「自伝及び中米内戦体験記」8月5日

エルサルバドル再び」

 

2週間の後、私はエノクの同意を待たず、内戦のエルサルバドルに帰り、住み「なれた」生活に戻った。内戦だろうがなんだろうが、自分が主体となって生活が出来、逃げるも死ぬも、自分の責任で納得ができる生活をするほうが、いいにきまっている。私は帰国して懐かしい人々に会い、懐かしい貧民窟と隣接した借家のたたずまいにかなり安堵を覚え、水が1日3時間しか出ないこの国の不便さをほとんど愛してしまったのだ。

 

帰ってしばらくしたら、エノクも戻ってきて、頭上にゲリラ大攻勢の爆撃に耐えた高級住宅街の借家には、もう住めないと、言い始めた。

 

高級住宅なんてこりごりだと思っていた私は、なれた手つきで荷物をまとめ、実に7番目の住居である レパルト ロス エロエという町の、其の「高級住宅」の半分ほどの広さの家に引っ越した。私にはもう、「級」などどうでもよかった。

 

そのころ、エノクの友人が、二人ばかり失踪し、彼自身にも脅迫電話がかかっていたから、エノクは国外に必死になって職を探していた。もしかしたら、私が子供と一緒に、日本に避難するかもしれないということも考えて、私は教え子への手紙に書いていた。

 

しかし、後から読んだ、私が書いたその手紙の内容からすると、それほど私はエルサルバドルにいることに切羽詰ってはいなかった。むしろ私は危機に満ちたエルサルバドルに「帰国」したことを「満足」して、すごく平和な気持ちで手紙を書いていたのだった。

 

あのころの私の満足度は、ほとんど尋常ではなかった。私は不便さを「愛した」。私は労働を「愛した」。私は荒れた国土を「愛した」。私は貧困を「愛した」。

 

そして私は日記にこう書いたのである。

 

「私は難民になってよかった。私はマイアミの難民部落の人々と雑魚寝をして共同生活をするような体験をしてよかった。そして私はあまりにも皮肉な運命から、あの豊かなカンサスの家に一時的にでも滞在したことを、自分の人生にとってよい体験だったと思っている。

 

あの一家との「豊かで重苦しい共同生活」の後で、難民仲間の「貧しく心豊かな共同生活」の経験がなかったら、私は「分けあうことの豊かさ」と「所有することの貧しさ」とを、福音の解釈として自分の人生に役に立てることはなかっただろう。」

 

「子供の幼稚園と私の油絵入門」

 

「高級住宅」に別れを告げて、レパルト ロス エロエの「中級住宅」に入ってから、当然のことながら人間関係が変わった。数軒先にエルサルバドル残留組の日本エルサル国際結婚組みの家もあり、子供達も多く、近所づきあいが子供を通して密になった。「家にこもる超高級家庭の子供」と「路上に徘徊する超貧困家庭の子供」とのアンバランスな関係でなく、「一般家庭の子供が大勢いる」ごく普通の人間関係がやっとできたのだ。子供は親の階級などに関係なく、いつで もどこでも仲間を見つけ、すぐに屈託なく遊び始める。

 

朝早くトルテイージャ(中米の主食、とうもろこしパン)を頭の籠に載せて売りにくるおばさんが居る。「ケサデイーヤ!!トルテイージャ!!」という豆腐屋のような呼び声に、門を開ける人々が居る。それを真似して娘が、頭に籠を載せて、「ケサディーヤ!!トルティージャ!!」と呼ばわる。そうやって彼女は原住民としてのアイデンテイテイ-を身につける。

 

ああ、心から「中級住宅」でよかった!

