 

「なんとでも言え!メヌエルばばあ」と、私は心で思い、もう、相手にしなかった。

 

註:私は実際には「メヌエル」なる病気がどういう病気かを知らない。めまいを伴う耳鼻科の病らしいが、それがどんな症状を持っているのかの知識はないし、ここに書いた私達姉妹の「メヌエル」に対する反応は、単なる過去の姉妹げんかの余波としての反応であって、この病気に対する差別あるいは蔑視を意味しているものではないことをお断りしておく。

 

「息抜き」 1

 

私の精神状態はすでに限界までに達していて、何とか姉の家から逃れる方法はないかと考えていた。それが通じたのかどうなのか、知らない。姉の付き合いの人々が次々に自分の家に私達親子を招待してくれた。利害関係のない他人だったから親切だった。私は他人の強みで気楽になって、彼女達の家で息抜きをした。しかし、その私にとっての「息抜き」が、姉にとっては自分が10数年かけて築いてきた付き合いをぶち壊すことになったという印象をもつ理由になった。

 

皆私が息もつけない状態になっていることを見抜いているか、または感じるかしていた。そのため、何とか姉にとっての負担も軽減するお手伝いをしよう、私にとっても息抜きをさせてあげようにという二重の配慮からの招待だった。

 

しかし喜んだ私が、彼女達の質問に応じてうっかり色々正直に答えたことが災いとなった。

 

私は3軒の家の招待を受け、3軒の家に泊まった。皆親切で親身になって話を聞いてくれたかに見えた。

 

そのうちの一人のY夫人はいわゆる「戦争花嫁」だった。日米大戦のときアメリカ側の軍人だった彼女のだんなさんは、占領軍として日本に上陸して彼女と知合った。どのようにして知合ったかということで、当時の事情をすこしでも憶測できる日本人は、彼女の境遇を受け入れなかったらしい。

 

彼女が親切に私を家に招待してくれたとき、私はそのだんなさんと英語で話さざるをえないから英語で話した。その私の英語を聞いて、彼女が言った。

 

「あなたはきちんと習った英語が話せるのね。私は習った英語ではないから、長いことアメリカに住んでいるけれど、まともに英語を知らないのよ。」私はその言葉だけで 、彼女の境遇を察していった。

 

「敵性言語として禁止されていた時代にまともな 英語を習わなかったといったって、コンプレックスを感じることはありませんよ 。今、通じる英語を話してこうして暮していらっしゃるんだから、私の時代の受験英語よりはむしろ現実的なんじゃないのですか。」

 

彼女がその言葉を聞いたとき、なんだかすごくホッとしたような表情で、私に言った。「そう言ってくださると私はうれしい。あなたのお姉さんは『戦争花嫁って教養のない英語を話す』なんて面と向かって私に言うのよ。私はご近所だからお付き合いしているけれど、別にあの方とお友達というわけではないのよ。」

 

え!?「戦争花嫁・・・」「教養がない英語・・・?」

 

そんな言葉を、そのまま直接本人に言うのか!姉が何を意味して、そういう言葉を話したのか、私は同じ時代を米軍基地周辺地域で生きたものとして理解してしまった。

 

彼女の心の痛みを突然共有してしまった私は、つられてハロウインのときにかぼちゃの所有権を巡って姉がとった態度の話をしてしまったのだ。話の進み具合で、私に親しみを感じた彼女は、よかったら1週間ぐらい自分の家にいてはどうかと言ってくれた。

 

うれしかった。それで断る理由もないから、1週間くらいならお世話になろうかと考えた私は、それを電話で姉に知らせたところ、姉は恐ろしく不機嫌になって怒り出した。受け手の電話の周りにも聞えるほどに大声で、自分の付き合いに迷惑をかけるなと怒鳴り声を上げる姉の剣幕に驚いて、Y夫人が自分が電話を代わって、招待は自分がしたんだといってあげるから、と言ってくれた。

 

しかし私は姉に気遣い、後の災いを恐れて招待を断って帰る事に決めた。自分たちの荷物は全部姉のうちにあり、姉がY夫人の招待を嫌がるわけがわからなかったため、ひとまず、招待を断ったのだ。

