naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月16日

日本て、こういう国だったか。。。

 

1)「内戦国と平和国の脳みそ」

 

帰国後数年の間、私の心と脳の動きは、8年間のエルサルバドルの内戦をさまよい続けていた。「内戦神経」の目で見ると、日本は、あまりに「無神経な人々」がいるように思えた。

 

通りに出てごみの山を見たときに、そのゴミがあのエルサルバドルでは宝の山だということを思っては心を痛め、立ち止まっては利用可能なものを家に持ってきた。汚れた鍋を磨いて使ったり、工作が出来そうな風呂のすのこ等を、庭に立てかけて置いたりした。これは後に鶏を飼ったとき小屋を造る材料になったけれども、拾ってきたときは利用法など考えていなかった。

 

私は、使えるものが捨てられているのをみるたびに、エルサルバドルの家の前に出したゴミにたかる半裸の子供達を思った。時には涙し、時には憤った。

 

それを知った、かつて同じ家庭で戦後の貧乏を生き抜いた次兄が、これはエルサルバドルに行ったわけではないのに、使えるゴミの回収魔で、机やマットレスまで私のうちに持ってきた。母はこれも輪をかけて、過去の経験にこだわる人だったので、捨てられた衣類のめぼしいものを拾って、しまいこんでいた。

 

その中から彼女は毛織のズボンを持ってきた。毛織物が高価な時代を生きてきた母は、こんな高価なものを捨てるのはとんでもないといって拾ってから、虫食いだらけのズボンを解いて平らな布にして持ってきたのだ。

 

色はきれいなピンクだった。それを利用しなかったら、ことだぞ、と思った私は、何とか、使えそうなところを切り取って、娘のワンピースをこしらえた。虫食い穴は、バラの刺繍で一つ一つ埋めて、どうしようもないところには、これも古いレース地のブラウスの解いたものを貼り付け、かなり華やかなドレスに仕上げた。

 

4歳の娘がピンクの布に、バラの花が散っている、素敵なドレスを普段に来ているのを見て、細工をして物を再生することを辞めた日本人は事情を理解せず、皮肉を言った。

 

「難民だとかいいながら、5万円もしそうな高価なドレスを4歳の子供に普段着に買って着せている。」

 

これって「評価」なのかな。。。私はあのドレスに1円も使っていなかった。エルサルバドルの人なら、皮肉など言わず絶賛してくれただろうに。「同じ」を尊ぶ日本では、育ち盛りの4歳の子供服なんて、手製で仕立てることは「贅沢で」Tシャツとズボンで間に合わせるべきだったらしい。ゴミ捨て場で拾った襤褸でドレスを作るほうが、たとえ100円ショップで買うTシャツでも、合理的で安かったのだけれども。

 

しかし、こちらが何も言わないのに、勝手に5万円と決めて皮肉を言う人間に、うるさいから説明をしなかった。私はすでに、地域の隅々まで消費社会になった日本の現実から自分の感覚が浮いていることに、まったく気がつかなかったのである。

 

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5万円の服

 

2)「カルチャーショック」

 

ある国に住んでいた人間が、一度外気に触れて戻ってくると、多分、外見から雰囲気的に異質の物を持ち込んできているらしい。帰国した本人にとって、祖国は懐かしいし、自分のほうの変化には気が付かないから、もともと日本から移動したことがない人の反応が、逆に異常に見える。

 

どうもそれを「カルチャーショック」というらしい。

 

私もその「カルチャーショック」を娘と一緒に感じながら、なにか、自分が自分で歩いていないような、「平和」ではあるのだけど、しっくりしない変な気分で、「日本滞在」の初めの頃をすごした。

 

エルサルバドルの生活から日本の現実に頭が転換できない状況は、当然娘にもあった。

 

まだ帰国して松戸に居を定めて間もなくの頃、幼稚園に入る前娘は近所のエミちゃんと友達になった。娘はスペイン語で話していたから、エミちゃんははじめてもことでびっくりしていたが、それでも子どもの世界は自由なもので、二人とも自分の言葉を勝手に話して仲良く遊んでいた。

 

そういう娘があるとき変な顔をして帰ってきた。

 

「エミちゃんのところにいったら、お母さんが、今日はお父さんがいるから、うちでは遊べないのよ。というんだけど、エミちゃんのお父さんて見ちゃいけないの?凄い顔しているの?」とまじめな顔で聞くのだ。

 