 

家の前には丘があって、遊園地のような遊具もあり、牛がのんびり放牧されていた。その牛が下まで降りてきて、時々家のそばまで来て、我が家の窓をぬうとのぞいたりしている。いきなりだとぎょっとするが、だんだん慣れるとかわいくなってくる。

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牛だらけの町
 

散歩に出ると、途中の道に野生のトマトがあったり、名を知らないけれど、土地の人が食べられるよ、というから食べてみた、未知の果物がなる潅木とか、何か、危機の迫った深刻な事態など想像もできないようなのどかな日々が暫く続いた。

 

庭の真中にはマラニョンの木が一本、バナナが一株、私にとってはめずらしい花をつけ、実をつけるので、私は其の植物に集まる名も知らぬ小鳥達もいっしょに、よくスケッチをした。コロニアニカラグアで子供が生まれたときから、私はこの国の動植物の図鑑を作って、子供に教育をしようと思っていた。娘に、原住民としてのきちんとしたアイデンティ-を植え付けるためだった。

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子供の故国に帰ってきたんだ、内戦という状況をひとまずおいて、子供はこの国の子として育てなきゃ。

 

そんなある時、エノクが娘を幼稚園に入れようと言い出した。人間関係が変わって、近くには同じ年の子がいない。近所の友達が学校や幼稚園に行っている間、娘は一人で私といる。 娘はかなり、言葉が話せるようになっていて、アルファベットをかたどった積み木を とても楽しんで、いろいろな形を作りながら、文字も覚え始めていた。

 

でも私が世話 をしていてもまともなスペイン語を覚えない。もう私は40を超えていたので、赤ん坊が新しく生まれることも望み薄だったから、一人っ子では社会性がつかないということが 心配だった。娘には自分みたいに社会性のない人間になってほしくない、と私はたえず考えていた。

 

それで、私達は娘を幼稚園に入れることに決めたのである。エルサルバドルの幼稚園 は2歳を過ぎた2月から始まる。夫はいろいろ探してきて、家の側までバスの送り迎えがあるモンテソ―リの幼稚園に入園を申し込んだ。

 

制服は布地だけ決まっていて、白いブラウスと青みがかったグレーのスカートを適当 に仕立てればいい。幼稚園用のテルモ(魔法瓶)の入ったブリキの手提げカバン を買ってきて子供にもたせたら、子供はその手提げかばんが気に入って満面を笑顔にして喜んだ。可愛い絵が描いてあって、多分他の子が持っているのを見たことがある のだろう。欲しかったらしい。幼稚園に入るんだ入るんだといって、そのカバンをおもての友達に見せに行った。

 

しかし子供はその幼稚園なるものが何物かを知っていたわけではなかった。始めは送迎バスに頼まず、私が送り迎えをした。連れて行った初日は、まさか親が自分を置いて、帰るとは想像もしていなかったと見えて、ぎゃんぎゃん泣いて私にしがみついて困ったが、引取りに行くときは、みんなと遊んでいて、問題ないという報告を聞き、 安心して連れ帰る。でもいつも別れのときはぎゃんぎゃん泣いた。

 

迎えにいくと、時々マイクロバスが来ていて、友達がみんな乗っていく。娘はそれを見送って、乗りたそうにしているから、あれに乗りたいのかと聞いたら、少し泣きそうな顔をして、「あれは私には載せてくれないの」という。

 

幼稚園の先生に事情を聞いたら、それは送迎バスで、登録してお金払うと送り迎えすることができるという。送迎バス には仲良しの友達も乗っていることを突き止め、送迎を頼むことにしたら、やっと慣 れて、朝、自分からバスに乗るようになった。

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幼稚園:後列の真ん中から左にいるのが娘。

 

さて、今度は子供から午前中を解放された私が手持ち無沙汰になった。何しろ家は小さいから掃除洗濯もたいしたことない。世話の焼ける子供がいない。うんざりするほど繰り返し読んでいた本に飽きて、庭の植物をスケッチしていた私を見て、エノクが言った。「本格的に油絵でもやってみないか?」

 

「え?もちろん!やるやる」といって、私はその考えに飛びついた。

 

彼は今度は私のために油絵教室を探してきた。きっかけがあったらなんでもやる人間だ。それで、私は、エルサルバドルのある著名な画家のところに入門することになったのだ。かなり熱心に通ったのだけれど、実はその「著名な」画家の名前を覚えていな い。私はそのときも先生なんかどうでもよかったらしい。

 

のんきに油絵を「習い始め」るほど、国内情勢が穏やかだったわけではない。ラテンアメリカという国は不思議なのだ。ちょうどこの時期、エノクの友人が二人逮捕されて失踪し、彼も追われて自宅に戻ることができず、国外の知り合いに電話をかけて仕事を探しているという異常事態が発生した直後なのだ。

 

そういう理由もあってあの「高級住宅」を後にしたので、平和だったらこう何度も引越しをしない。

 

異常事態でもその中の束の間、ラテンアメリカ人は、生きている間の生活を楽しむのである。集まってギターを弾いて歌いまくり、虐殺体の打ち上げられる海岸で、海水浴までしちゃうのだ。私は日本人だからすぐ悲壮になるけれど、彼らは悲壮になったりしない。いちいち悲壮になっていたら、30年も内戦を続けられないやね!

