naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月11日

 

閑話休題」 

「メキシコ観光、これも現実」

 

メキシコをすこし観光した。エノクがわずかな望みをつないで、まだメキシコ国内で仕事を探していたし、時には私達は別行動をとらざるを得なかった。多くの場合、彼の行くところでは3歳の子供にとって退屈な事務的な話し合いなどをしていただけなので、私が子供を連れて、観光に回ったのだ。

 

行けども尽きないような巨大な歴史博物館は、古代史ファンの私にとっては楽しくて面白くてしかたなかったが、3歳の娘には無理で、いつも館内のベンチで寝込んでしまう。アステカ時代の国宝級のものが並んでいて、子供連れで、1日や2日では見ることができない。背中に荷物を背負って子供に寝込まれてしまうと、もう、目が覚めるまでアウトだ。

 

でも一人で子供連れで町を歩くうちに、場所が大体見当がついて、だんだん大胆になってきた。町のあちこちにもぐりこんでは面白いものを見つけて歩いた。

 

あるとき、ホテルに帰ろうと、混んだバスに乗ったら、子供がつぶされそうだったので、子供を前にだっこしていた。ところで、そのうち背中の荷物がやけに軽くなったことに気がついたのだけれど、子供を抱っこしていたので手が離せなくて、荷物の軽さに不審に思いながらも、確かめることができなかった。

 

ホテルに帰ってから、荷を下ろしてみて驚いた。ナップサックが斜めに刃物で切られていて、中の荷物が盗まれていた。お金以外に何が盗まれたかもう記憶にはないが、パスポートのような書類は無事だったのが不幸中の幸いだった。バスは混んでいたのだからすりというより、白昼堂々と衆人環視の中で盗みをやったのである。

 

すりが刃物を持っていれば怖いからみんな知っていても物を言わない。内戦のエルサルバドルでさえ、これほどじゃなかった。ラテンアメリカの中で、内戦がないメキシコは、まだましかな、と思っていたが、入り口の税関の役人からしてやくざみたいだったし、メキシコは恐ろしいところなんだ。

 

それやこれやで、私が入国のときにイミグレーションの係官に言った2週間という日数は過ぎてしまった。滞在日数は、当時、日本とメキシコ間の国家間の取り決めで、40日は滞在日数を延長することができたはずなので、手続きをとるために、イミグレーションに行った。ところがイミグレーションの係官は、滞在日数更新料として、200ドルを要求した。

 

その当時のラテンアメリカの200ドルというのは馬鹿に成らない金額である。多分彼らの一月分の給料に相当するほどの料金だ。旅行者にとって、特に観光が目当てでないから、生活費だけを持ち歩いていた我々家族にとって、200ドルは痛い。

 

驚いて私は日本大使館に行って事情を説明したが、日本の側の係官は「おかしいなあ、国家間の取り決めで、40日は権利として延長ができるはずですよ」という。ところが別に交渉してくれるわけでもなさそうで、気の毒そうに私を見ている。仕方なくメキシコのイミグレーションの言うなりになって、それだけの金額を支払った。

 

なにしろ、役人がその「権限」で持って、旅行客の食べ残しのオレンジを取り上げて、目の前で食ったりするのが常識の国だ。日本の出先機関も、余り信用できないし、今、どちらの国の係官とも、事を起こすのは得策ではない。そういう思いが働いた。

 

続けさまに私は嫌な思いをした。それで、私のメキシコの印象がかなり悪くなった。

 

「メキシコ観光、もう1つの現実」

 

エノクの友人、コンスタンティーノの招待を受けて私たちは町の目抜き通りからかなり遠いところにある彼の自宅に案内された。コンスタンティーノは、エノクがアメリカに留学していたときの留学生仲間で、なんだか雰囲気が、先にアメリカに脱出した親友のフランシスコに似ていた。気さくで誠実そうな男である。

 

5歳になる息子がいて、長男だからやっぱりコンスタンティーノという。ありがたいことに娘が仲良くなって、遊び相手に、付いて回っている。彼らの案内で、メキシコの観光地、太陽の神殿等に行った。子供達のために牧場に行って、子馬に乗ったり、やぎの車に乗ったりして遊んだが、メキシコの旅は、目的が難民申請と職探しだったし、そのときの印象が強くて、観光のことがかすんでしまい、あまり記憶が鮮明ではない。

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リャマに乗る

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ヤギの車に乗る。

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仔馬に乗る。

 

あるとき親子3人でレストランに入った。旅先でとりあえず入る野外レストラン、特に選んで入ったわけではない。お腹すいたから子供に早く食べさせようとして入ったのだ。鶏のから揚げがあったと言う以外にどんなメニューだったかもそれほど記憶にない。