 

姉が車で迎えに来た。Y夫人はそのとき、私がエルサルバドルに帰る時は、お姉さんはお忙しいでしょうから、自分がカンサスの空港まで送ってあげましょうと姉に言った。それは私との会話で話していたことでなく、姉の顔を見たときに、急にY夫人が思いついて言った言葉だった。

 

しかし、その言葉が再び、姉の猜疑心を深める結果となった。空港に送ることを姉が嫌がっていると、私がY夫人に言ったのだと、彼女はかんぐったのだ。

 

「息抜き」2

 

カンサス州の隣にネブラスカという州がある。そこに住んでいる日本人で姉の友人は、偶然だけれども私の大学の同窓生だった。お互いに面識はないが、多分同じ時代に大学に席をおいていた。何故かしらないが、年齢はかなり私より上らしい。彼女も同窓生のよしみからか、姉と電話で話をしていて、私達親子を家に招待してくれた。姉の家から逃れられる、その一念で私は又見知らぬ相手の招待を受けることに同意した。

 

国外に住んでいる日本人は皆そうだけれども、日本語を話すことに飢えている。ネブラスカの彼女の家に行って、私は彼女が大学にいたのを思い出した。2,3の教科で確か一緒に講義を受けているはずだった。編入生のような雰囲気で、年齢も高かったことから、多分、彼女のほうからも同級生からもお互いに声をかけるようなことなく、孤立していた。大体同じような年代に同じ大学にいたということが判って、彼女は物凄い勢いで、昔話をはじめた。

 

彼女は戦災孤児だったそうだ。親戚中をたらいまわしにされて育ち、家庭の基本的な習慣を知らないといっていた。自分も、あの金持ちしか入れない「お嬢様学校 」ということになっている女子大で苦学していたが、見かねた学長の配慮で、月謝免除で学位をつけた身の上だった。だから彼女が戦災孤児の身分で、あの学校に在籍したという事実に親しみを感じた。

 

当時6歳くらいのお嬢さんが一人いて、彼女は自分の境遇から、何とか数人の恵まれない子供を養子にして育てたいと、ほとんど、涙を流しながらいっていたが、そんなところも私にはよく理解できた。お互いに世話になった、教育理念のしっかりしたいい大学だったなあという話になり、やっぱりここでも私は姉とは関係のないところで共感を覚え、新しい友情を育てたつもりだった。

 

それが何故こじれたのだかわからない。私はあの家でとりわけ姉の話をした覚えがないのだけれど、姉は自分の人間関係をここでも 私が壊したと信じてしまった。

 

「息抜き」3

 

いつか、私達親子を買い物に連れて行ってくれた夫人が、私達親子と、姉の子のT君を招待してくれた。その夫人の二人の男の子は、小学生だったが、T君が特に慕っているお兄ちゃんたちだそうだ。

 

招待客は子供達が主だったから、大人は子供達が遊んでいる間に、話をするひまが十分あった。私は気をつけて、自分が見てきたエルサルバドルの内戦の状態とか、姉の知らない世界のことばかり話題にした。 しかし彼女の私の体験談を聞いているうちに、何か役に立ちたいと思ってくれてしまった。

 

変な言い方をしていることに私は気がついている。しかし、人は自分の経験をしたこともない異国の内戦で、一人同胞がすごい思いをしていると思えば、それがどういう結果を生むかを考える前に自然の情として、助けたいと思うものなのだ。

 

以前に彼女が子供二人を伴って私を買い物に連れて行ったことが、姉との間のいさかいの原因になっていることなどまったく知らないこの親切な婦人は、「自分は車の運転は苦にしないし、時間もお姉さまよりはあるので、帰るときはカンサス空港まで送って差し上げたいし、空港ホテルも予約してあげましょう」と、申し出てくれたのだ。

 

私は送ってくれるという方はY夫人の気持ちを傷つけられないと思って、「では、カンサスの空港ホテルの予約をお願いします」と言っておいた。

 