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始めて描いた絵

 

「路上の尋問」 

そういうわけで、私は平和なはずのアメリカの姉のうちと比べたら、ちっとも深刻じゃない内戦下のエルサルバドルで、まさに嬉々として油絵なんかを習い始めた。

 

町の中は物騒なはずだったけれど、私は気軽に一人で歩いた。自家用車がなければどこにもいけないアメリカじゃないのだ。メルカードで買った生きた鶏だの、行商のための品物だのを籠に入れて頭に載せたおばさんや、バスをいきなり止めて途中から乗り込んでくる、物乞いだのを乗せたミニバスに乗って、私は週に1度画家の工房に通った。

 

そのバスもかなり物凄くて、窓はほとんどガラスがなくて、枠だけになっている。焼き討ちにあってエンジンだけが作動しているバスもあって、バスの形がそれとわかる ものなんかは立派なものだ。たいていのバスはドアがきちんと閉まらないが、いつも バスの料金集金係がそのドアにぶらさがっていて、道ゆく人に大声でバスの呼び込みをやっているから、閉まらなくてもかまわない。

 

しかもバスの横腹にも上にも後ろに も、人間は張り付いていて、外から見るとまるで、人間を集めて丸めて作った乗り物みたいなものが動いている。降りるときには大声で「降りるぞ-----!」と叫ぶ。

 

人々の汗の臭いをかぎ、肌を接し、目が合うと思わず苦笑する、そんな野蛮で人間的なことに慣れたら、 もう文明的な上品さなんか糞みたいに思うほど、私はあのアメリカの生活を後にして 帰ってきたことに満足した。これが「生活って言うものだ」と私は何度思っただろう。

 

その画家の指導というのは、西洋の画家の描いたもので好きなものの模写ということ から始めたので、私は始めの数回以後は従わず、自分勝手にモチーフを持 参していった。

 

メルカード(市場)で買ってきた大きな鯛、それからやつぱりメルカードで見つけた面白い入れ物になりそうなテコマテ(ひょうたん)、それに、刃渡り60センチのマチェテ(山刀)、何でもいいからモチーフになりそうなものを背中のナップサックに入れて、教室に通った。

 

あんなバスに乗っていくのだから、私の服装はいつもジーンズに、油絵の具に汚れたTシャツ、背中にはナップサック、その中には画材と、自分勝手に決めたモチーフになるものを詰め込んで担いでいる、といういでたちだった。

 

多分、日本と違うところは、私のそういう「勝手」を、その先生も他の弟子達も面白がって、かえって歓迎し、描いた絵に拍手喝采を浴びせたことだったろう。日本に帰国してから10年くらいたってから、日本で油絵教室に入ったが、同じ題材をいっせいに描くことしか許されなかったから、その違いがよくわかる。

 

それどころか、エルサルバドルの画家先生は私が描いた鯛のモチーフを、わざわざみんなに見せて、「見てごらん、これは立派なモチーフだ」といって誉めてくれた。私はおだてられた豚としていい気になって木に登り、次から次へと別のモチーフを持っていって描いた。私はそのとき初めて油絵というものを本気になって描いたにもかかわらず、仲間は私が初心者だということを認めなかったほど、私はどんどん絵を描いた。

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これがその鯛

 

おまけに彼らは決して私に対抗もせず、心から言ってくれたのである。「あなたは本当に絵を描くために生まれたんだ。」と。内容の真偽はともかくとしてそんなことを言ってくれた人は、後にも先にも日本人では、一人もいない。

 

あるとき私は例のいでたちで、バスから降り、家に帰る途中、もう自宅までほんの5分というところで、警官のような軍人のような、とにかく制服を着た人物につかまった。荷物を見せろという。

 

え! ?とりあえず荷物を降ろして見せた。

 