大笑い。私だって、その事情がすぐに飲み込めたわけではなかった。エミちゃんのお父さんは警察官で、非番のときは自宅で寝るのだ。家が大きくないから、子供に騒がれては眠れなくて明日の仕事に響くということらしい。

 

エルサルバドルではどこの家庭もお父さんが早く帰ってきて、子供と遊んだり、自分の子供と遊んでいる子供の友達は、まとめてどこにでも連れて行ってくれたりする。

 

エルサルバドルでは、お父さんは「見ても」よかったのだ。日本じゃそのお父さんを見たことがない。せっかく今日はいるから遊んでくれるかと思ったのに、「見ちゃ」いけないらしい。どんな凄い顔しているんだろう、と子供は思った。

 

隣近所の付き合いで、自分の子も他人の子も一緒に車に乗せて、買い物に連れて行ったり遊園地で遊ばせてくれたりするエルサルバドル方式は、もちろん日本では通じなかった。

 

私は一度、これを日本で適応して大失敗した。出かけなければいけないときにいつまでも娘が友達と遊んでいたので、一緒に車に乗って良いよと言って、親にも連絡せずにその子を連れまわした。

 

途中で寄った市川の兄のうちで、見知らぬ子を見た義姉が不審に思ったのか、私にどういう事情でつれまわっているのか聞いた。別に事情なんかなかった。だから、こちらはあほ面して、事情なんかありませんよ、といった。

 

そうしたら姉は言うのである。そんなことをしたら、日本では幼児誘拐罪になる。

 

ぎょおおおお!

 

私は慌ててその子に自分の家の電話番号を聞き出し、母親と連絡を取った。なんだか低姿勢で謝りに謝らなければならなかった。向こうでは喜んでもらえる行為が、日本ではとんでもない非常識で、ひょっとすると訴えられるかもしれない行為だった。常識というものが万国共通ではないことを思い知った。

 

2)「幼稚園」

 

松戸の社宅に落ち着いてすぐに、私が始めなければならなかったのは、日本語を全く知らずに育った子供の教育のことだった。カトリックの国で育った娘のことを考え、よほど電車に乗って通う教会の幼稚園にしようかと迷ったが、近所の友達と遊ぶためには、近くの幼稚園がよい、と考えなおした。

 

 

一番人気があって四方八方から大勢の子供が集まるという評判を、隣の住人からきいて、幼稚園バスもあるけれど、歩いたら15分くらいで行ける「みやおか幼稚園」というところに様子を見に行った。

 

通う道は自然公園があったり、畑や野原を右左に見て気持ちがいいし、バスで通うほどの距離でもないので、慣れるまで毎朝私が送っていくのも楽しいかなと思った。そのほうがあたりの地理も覚えるし、幼稚園の先生と毎日会えるほうが、様子も聞けて都合もいい。

 

近所に同じくらいの年齢の子を探したかったが、どうもどうしたらよいかわからなくて、幼稚園入園まで待つことにした。入園まで、新しい環境に慣らす為に、散歩がてら、毎日子供を幼稚園のそばまで連れて行った。

 

「ほら、ここがあなたの通う幼稚園よ」といって、しばらくその幼稚園の周りをうろうろし、ついでに近くの自然公園で遊ばせたりして、通うことを納得させるうち、子供は4月を心待ちにするようになった。

 

幼稚園の生活で必要だと思われる日本語を何とか間に合わせに教えたが、私自身がだいたい、大家族の中の放置された末っ子で、幼児用語を知らずに育ったし、日本で出産経験がないから、母子手帳も何も持たず、子どもを持つお母さんたちとも交流もなかったので、教えるべき言葉といっても、実は私自身、見当もつかなかった。

 

ところで、始め気がつかなかったが、娘が仲良くなった子供達は、みんな近くの子ではなくて、別の学区の子供達ばかりだった。遊びに行き来するのも、かなりの距離を行かなければならない。私は間抜けなので、あまり気にとめず、そんなものかなと思ったが、あるとき、娘の幼稚園のバスが近くを通るのを見た。バスから大勢の子供達が下りてきたが、みんな別のクラスの子供達らしく、娘はその子たちを知らなかった。

 

朝先生に会って、娘のクラスに何故同じ学区の子供達がいないのか、聞いて見た。そうしたら、バスの送迎の都合上、クラスを学区別に分けていて、同じ学区の子はみな同じバスに乗ることになり、徒歩通園の子はみな幼稚園の近くの子だということが分かった。