 

私のメキシコの印象は思わぬ事態に居合わせて、かなり複雑なものになった。

 

レストランで私たちが食事を済ませて立ち上がったとき、どこからともなく現れた半裸の子供達が一斉に手を出して叫んだ。

 

「その鶏の骨、捨てるのならくれーーーーー!!」

 

一瞬私たちは自分達のお皿を見て骨を探した。飢えているのだ!屑でも骨でもかぶりつきたいほどに飢えているんだ!愕然として納得した。

 

子供たちはお客が食事終わるのを待っていたんだ。捨てられる前に何でもいいから残り物が欲しいんだ。

 

しかし皿には残したものなんか、本当に骨しかなかった。

 

私はエルサルバドルで、ドアをたたいて食べ物をねだる人たちに、残り物を上げるに忍びなくて、待たせておいてわざわざ肉を焼いてあげたのだ。私は飢餓を知っていた。善人ぶって気取っていたわけではない。私は其のときも、あまりにも、自分の過去にとらわれていた。子どものころ私は鶏肉なんていうごちそうが出ると、骨をしゃぶり、骨を割り、その中の髄までしゃぶって食べた。

 

その思い出があったから、一瞬半裸の子供達に、「捨てるのならその骨をくれっ!」といわれても、骨だけをあげる気がしなかった。

 

半裸の浅黒い肌の子供 達。その目が黒く光り、一斉に手を出した彼らの表情は真剣だった。

 

如何しよう、新しく注文しようか…そう思っているうちに、レストランのボーイが駆けつけ、なにごとか大声で怒鳴りつけて子供たちをハエを追い払うように追い払った。彼らはチリジリに逃げて行った。ボーイは私たちを見て、「まったくあの連中しようがない餓鬼だ!」といって、ニッと笑った。

 

何か上げたかったのに。と私は思った。しかし何もあげることができなかった。しかしあの子供達の声がいつまでも記憶に残り、観光地で見た歴史的建造物や、歴史博物館で見たさまざまな古代の遺物の記憶を押しのけて、今でも、メキシコといったら、あの半裸の子供に骨をあげることのできなかった思い出が心をよぎる。

 

「乾坤一擲」

  

 「来たぞ!」

 

かくして私たちはメキシコの旅を終え、手ぶらでエルサルバドルに帰ってきた。楽天的なエノクも今回はかなり沈んでいた。彼はオーストラリアかカナダにいけると思っていた。すでにオーストラリアに移住している友人もいたので、個人的に連絡も取り合っていた。

 

彼はまさか妻の私の国籍が邪魔して、拒絶されるとは思っていなかった。経済大国日本の国籍を示すパスポートというものはその当時も今も、かなり大きな特権があって、ほとんどの国も自由自在に通過できる代物だ。しかし、世界で大きな顔をしている日本国は、難民政策に非協力的という評判だった。それが障害になったのだ。

 

エルサルバドルに帰って暫くすると、私は日本から5通の手紙を受け取った。全て実家の家族からのものだった。以前母の手紙は子供が生まれた頃、2、3受け取ったことがある。しかし兄達 からの手紙というものは今回が初めてだった。

 

「村瀬先生という方から連絡を受けた。帰国を考えているそうだが、我々はあなたを受け入れる気持ちはない。日本はあなた達が住めるような国ではない。日本にいまさら帰るのは反対である。」署名が違うだけで5通がすべて同じ内容だった。

 

来たぞ!」と私は思った。「案の定始まった。」

 

それから今度は国を離れて以来一度も来たことのない国際電話が鳴り出した。私が村瀬先生にこちらの電話番号を教えたから、伝わったのだろう。兄嫁の一人が連絡をしてきた。

 

「お母様の伝言です。あなたが帰国するのは反対です。あなた方親子で来ても、あいている場所は物置しかないので、物置に住むつもりなら、それでもかまいません。しかし経済生活は別にすること。とのことでした。」(注:「物置」とは私が独身時代に暮らしていた庭にある2畳くらいの小屋。ベッドが一台と勉強机が入る程度。)

 

前置きもなく、ただ母の伝言として、読み上げるように、こういった兄嫁は、「こんにちは」とも「いかがですかと」も「さようなら」とも、常識的な言葉は全くなく、唐突に「伝言」だけ伝えて電話を切った。

 

「反対です」と言われたって、私はただの一度も、自分の帰国の賛否を彼らに尋ねたことがない。どこかに住まわせて暮れとも言った覚えがない。経済的に負担をかけるといった覚えも、考えた覚えもない。