彼らは、私が背中に背負ったマチェテ(山刀)を見咎めたのである。ナップサックにマチェテを背負い、絵の具だらけの服装をしている私は、どう見ても「普通の」奥さんとは見えないんだ。私は今もその頃も「普通」なんかじゃなかったが、とにかく、その時は何をやっていても、内戦下のエルサルバドルで、いざと言うときは両手を開けておかないと逃げるのに不便だという腹があったから、あらゆる荷物を背中に背負うという習慣が身 についていた。

 

何のためにマチェテを持っているのかと聞かれたから、自分はどこそこの画家の弟子で、絵のモチーフとして持っていると応えた。

 

油絵を習う夫人というのは、後で思ったけれど、どこでもある程度の心の余裕と経済的余裕があり、とくに内戦下のエルサルバドルで、そんなのんきなことを考える夫人は、多分、外側にまで人間がぶら下がった焼け焦げたバスなどに乗らないだろう。いつも、目的しか考えない私は、そのときも自分がなぜ制服男から不審尋問を受けるのか、わからなかった。

 

しかし私はその警官の疑わしそうな表情から、かなり危険を察して、そうだ、パスポートを見せようと思った。

 

ところが、私はそのとき、うかつにもパスポートを携行していなかった。

 

困った私は、言った。

 

「自分は日本人です。主人はこの国のものですが、私は日本人です。あそこの通りに住んでいます。」と私は自分の家の方角を指差した。

 

それでも相手は納得しないらしい。そこで私は、問われもしないのに、名まえ、生年月日、その他の個人情報をいって、「確認したければ、日本大使館に届け出てあるから連絡とって調べてください。疑うなら一緒にあの家まで来てください。パスポートはあの家にありますから。」

 

私は必死だった。

 

私の必死の表情を見、どう 見てもアジア系の私の顔と私のブロークンスパニッシュが功を奏したか、警官は私を放してくれた。

 

私は一目散に家に帰り、ことの次第をエノクに言ったら、彼はもうギョッとしていった。

 

「冗談じゃない。あいつら、意味もないのに歩いている人を引っ張っていくんだぞ。自国の人間だってIDカードを持っていなかったら、すぐにしょっ引いて兵隊に仕立て、最前線に送って戦わせるんだぞ。一度でもつかまったら2度と帰ってこられないぞ!パスポートを忘れたなんて冗談じゃない!」 

 

その言葉に初めて私は青くなった。そうだったのか!そんな危険を私は突破してきたのか!

 

しかしあの時ほど私は日本の国籍に感謝したことはない。日本国籍というものが、これほど外国にいる個人を守るのだということを痛感したことはない。幸い制服男は私の言葉を信用してくれた。しかし信用してくれなかったらどうなっていただろう。

 

エノクが言うように、私はその当時世界に名をとどろかせていた日本赤軍のメンバーと疑われて、拷問を受けて片輪になっていたのだろう。

 

その経験以来、パスポートを携行していないということがどういうことなのかを身にしみてわかったのである。

 

「空き巣」

 

空き巣に入られた。空き巣といっても、近所中の人が見ているところで、彼らは家に侵入したのである。数軒隣の人の話しによると、近くを警官がパトロールまでしている姿を見たというから、それが厳密に「空き巣」といえるのかどうだか分からない。とにかくその「空き 巣」は衆人環視の中、かなり堂々と私の家に侵入し、めぼしいものを全て盗んでいった。

 

エノクはそのとき大学に行っており、子供は幼稚園に行っていて、私は例の絵画教室に行っていた。絵画教室に居た私に近所の夫人が電話をしてきた。私がその絵画教室に行っていることをエノクしか知らないはずだったが、何しろ「著名」な画家先生なので、近所の夫人が電話番号を探して連絡してきたのである。

 

「今あなたのうちに泥棒が入っている。一応知らせるけれど、自分達は命が危ないから手出しができない。」という内容だった。

 

そのとき一番初めに考えたのは、スクールバスで送られてくる子供が危ないということだった。私はすぐにエノクに電話で事態を知らせ、子供をとにかく保護するように頼んだ。それから私は一人で、急いで帰った。エノクが車でバスより早く到着すると思ったからだ。

 

ところが私が帰ったとき、まだエノクは到着していなかった。怖かったので、一人で家に入る前に危急を知らせをくれた近所の夫人のところに行って事態を尋ねた。泥棒がまだ中にいたら危ないと思ったからである。そうしている内にエノクが友達と娘を連れて帰ってきた。

 

見ると、エノクもその友人も、 おっそろしいことに、手にマチェテを持っている。抜き身である。

 

え、一体何する気?