 

まあ、その時娘を通じて得た友人は、今に至るまでお付き合いがあって、それはそれで収穫があったのだけど、事情を知らずに、徒歩通園にしたために娘の近所付き合いが1歩遅れるという結果になってしまった。

 

日本は、もう、親が子を送り迎えするわずらわしさを嫌って、近くの幼稚園でも、バスに乗せ、幼稚園も便宜をはかって、同じ学区の園児を同じバスに乗せるため、クラスとバスと学区を同じにするという方法をとっていた。そういうことを知らず、徒歩にしたために、しょっぱなから娘は近所づきあいから遮断されるという結果になってしまった。

 

子供と手をつないで送り迎えするなどという期間は、人生の中のほんの2年間、タンポポが白い綿毛に変わり、桜が咲いて花がちり、ツバメがきて巣を作り、蜻蛉を追って歌を歌う、そういうのどかな野道を親子で行くのと、バスを走らせて通過してしまうのとくらべたら、私は断然野道をとるけれど、日本はすでに全ての価値より時間的合理性を尊ぶ国になっていた。

 

3)「これ多分異常だね」

 

あるとき娘の友達が大勢で遊んでいた。おもちゃの交換をしているらしい。お互いに「これ、きらいだから上げる」とか「これいらないから上げる」とか言って交換していた。

 

私はその言葉を聞いて、又エルサルバドルの貧民達を思い出してしまった。自分の嫌いなものを上げるという言葉はあの国では聞かなかった。捨てたものを勝手に持っていくということはあっても、わざわざ嫌いで用がないから、他人に上げていたわけではなかった。

大体「嫌い」なら「上げる」とはいわないはずだ。

 

友達が帰ったら、私はよせば良いのに娘に言った。「お友達には上げるのでなくて分けるのよ、自分の好きなものを分けるのよ。嫌いなものを人に渡すのは捨てるのと同じで、上げるとはいいません。」

 

「好きなものを上げるの?」と娘はあどけなく私を見上げていう。「お友達が好きでしょ?好きなお友達には、自分の大切なものを分けるのよ。好きな人に嫌いなもの押し付けるのは、おかしいでしょ?」

 

数日後、娘は誕生日に買ってやったばかりの4000円もする奇麗な人形を、近所の由美ちゃんに、上げたといって、帰って来た。こう言う結果を予期していなかった私は驚いて、果たしてこの子は自分の行為に納得しているのだろうがかと疑い、本当に上げたくて上げたのかを問いただした。

 

自分の言葉の矛盾丸出しで、4000円の金額を恨めしく思いながら、娘の心の動揺を誘うようなことを口走った。

 

「だって、由美ちゃん好きだから、由美ちゃんが欲しいっていうから、大好きなお人形上げたの。」

 

「そそそそそれでいいの?」私はいやらしく娘に「やっぱり取り返してくる」という言葉を期待してたずねた。娘は全く動ずる気色なく、「由美ちゃんが好きだから大好きなもの上げたの。」と繰り返した。

 

あの人形、父親が買ったんだ。困ったな、と私は内心困った。でも仕方ない、私が子供に不用意に建前なんか言ったのがいけないんだ。そう思って、帰ってきた夫にことの次第を告げた。そうしたら、このお父さん満面に笑みを浮かべていきなり娘を抱きしめた。

 

「Oh really!?」「I'm proud of you ! I'm really proud of you!」

 

彼はそういって、雨霰と娘にキスして喜んだ。それから私に言った。「絶対に取り返しにいったり、子供に惜しいなという気持ちを起こさせたりするなよ。」

 

うへ!図星じゃないの。がっくりした。

 

次の日,当の由美ちゃんのお母さんが人形を籠に入れて返しに来た。「これは娘が取り上げたらしいので、お返ししに参りました。」

 

私は娘を呼んだ。娘は由美ちゃんのお母さんを見上げてまじめな顔でいったのである。

 

「それは由美ちゃんに上げたの。由美ちゃんが好きだから。好きなものは好きな人に上げるの。」

 

私はそのとき由美ちゃんのお母さんに言った。「娘がこう申しております。一度差し上げたものですから、お返しにならないでお持ちください。」

 

由美ちゃんのお母さんはあきれたような顔をして戻っていった。

 