 

それなのに、一斉に立ち上がって私の日本帰国反対反対と叫ぶために同じ文面の5通の手紙をよこすとは、家族の拒絶反応を予想していたこととはいえ、いくらなんでもショックだった。はじめから強靭な神経なんか持ったこともない私は、5通の手紙によって、立っているのも覚束ないほど動揺し、がくりと膝を折ってどっと涙を流した。どんな困難の中でも、どんな不都合が起きた時も、流したことなんかない、涙だった。

 

みんな自己保全のために立ち上がったのだ。姉の顔が脳裏に浮かび、脳裏に浮かんだ姉の顔におびえ、もう、だめだ、と思った。兄弟5人、そしてその配偶者たちで10人、一斉に「来るなコール」で立ち上がったのだ。

 

家族のうち誰も、自分たちと昨日歓談していた友人が、今日は屍となって棺の中に横たわるというような、体験をしていない。たとえ死の影におびえるかつて家族のメンバーであった人間でも、其の就職先が決まって、自分たちに迷惑をかけるかかけないかということが確認できないから、もうひたすら自分たちの前に「変な奴が」現れることを拒絶する。

 

オーストラリア大使館の難民受け入れ係員から聞いたことは、国民の隅々まで事実だったのだ。

 

ボートピープルが艱難辛苦の末、日本近海に現れても、門前払いするという、国際的に問題になっているあの日本国家の態度が、国民のすべてに、直接の親族にまで、浸透している。その現実を、自分のことして、私は体験したのだ。

 

次の日、私は別の人物から駄目押しのように私の日本帰国反対の電話を受け取った。その人物とは、エノクがかつて、アメリカの留学生だった時の留学生仲間の日本人で、彼が国費留学生として日本に始めて上陸したとき、頼った友人だった。

 

その友人の奥さんが、たまたま私の勤めていた学校の講師だったことから、彼女の紹介で、一時的にその高校の講師となって、その結果として、私たちが出会い、結婚することになったのだから、決して無縁の人ではなかった。だから、その友人に、エノクは日本での就職の斡旋を依頼したらしかった。

 

彼は開口一番私に言った。「奥さん。エノクさんに日本での就職の斡旋を依頼されたけれど、無理ですよ。彼はスペイン語は自国語だからできるでしょうけれど、英語、そんなにできないでしょ。あの程度で日本で就職するのは無理ですよ。日本は難民に対して 非常に門戸を閉ざす国だし、この国ではエノクさん、やっていけないでしょう。考え直させたほうが良いですよ。」

 

エノクは学術書を全て英語で読み、英語で講演し、英語の国際学会に出ていた人間だ。何をもって主人の英語を「あの程度の英語」と断定するのかわからなかった。問題は「英語」じゃなくて、「頼られちゃたまらない」という拒絶反応でしょ?何が英語ができないだ、もう。。。

 

大方彼の「できる英語」の基準は、日本人が好きな「訛りのないブリティッシュ」かどうかにあるのだと思うが、それにしても、どうしてわざわざこういう断り方 をするんだ。エノクが頼りにし、就職の斡旋を依頼した人物である彼が、こう言う電話をしてきたことを知ったら、エノクはどう感じるだろう。

 

人は皆、ヒトの命よりも先に、生きるための能力、仕事のことを考える。仕事がない低開発国の人間が転がり込んできた場合の、自分たちの負担のほうを考える。

 

日本に来たら暮らせませんよ、別の道を考えたほうが「あなた方のためですよ」、と彼は言う。

 

其の本当の意味は、「迷惑だ!むしろ死んでくれ!」と言う意味である。「あなた方のために」、とひとはいう。自分が万策尽きて頼られた最後の人間だということを知りながら、彼らは心のうちで言っている。叫んでいる。「来ないでくれ、頼むから!」

 

知っている。私は其の心の真実を知っている。なぜならば、私もそうだったから。絶望的に私は言う。「私もそうだったから!!」

 

マルタの家族を助けることを拒んだ私は知っている。理解できる。誰にでも自分の家族だけを守りたい本能があることを。他人の命に責任を負いたくないことを。

 

それで私はエノクに言った。「森さんが電話で日本は諦めなさいと言ってきました。日本の受け入れ態勢はかなり厳しいものがあるそうです。」

 

彼は森さんをかなり信頼し、期待していたようだった。それが失敗に終わったことを知り、にわかに自信を失ったエノクは、じゃあ、日本は止めるか!といいだした。

 