 

その後ろを、2歳半の娘が、これも父親の姿勢を真似て、なんだか戦闘態勢みたいな姿でついてくるのを見て、思わず笑ってしまった。

 

すでに私は電話をくれた夫人から、 泥棒は塀を乗り越えて、中の物を盗って出て行くところを確認したということを聞いていたので、危険が 去ったことを知っていた。それで気持ちに余裕があったので、その時のいかにも自分が泥棒を捕まえるぞと言う顔つきをした娘が、可愛くもあり、おかしくもあった。

 

家の中を見た。持っていけるものはほとんど洗いざらい持っていかれていた。一番私ががっくりしたのは、義弟が日本に出張した際、頼んで日本から持ってきてもらった、テレビ付きのラジカセが盗まれたことだった。テレビの部分は掌くらいの大きさだったが、家にはそれしか情報を得るものなかった。

 

それから私が教師時代に中近東に旅をしてバザールで買った宝石類、教え子からの餞別、その他思い出の品物がそっくりなくなった。

 

買ったばかりのジーンズとか靴に至るまで、日用品も持っていかれた。

 

私は一寸「何故、警察に知らせてくれなかったの」と聞いてみたが、隣の夫人は言った。「とにかくあなたがいなくてよかった、命だけは持っていかれなかったんだから。」

 

彼女によると、警察なんかすぐ側にいたんだから、もしかしたらグルだということもありうる。あんなのにうっかり知らせたらこちらが殺されてしまう、というのだ。

 

其の当時のこの国の人々は、警察なんか誰も信用していなかった。うっかり関わりを持つと却って危ないというのが定評だったのだ。

 

家の中で残っているのは娘が可愛がっていた黒い犬だけだった。その犬は臆病で、撃ちあいが あったときも、花火をやったときも、尻尾を丸めてベッドの下にもぐりこんでいたか ら、多分今回もどこかに潜んでいたのだろう。

 

 

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ペットのクマ

 

一渡り、調べてから、がっくりしている私を見て、エノクがほがらかに言った。

 

「ま、いいよ、仕様がない。一番大切なものはまだここにあるんだ。」

 

私はいつもエノクのこの気分の転換の早さに驚かされ、心休まる思いをさせられてきた。つまらないことをくよくよと考えがちの私はこの朗らかな言葉を聞くと、ホッと安心し、そうだ、まだ私達は生きている、なくなったものは又手に入れればいいさ、と いう気になる。彼にとって「一番大切なもの」とは娘であり、私であり、家族の平和なんだ、それは誰にも盗まれたりしないんだ、ということなのだと、私は其の当時解釈していた。

 

「物」に執着せず、常に「心の豊かさ」を追求する、民族性とも言える彼のこの言葉に、私はどんなに慰められたことだろう。 

 

「殺戮と逃亡」

 

レパルト ロス エロエ の私の住んでいた家の同じ通りに住み始めたばかりの一家 が皆殺しになった。もともと住んでいた一家が、脅迫を受けてマイアミに逃れ、其の後その家 を間借りした一家が逃げた一家と間違えられて殺害されたのだそうだ。

 

そういうことは、良くある事な のだそうで、あの時代のあの国では、それほど「とんでもない事件」ではなかった。だから、其のことを話してくれた近所の人は、なんだか一般的な四方山話をするみたいに、極めて軽い口調で、「よくあること普通のなのよ」という。

 

聞いている私も其のときは、「あ、そう、へえ」位の反応しかしなかった。

 

何しろ、その当時の日記でも、後から読むと不気味なほど、あっさり、「今日はあそこで誰々が殺された」「今日もどこぞで人が何人死んだ」などと、書かれている。

 

私達が結婚した当初、新婚旅行代わりにエノクと一緒に数日間滞在した、彼の友人ラウルの別荘を管理していた一家も、ラウルを狙った刺客によって皆殺しに会った。

 