私が思い出としてこの文を書いているのは、いまだにあの4000円の人形が惜しいからであって、ただの親ばかだから娘自慢の記録としてかいているのではない。私みたいに心が右に左に揺れる親を持ちながら、この娘は全く動じることなく、聞いた言葉通りに従って生きていた。

 

そして私が発したあの言葉は、私の意思とは無関係に勝手に娘の中に根付いて、この先ずっと彼女の心の中に生き続けた。

 

4)「娘の変化」

 

ところで、その幼稚園に入ったころ、娘はスペイン語しか知らなかった。やっと同じ年齢の集団に入ることができた娘は、初めは元気で、まるでエルサルバドル人まるだしで生きていた。

 

夏のお楽しみ会というものがあって、みんな浴衣を着るらしい。それで、買ってやった浴衣を娘は実は拒絶した。なんと、「自分はエルサルバドル人なんだ、エルサルバドルの服を着るんだ」と言って、一人で民族衣装を着ていった。人と違うことを娘は意にも介さなかった。其れを私達はかなりたのもしく、誇りを持って見ていた。

 

ところが、あるときからその娘が変わった。毎日毎朝窓の外を通る友達を見ては、友達に合わせて服を選び、持ち物を選び、友達に合わせたがるようになった。妙な事態が起きているぞ、と私は感じたが、エルサルバドルにいた当時から娘の身の回りのものは、全部私が自分で作っていたから、ともだちと同じ物なん持っていなかなかった。

 

エルサルバドルには確か、「友達にあわせて服を選ぶ」という感覚は無かった。私は困って親戚に相談した所、「ニッポンはこうなんだ」と言って、親戚中のお古をかき集めて、呉れた。

 

単なるTシャツとズボンで、なぜ其れを着なければならないのかさっぱり分からなかったが、ともかく其れを着せた。

 

娘の変化は、服装だけではなかった。

 

父親に対する態度が変わったのである。ある時から、父親がだっこしようとすると避けるのだ。しかも、なんだか暗い顔して言った事は、「パパの手は赤黒いからいや」と言う言葉であった。

 

一体誰が、父親の肌の色が日本人と違うことを4歳の娘に気づかせたんだ。私達は事態を察した。特にエノクは真っ青になった。家族を生かそうと思って難民となり、なれない日本の企業に入り、毎日ストレスを溜めていた彼は、差別に敏感だった。彼は興奮して幼稚園に行き、園長と話しをした。

 

しかし日本の事情にもう少し詳しい私は、是はもっと危険だと思った。園長の態度は硬かったし、鎧兜に身を固め始めたのが見えたから。

 

家に帰って私は一人対策を考えた。色の違う外国人の父親と、混血の子供に対する世間の反応をかえる事はできない。唯一かえる事ができるのは多分自分の子供の気持ちの持ち方だろう。彼女はまだ子供で事情を説明してもわかるわけが無い。子供の気持ちを変えるために演出をしなければならないのは私だ。

 

私は、故国の内戦の中で、多くの仲間を失い、国外に出る決意をした時のエノクの言葉を思い出した。

 

「今までは魂の為に生きた。是からは胃袋の為に生きよう。」

 

その言葉が何を意味するか、私は知っていた。子供と家族を思って彼が選んだ最後の選択が、自分の信念を犠牲にする事だった事を知っていた。ラテンアメリカ人の家族の結びつきは強固である。追われる一人のメンバーを親族全員が助け合い国外に逃そうとして、国境で一族眷属皆殺しに会った家族も有る。

 

彼にとって、ニッポンで血縁関係にあるものは、四歳の娘一人である。その娘が、こともあろうに自分を皮膚の色で差別した。是は家族に崩壊につながりかねない。事態を私は深刻にとった。

 

よし、演技をやろうと私は思った。私は高校教師時代の演劇部のもと顧問だ。あそこで身につけた演技力をいま生かしてやろう。

 

玄関に音がした。エノクの帰宅だ。父親を迎えに出なくなった娘を尻目に、私は飛び出した。テレビも消し、洗濯を止め、裁縫も放り出し、料理も中途に、思いっきりどたばた飛び出した。

 

「パパだァ!お帰りなさああい!」

 

私は、大声で叫んでその首っ玉に飛びついた。何事かと娘も飛び出した。

 

其れを毎日毎日やった。そのうち娘は私が動くと同時に反応して飛び出し、父親の首っ玉に飛びつくようになった。娘はまだ、アヒルの子、親と同じ行動をとるimprintingの年齢のアヒルの子だった。

 