まだ、メキシコの日本大使館からビザが出るかでないかの返事はきていなかった。返事を待たずに別の道を考えるか、と彼は何か遠くを見るような寂しそうな目で、言った。その表情を見て、日本行きに気が進まなかったはずの私は、なんだか気の毒になった。

 

私は考えた。これは非常事態なのだ。非常事態に頼るべき人というのは、ただの常識人ではまずい。会社の役員とか、企業マンでは、現実的な情勢判断ばかりするだろう。非常事態に人を助けられるのは、非常事態用の精神を持った人間だ。たぶんエノクの人選が間違っている。

 

私の脳裏には、どうしてもあの村瀬先生しか浮かばなかった。

 

その後先生からは何の音沙汰もなかった。家族の否定的な反応が先生経由だったことから、私の先生に対する依頼を、もしかしたら本来あるべき姿として、私の家族に預けたのかもしれないな。そう断定するのが恐ろしかった。だから、私は先生から何かを言ってきてくださるまで、答えを保留にしてあった。

 

しかし私はエノクの寂しそうな顔を見て、黙っていられなくなった。とうとう私は村瀬先生に直接電話した。

 

「私たちはこの2、3日、日本の親戚知人から主人の就職 に関しても生活に関しても、まだビザも下りていないうちから、ネガティブな情報ばかリ得て、たとえビザが下りても日本で生活する自信を無くしています。だから、もう日本は止めて、できるなら今からでもオーストラリアを考えたいとおもいますが、先生オーストラリアのほうに、何か、伝手でもお持ちではありませんか。」

 

「なにいってんの?」と彼は言った。「僕はあなた達3人分の帰国の旅費を送ったよ。」

 

「えっ!!!」

 

彼は「身元引受人」を受諾したのだ。

 

彼は言い続ける。「僕はあなたをオーストラリアになんかやらないよ。あなたのご主人は日本で、あくまでも自分の専門が生かせるところに就職してもらう。バーテンだのホテルだのでの仕事を探してくれている人もいるけれど、そういうところで働かせる気はない。そのために僕はもう手を打ってある。神様は僕にもあなたにもついている。お祈りしながら就職活動をしているのだから必ず聞き届けられるはずだ。そうだよ。決まっているんだ。」

 

決まっているのかいな!と面食らって私は考えた。

 

「就職活動って、まだビザが下りると決まったわけではございませんが。」 という私に彼は言った。

 

「ビザなんか下りるんだよ。僕は知り合いの外務省関係、法務省関係に働きかけて、ご主人のビザが下りるように運動をしたんだ。感触としては近日中にビザは下りるよ。共同通信にいる教え子に働きかけて、あなたのご主人の受け入れを支援するため、新聞広告も出しているよ。」

 

彼はまさしく「普通の」人物ではなかった。私が1%の可能性を可能にすることができる人はこの人を措いて他にないと考えて選んだその勘に狂いはなかった。

 

それから数日して、私はメキシコの日本大使館のY氏から電話を受けた。

 

「下りましたよー。」と彼は明るい声で第一声をそう切り出した。

 

「え?ビザですか?」と一瞬ひるんで私が言うと、彼もなんだか意外そうに「そうなんですよ。ご主人のビザが下りちゃったんですよ。どうしたんだか降りたんですよ。」 と知らせてきた。 「ビザが下りちゃった理由」が当の大使館の職員にもわからないほど、その事実は「異常事態」だったんだ。

 

うわーー!

 

「やったんだ、あの先生!」

「祈ったんだ、あの先生!」

「あの先生、いつものように、神様にすがりついたな!」

 

彼の思考回路を知っている私はうなってそう、つぶやいた。

 

私が頼ったのは世故にたけた会社人ではなくて、裏に組織を持っている役人でもなく、「手のつけられないほど純粋無垢な元宮内庁勤務のクリスチャン」だった。彼は私が投げた変化球の1%を、祈りと信仰によって100%にした。 本当に純粋に、それは彼の「祈りと信仰」の結果であったという以外にない。

 

彼は完全に、学生時代以来の私の信頼に応えたのだった。自分の社会的立場(私は彼の社会的立場なんて知らなかった)を利用せよという言葉に嘘偽りはなかった。その言葉を嘘偽りのない言葉として受け止めた嘘偽りのない私の信頼に、彼は応えたのだ。

 

40女の純情と70男の純情を笑うものがあるなら笑え。ある瞬間人間にはこう言う出会いがあるものだ。

 

エノクは勤めていた電力会社に休職届を出し、1984年8月初旬、就職活動には本人 が来ないとだめだという村瀬先生の進言を受けて、一人で日本に向けて出発した。