私がまだ、スペイン語がおぼつかなくて、まともには大人とは誰とも話ができなかった頃だったから、気を遣わなくて済むので管理人の二人の子供を相手に遊んだ記憶があるが、彼らも、其のとき殺された 。

 

その情報に接したとき、私が二人の肩に手をかけて映した写真を見て、ああ、この子達も殺されたのかと思って、絶句した。

 

彼らはラウルの身代わりになったのだ。生きたラウルは現在政府の要人になっている。

 

重複するけれども、私が子供をつれてアメリカの姉のうちにいる間にエノクの身辺の事態は深刻になっていた。

 

一番恐ろしい物事はいつも水面下で行われ、私達くらいの庶民的レベルのものには、物事の本質は伝わってこない。そして、其の「一番恐ろしい物事」はひそかにじわじわと私達の近辺にも近づきつつあった。

 

もう以前に「フランシスコが国外に脱出したよ」とエノクがポツリと言ったことがある。フランシスコは彼の一番の親友で、彼が国外にでているとき、エノクがいつも彼に私のことを頼んで行った。だから、私はずいぶん世話になった人物である。なんだか奥さんとうまくいかず、最後には子供3人押し付けられて別れてしまったが、其の家族とは、なんだかだとバラバラにお付き合いがあった。

 

一番礼儀正しく、私に対して直立不動で挨拶していたので滑稽だと思って記憶しているベルトゥランという友人はブラジルに脱出し、物理学部切っての秀才で名高かったノラスコはメキシコへ、次々と脱出していった。 

 

フランシスコは最後までエノクと行動をともにしていた友人だったから、この友人の国外脱出は、彼にとってショックだっただろう。

 

もう、身辺の知人友人が次々と消えていく中で、人を頼って国外に仕事を見つけるということも、不可能になりつつあった。みんな自分の身に危険が迫っていて、身を隠すのが精一杯だったし、「危険人物」かもしれないものを引き受けてくれるのは、国内にさえ、親戚以外にはなかったから。

 

エノクにもひとつだけ国外脱出の可能性といえば可能性があった。それは米国のプリンストン大学で博士課程をとるという名目で移住するという可能性だった。留学時代の教授を通してそういう話が入っていたのだ。しかし、いかんせん、博士課程と いうものは結局学生であって、どこからも給料が出るわけではない。自分ひとりなら可能でも妻子を養うことができない。

 

其の話に私は凄く魅力を感じた。腹のそこで、あのアインシュタインプリンストンなら、あの人種差別をして私達を追い出した姉にひとあわ吹かせてやれるという気持ちが働いたからだった。しかし主人は私の暗い野心を知らず名誉を選ばなかった。あくまでも彼は自分の足元を見て、地道に 生きる方法を選んだのだ。

 

学長が二人倒れた後、大学は人材に困ったのか、主人に後任を打診してきた。エノクが私の顔を複雑な表情で見て、そのことをボソリと言ったとき、私は蒼白になってエノクにいった。

 

「今名誉のために、命を賭けるような仕事につくのはやめて!学長なんて名誉、要らないんでしょ。命あっての学問でしょ!」

 

「うん」と彼はやっぱり複雑な表情で応えた。多くを語らず、じっと何かを考えていた。学長は二人続けて暗殺された。彼が学長として立ったら、ただでさえ脅迫されたり、自分の回りの教授陣が追われに追われて総崩れになっているときに、2日と持たないで殺されるぞ、と私は思った。しかし、もう一方で、彼にとって、多分これが最後の誇りある 仕事の可能性かもしれないという、思いも私にはあった。しかし彼はいつだって、「名誉」なんて言うものを第一義に考える人間ではなかった。私の進言は多分ピントがはずれていただろう。

 

彼は結局其の打診を受けなかったが、複雑な表情で苦しんでいる彼が其のとき考えていたことがなにかを、私は知るよしもなかった。

 

「丘の上のミサ」

 

当時私が行っていた教会は、都心から一寸はなれたところにあった。都心にあるカテド ラルは一体何十年修復中なのかしらないけれど、過去の震災にあってからコンクリー トの灰色の地肌を見せて、いつまでも修復されないまま重苦しく立って居た。かつてここで大司教ロメロがあふれ返る群集を前に政府批判の熱弁を振るった場所である。