それからまた対策を練った。娘が何かをほしがる時、私は決してその場で物を買い与えなかった。そっと買って靴箱の一番上に隠し、エノクに其れをお土産として渡すように打ち合わせておいた。まだ知恵が回らなかった娘は父に何も言わないのに、自分の好きなものを知っているのに驚いた。娘は父の帰りを待つようになった。

 

其れから私のマインドコントロール教育が始まった。娘が絵を描く。其れを見て、こんなにあなたが上手なのはパパが外人だからなのよ。娘が歌を覚える。あなたがそんなに歌がうまいのはパパが外人だからなのよ。あなたがそんなにかわいいのもパパが外人だからなのよ。

 

其れが逆差別である事を私は良く知っていた。いつかこの子がもう少し聞き分けるようになったら、この後始末はしておこうと思っていた。

(ところで、エノクは絵は描かないし、歌は音痴だし、顔は、どうだろね。。。)。

 

5)「平和の国の教会」

 

地域のカトリック教会を見つけて行って見た。教会は、なんだか、何のために、教会を続けているのかわからないほど、多分、「平和」だった。

 

内戦の教会の神父さんたちは、民衆の苦しみを思って、火を吹くような説教をしていた。そして彼らは命がけで、弱者の側について、その代弁者となっていた。官憲は彼らを追い、教会の周りには軍隊が取り囲んでいた。その中を神父さんたちは、農民を苦しめる政府の政策を批判し、彼らが神の道に背いていることを訴えた。司祭も信徒も命がけで、教会に来ていたが、教会はぼろを着た民衆で一杯だった。内戦の国の教会は「救いの殿堂」として機能していた。

 

「平和の国」の所属の教会に行った。神父さんは厳しい人だったけれど、その厳しさは教会の形式上のしきたりを信者に守らせるというところで発揮していた。

 

ぼろしかなくて、ぼろを着て教会に来ていたエルサルバドルの民衆に必要だったのは、形式的な敬虔な態度ではなくて、「脅かされる命と、探しても得られない毎日のパンと、生死の境を生きる人間の心の救い」だったな、と私は考えた。あの国では、「もっとも大切なこと」しか見えなかったし、宗教の本質がなんなのかを、日々確認できる状況があった。

 

復活祭のミサに行った。この日は特別混むので、元気な信者は先に来て席を取っていた。弱くてよたよたしたお婆さんは後から来て座れなかった。誰もお婆さんのために立たなかった。(私は当時、40代でおばあさんではなかった。つまり自分のために言っているのではない。)

 

ミサの後で、お祝いのパーテイ‐があった。バイキング形式のテーブルに大皿に食事が盛られていた。ミサが終わってわれ先にと会場に入った若者や子供がテーブルの前を陣取り、先に来たんだからといって、テーブルの前から動こうともせず誰にも場所を譲らないでひたすらうまそうなものを選んで食べていた。

 

私はエルサルバドルの難民達がお互いに譲り合い、お互いに助け合って、物を分けて食べていたのをみてきた。お腹のすいた貧民の子供達でさえ、人に物を譲ることを知っていた。

 

復活祭のミサのあの席取合戦の状況を見、食べ物に群がって譲らない若者達を見た私の神経は静止しようもないほど苛立った。心の中で激しい怒りが炸裂した。しかしそれを抑えて、穏やかを装って、前で陣取る若者に、後ろの人に場所を譲るように言った時、思わぬ反撃にあった。

 

「なにをいっているんだよ。先に来た者が勝ちだ!」と。

 

私はほとんど逆上した。しかしものが言えなかった。ここは弱者を守るキリストの精神を受け継いだ教会だぞ。教会の中で「強いものが勝ち」とは何だ、と私は思った。

 

私は教会の広報誌に実名を書いて投書した。

 

「明日飢えて死ぬかもしれないエルサルバドルの最下層の子供達でさえ分け合い譲ることを知っている。毎日食べるものに事欠かない日本の教会の人が、弱者の友であったキリストの復活を祝うお祝いの席で、譲ることを知らないとは何事だ。強いものが教会の座席を取って後から来た弱いものに座らせないとは何事だ。」

 

そのような趣旨のことを、本当に怒っていたから物凄い口調で書いた。続け様に3回ぐらい世界の最貧国の一つ、内戦下のエルサルバドルと比べて、裕福な日本の教会の異常さを指摘する文を書いた。

 