しかし姉はそれら、私がそれぞれの親切な日本人から受けた申し出に対して、むげに断ることもできず、分担でやってもらえるなら、と思って頼んだことを、自分に相談もなく体面を傷つけたといって、険しい顔をしていた。

 

体面といったって、40過ぎた人間が、赤の他人の申し出に対して、いちいち姉の顔を立ててからでないと、親切に応じてもいけないものだとは、私は思っていなかった。

 

私だって実際に困っていた。帰るときのことを思うと、車を出すのをひどくしぶっている姉に頼みにくいし、子供を抱えて荷物を運ぶのに、どうしてよいかわからない。親切な申し出を断る理由はなかった。

 

「エノクの電話」

 

あれこれと悩んでいるとき、イタリアに行っているエノクから電話がかかってきた。私は電話に 飛びついた。彼の居所は私のほうに知らされていなかったから、彼との連絡 は、電話を待つ以外に方法がなかった。

 

「この家からもう出ますよ」と私は言おうとしていた。「もう何でもいいから、どこでも良いから、内戦のエルサルバドルに子供と二人で戻っても何とかやっていけるから、ここにだけは出してください」と訴えようとしていた。

 

ところが彼は開口一番、意外なことをいってきた。義兄に、アメリカで自分の就職口を探してもらって はくれないか、自分でも探すから就職が決まるまで、姉のうちにとめてもらうわけにはいかないか」というのである。エルサルバドルに戻れないような何か逼迫した問題が彼にはあったのだ。

 

エノクは優しい家族の中で育った。彼の家族観は、困っているときは自分を犠牲にしてもお互いに助け合うのが当然というもので、それ以外の考えを持つ家族がいることなど、考慮に入れていなかった。家族でなくたって、自分の家族を犠牲にしてでも助け合うお国柄なのだ。だから、彼は文句なく私の家族にもそれが当てはまると思っていた。

 

私はほとんど声を失い、抵抗しようとした。エノクが何を私の実家の家族に期待しているのか、わかっていた。しかしそれはかなわぬ夢であった。

 

私は困った。夫の優しさがわかるだけに、夫が自分ならするだろうと思われることを私の家族に期待することが、ほとんど常識であると感じているエノクの心がわかるだけに、私は無碍に断れなかった。考えた末、エノクの私の家族に対する信頼に賭けて、たった1度くらいなら彼の願いを相手に告げる労をとって みようと思った。明日、もう一度連絡をくれるようにエノクに頼み、 電話をいったん切った。

 

しかし、私の言葉を聞いて姉は言った。

 

「私達はラテンアメリカ人なんか信用しない。私達だって一介の移民に過ぎないのに、アメリカ国内で誰からも信用をうけていないラテンアメリカ人なんかの就職を世話できるわけがない。」

 

これを正直と言うのだろう。しかし、これは実の姉から直接受けた真正面からの人種差別の言葉だった。私の心はずきりと痛んだ。

 

一瞬私はたじろいだ。しかしそれでもエノクのために勇気を奮って言った。

 

「でも、自分でも仕事を探しにくると言っているから、就職の世話をしなくても、その間家に泊めてくれませんか?」

 

姉は応えた。

 

「とんでもない。あなただけでも、うちの子供達にとって教育上問題なのに、その上ラテンアメリカ人がこの家にきたら、私の子供の教育上差し障りがあるから、一日たりとも泊める訳には行かない。」

 

ラテンアメリカ人は「教育上の差し障り」があるほど不潔な人種なのか?問題は単に「都合によって受け入れられない」ということではすまなかった。その理由の深奥にアメリカが抱えるヒスパニックへの人種差別を感じ取った私はうめいた。

 

私は次の日に結果を聞くため電話してきたエノクに、事の次第をかいつまんで説明し、「理由はともあれ、とにかく歓迎されないから来ないほうがいい。自分もこの家から出るつもりだ」といった。ところが、スペイン語で話したこの内容を義兄が聞いていた。

 

姉は「スペイン語なんか言語じゃない」といっていたのだ。「言語じゃない、ましてや豚の話すスペイン語」をこの家族が知っているとは私は思わなかった。しかしこの東大出の博士は スペイン語を人間の言語として理解していた。