 

このカテドラルが軍隊によって占拠されてから、彼の活動の舞台は彼の所属するパロキア(教区)の個室のマイクの前となって、彼は其の小さなマイクの前で全国放送をしつづけ、小さな聖堂の中で友人の追悼ミサをしている最中狙撃され、倒れた。全世界から弔問客が訪れた彼の葬儀も、軍隊の発砲によって中断し、あれから、彼が関係した教会は怖くて 近づけなかった。 

 

あの時代のエルサルバドルの教会の司祭は、みんな物凄い面構えをしていた。温和とか 柔和とかいう表情が戦乱の中でできるのは、よほどの強靭な精神力を持った人だけだろう。司祭だから身辺警護などしないから、まるで、丸腰で刺客の中を歩いているようなものだったのである。いつも銃口の前にさらされていれば、人間は柔和になんかしていられない。

 

私達も教会に行くのが命がけだった。信者でもなかったエノクでさえ、当時のあの国のカトリック教会の指導者達の生き方を評価していた。彼らには、しっかりと民衆を守ろうという真剣な姿勢があった。かのロメロ大司教の率いる「解放の神学」の提唱者達が、虐げられた民衆の側に立って、武器を持たず、まったくの丸腰で政府の弾圧に抗議をしつづけていたから。

 

軍隊がいきなりやってきて、一つの家族を問答無用で皆殺しにする ことが「常識」だった時代に、「丸腰で」民衆の味方になって、政府を批判しつづけるなんていうことが、もうすでに、本物の十字架の道だったのだ。

 

私達が引っ越した家のすぐ前に、小さな丘があって、子供達の遊び場になっていた。あるときから、教会はこのパロキアの人々のために、この丘の上で野外ミサをするようになった。遠くに出かけていく危険を緩和するためだったのかどうか知らない。

 

牛がのそのそ歩いている、のどかな雰囲気の其の場所でミサをするのは、理由はどうあれ、面白かった。

 

1983年の復活祭のミサを私達は其の丘の上でやった。なんかいいかげんなもので、民族性なんだろうな、参加者はかなり適当な場所にかなり適当な態度で「楽しみながら」ミサに参加し、祈りの先唱に対する答唱が、いろいろな方角から聞える。

 

牛なんかもミサに参加しちゃって、そうかと思えば「主の祈り」のときに、みんなで手をつないだりする。あっちこっちからわいわいやってきて、手をつなぐのだ。手をつなぐためにわざわざ下からかけ上ってくる人もいる。「平和の挨拶」(お互いに「主の平和」といって挨拶する)になると、当然日本と違って、お辞儀じゃない。握手する人もいるけれど、たいていの人はガバ-----ッと抱擁する。そういうのが苦手な私としては一番恐ろしい瞬間だった。

 

ミサのメインはホステイアと呼ばれる「キリストの体」に変化したということになっているパンを拝領 する儀式だ。カトリック信者なら、誰でも、この儀式ほど大切な瞬間はない。

 

 

しかしこれも驚いた。この瞬間は子供のときからもっとも厳粛に恭しくしなければ ならない瞬間として、躾られていた私は、あっちこっちの木に登ってミサに「参加して」いた子供が、餌に群がる猿のごとく木から降りてきて、其のパンをもらいにきたのにおったまげた。

 

うひゃあ、こんなのあり?

はい。この国ではこんなのあり。

 

其のときも今も思うのだけど、民族性ってすごいものだ。あんな毎日隣の人が死んでいく末期的な状況の内戦下で、こんなに嬉々としてミサに与かり、人との交流を楽しんでいる民族の心。其のミサをあげる司祭達が、官憲に狙われて毎日一人去り二人去りしているときに…。

 

まあ、私にとっても危険なのや怖いのはいやだから、住んでいる家の目の前の丘の上で、和気藹々とミサに参加できるなら、ありがたいことだった。其の年の復活祭のミサ はこうして「平和のうちに」終わった。

 

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日本では復活祭のミサで棕櫚の葉を持つけれど、エルサルバドルでは、日本の生け花を思わせるような、細工した葉を持つようだ。娘が持っているのが、その棕櫚。