私への非難は匿名の投書という形で来た。誰も実名を書かなかった。私の実名投書に対して、卑怯ではないか、何事だと、私は又怒りくるって投書した。ある日、近所に住む教会関係の老婦人が私の家のドアをノックした。

 

そして彼女は言った。「松戸の教会では、99%の人があなたのような人を受け入れません。」

前置きもなく、さようならもいわず、それだけ言って帰っていった。

 

すぐ怒るくせに神経の弱い私は、99%の拒絶に蒼白になった。よく考えてみたら、それは別にデータをとった客観的な数字ではなかったにもかかわらず、私は動揺した。心には、すでに敗北を感じた。

 

自分はともかく、娘を教会で宗教教育しようと思っていたから、風当たりは必ず娘に来ることを予感した。私は子供の宗教教育をする教会学校を探し、四谷にあるイグナチオ教会の土曜学校に逃げていった。それから5年間、私はエノクの運転する車で、松戸の自宅から四谷の教会まで、毎土曜娘を連れて通った。

 

その後娘が小学校3年になったとき、あるカトリックの学校に転校させたのをきっかけに松戸教会に戻ったが、私が入り口で「おはよう御座います」と挨拶しても、実に10年間、挨拶を返す人はいなかった。私は別に自分が正しいと思っていたわけではなかったし、悩まなかったわけではない。私は10年間、「おはよう御座います」とむなしく言いつづけ、こうなれば相手の頑固も尊敬の対象になってきたころ、数人の人が、そっと私に声をかけてきた。「あなたの考え正しいと思っていた。」といって。

 

しかし初めから友達になった人が一人だけいたことはいた。私の「偏狭な正義感」を気に入ってくれた白髪の老女だった。すこぶる頑固者で、教会中に敬遠されているが、自分のするべきことは断固として行い、気に入らないことはやっぱり断固として拒絶する、絶対に自分をまげない老女だった。北朝鮮からの帰国者だったため、朝鮮料理をよく作って、「私だけに」呉れた。^^

 

後に私が教会の人間関係に悩んでいたとき娘が言った。「お母さん、人間関係がうまくできないって悩むことないよ。うまく人間関係が出来ない人間というのは、どうでもいい人ばかりじゃないの、友達は小野さん一人で良いよ。あの人を友達にできた人なんかお母さん以外に他にいないじゃない。」

 

小学生だった娘の言である。

 

数年たって、2番目に赴任してきた神父さんは、酒を飲み、タバコをすい、パチンコをやっていた。タバコ以外は見たのではなくて、ある信者が彼に直接「個人収入はどういう事に使うのですか?」と聞いたとき、彼が答えたのが、酒、タバコ、パチンコだった。

 

何しろパチンコ神父は、「自分は成り行き上神父さんになったので、使命を感じたわけではない」とさえ、言っていた。軽率なことを選んで言いまくる男だった。

 

彼は説教のときは、信徒と目があうのがいやだから、なるべく、正面の時計に視線を集中しているのだそうだ。彼は確かにミサ中は上を見て話していた。彼の相手は信徒の心でなくて、時計だったのだ。彼はさらにいう。「自分が説教をしているときさえ、立ったまま眠くなるのだから、聞いている信者たちはもっと眠いだろうなあ」。

 

そういう事を本人の口から聞かされたら、私には、日本の神父さんたちは「アテもないから神父にでもなって、老後の心配がないから、居残っている」という誰かから聞いた皮肉な感想を持たずにいられなかった。何だか生きている意味もないようなことを言う、くそ神父だと思った。

 

キリストは病人のために来た。病人がいなければキリストは用を成さない、これは日本が病人が一人もいない天国のような「平和」な国だという証拠なのだ、とは、そのときの私は考えなかった。

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ところで、あまりつまらないことばかり書くと、気が滅入るので、ひとつだけ、うれしかったことを書いておこうと思う。 

 

「感動」

エルサルバドル大震災」

 

私が帰国して1年後、エルサルバドルに、国中の都市を壊滅させるほどの地震が起きた。エノクはその時日本国外に出張中で、連絡が取れなかった。私がエノクの家族に電話をしたが通じなかった。大使館に連絡をとってみたが、らちがあかなかった。仕方がないからエノクの帰りを待った。彼の任地はJICAがらみで世界の僻地が多かったので、なかなか連絡が取れなかった。

 

そのとき1本の電話が入った。卒業以来ほとんど交流のなかった大学時代の友人だった。かつて個人的にお互いに連絡をとりあったこともない同級生だった。

 