 

義兄から私とエノクとの電話のやり取りの話を聞いた姉は、私に言った。

 

「よくも私の夫のTさんの立場を台無しにしてくれたわね。Tさん(だれに話をするときでも、さんづけで彼女は自分の夫を呼ぶ)はあなたの夫のためいろいろな人に口をきい て、仕事を頼んでいたのよ。」

 

その言葉にあきれた私は、彼女が前の日に自分で言ったことを持ち出して抗弁した。

 

「だって、ラテンアメリカ人はこの国で信用を受けていないから世話できないとおっしゃったじゃありませんか。」

 

彼女は当然自分が言ったことを認めなかった。「そんなみっともないことをいった覚えはありません。そんな差別思想を持っていたらこの国に恥ずかしくて住んでいられません。」

 

「そんな恥ずかしいことをあなたは言ったのですよ。無意識に言ったのならなおのこと、それがあなたの恥ずかしい本心ですよ。」私は心の中でつぶやいた。ほとんど私は姉に対して憎悪を感じていた。

 

もう私は1日もこのうちには居たくなかった。私はアメリカに在住の自分の知り合いすべてに電話をし、事情も正直に話し、1時的にでも滞在させてくれるところを探 した。もう遠慮なんかしなかった。数日のうちに私はマイアミの難民部落にいたエルサルバドル人の家族 を探し出した。

 

「我々はお互いに難民だ、来れば必ず助ける」という確約を一人の夫人から得た。私はその言葉を信じた。

 

何度も私はエルサルバドルの内戦下で人に救われた。私は誰も救わなかったが、エルサルバドル人はみんな優しかった。

 

私はマイアミにいく決意をし、姉に言った。姉は想像していたとおり、忙しい自分の夫、Tさんを使うなといってカンザスの飛行場まで車を出すことを拒んだ。

 

私は以前からこういうときのため、姉の知り合いが車を出してくれるといっていたので、あの「戦争花嫁」のT夫人を頼った。しかし姉は再び自分達の面子をつぶしたといって怒った。だったらどうすればいいのだ。他に交通の手段もなく、私は途方にくれた。

 

空港ホテルの予約だけは、以前に約束していたY夫人がそっとしておいてくれた。

 

私にはもう物事 を順序だてて話をするゆとりがなかった。Y夫人も私達を飛行場まで輸送すると言ってくれたけれど、私は私がいなくなってから、みんなと姉との関係がまずくなることを恐れて頼めなかった。

 

姉も私にうんざりしていた。私には直接これ以上いてもらっては困るといいながら、義兄の前では、自分達の親切をふいにするといって怒った。置いてくれたことは「親切」だろう。しかし、極限まで異常な状態になっているように見える彼女の神経の前で、もう私はどうしてよいかわからなかった。とにかく何でもいいから早く出よう。そう思った。

 

実際姉が何を言いたいのかわからなかった。私の頼みがいやだから、すぐに姉はもう反射的に私の頼みを断る。断られたことを真に受けて私は別の反応する。思い余って私が別の道を考えると、姉の 「立場」がなくなる。だったら断る前に「立場」のことを先に考えたらどうなのだ。

 

とうとう姉も早く終わりにしたかったらしい。「立場」を守る為に車を出すことにきめた。しかし、最低限度、他人にその「立場」を壊されたくなかっただけなので、カンサスの空港まで送ることには同意しなかった。彼女は車で20分くらいでいける、トピカの空港、ほんの小型の4人のりの飛行機しか発着できない空港までなら 車を出すというのだ。

 

しかし、その空港は設備がないから、荷物の出し入れを手で各自が運搬しなければならない。

 

4人乗りの小さな飛行機はそれなりに面白いかもしれなかったが、世話の必要な幼児を抱え、荷物を3つも持って、まるで設備のない手作りの空港にいった場合の苦労のことを心配したが、それ以外に選択肢がなかった。

 

とうとう私 は決意し、カンサスまで飛ぶそのおもちゃみたいな飛行機に詰め込まれて、 荷物を抱え、12月初め、子供を引っ張って姉のうちを後にした。