電話を受けたとき、私は同窓会かなんかの連絡だろうと考えた。名前を確認しあってから彼女は言った。「確か今回大震災の報道があった中米の国はあなたのご主人の国じゃないの?」「そうだ」と応えたら彼女は続けた。

 

「今一番欲しい助けがなんなのか、現地にいたあなたが、もし詳しい事情をご存知なら聞かせて欲しい。大学の同窓会として、卒業生にかかわりのある国のことなので援助したいけれど、援助が本当に必要な人の手に渡るには、現地の様子をご存知のあなたを通じたほうがいいかと思って、ご意見聞こうと思って電話した。」

 

一瞬私の体に感動の波が走るのを感じた。何でもいい、この援助の姿勢は最高だ!と思った。卒業して20年、私はどの同級生とも連絡を絶っていた。学生時代苦学して、金策ばかりに奔走していたため、友情を育むようなどんな交わりにも入っていなかった私は、自分が誰かの記憶にあるということさえ想像も期待もしていなかった。

 

その私が嫁した夫の国の災害に、かくもすばやく反応し、頭っから私を信用して、現地の事情を知っているはずだから、もっとも必要な人の手に援助が渡るように、私を通して援助したいといってきたのだ。

 

「そういうことなら」、と私はいった。

 

「今夫は留守中で現地との連絡が取れないけれど、現地に残っている日本人に連絡をとってみて、事情を把握するまで待って欲しい。最も援助が必要なのは谷間に住んでいる最下層の人々で、多分水も食料もないだろう。その人たちが確実に他国の援助を受けるためには、民間レヴェルで直接医療とかテントなどを手渡すのが一番だけれど、それにはそういうことをするだけの精神を持った人に頼まなければならないから。頭に浮かんでいる確実な人がいるけれど、その人も被災しているかもしれないので、安否の確認をとるまで待って欲しい。今あの国は内戦の真っ最中で、国家単位の援助は武器援助になりかねないから、援助する側はくれぐれ注意する必要がある。」

 

「おう!そういう話が聞きたかった。」と彼女は言い、いったん電話を切った。それから数日して、同窓会の幹部と名乗る人から電話が入った。「同窓会としてエルサルバドル地震災害に援助の用意がある。お金が必要か、医療が必要か、または生活のための具体的な物品が必要か、援助をどのような機関を通すのが安全か、またはあなたに必要なものを直接運んでもらって、代表として現地に飛んでくれるか、聞きたい。」という内容だった。

 

ことは物凄い速さで展開し始めた。始めに私とコンタクトを取った同級生は、私が卒業したわけでもない姉妹校の高校の同窓会にも働きかけて、援助のお金を引き出した。

 

それから同級生から援助を申し出る電話が次々を鳴り響いた。

 

みんな友達だったのか!と私はうめいた。私は卒業後紆余曲折を経て、人とは違う人生を歩いてきた。「人とは違う」という意識が強すぎて、自分のほうから連絡をすることを怖れていた。国際結婚の事実だってほとんど誰にも知らせなかった。

 

大体私は学生時代「結婚可能な人間」だとは思われていなかった。結婚したとうわさに聞いて、ある友人が、「青天の霹靂」だと、お祝いのカードに書いてきた。出産能力があるなどということに至っては、まるで、想像もされていなかった。

 

その同級生達が凄いアンテナを張り巡らせていた。地震のニュース→エルサルバドル→あの稀代の変人の夫の国→同級生だ、援助しよう→ほいきた、協力しよう…というネットワークは物凄い速さで伝わり、あれよあれよと言う内に100万円ほどの援助の資金が集まった。

 

自分は大変な学校を卒業していたのだ、と私は感動して思った。

 

私は学費免除で大学院まで通わせてくれたあの学校に義理みたいなものを感じていたが、マスコミの作り上げた「お嬢様学校」というイメージに気おされて、あまり誇りを持っていたわけではなかった。なんだか派手なイメージばかりが喧伝されて、気持ちが悪くて近づけなかった。私は帰国後1年後に偶然に起きた夫の国の地震によって、卒業して社会に出ている同窓生達の社会に対する貢献度を図らずも知ることになった。

 

連絡を取った現地在住の日本人は無事だった。計画を話すと、他の日本人で、大学教授の奥さんになっている人と連絡取り合って、援助に協力する旨快諾を得た。私は、日本から現地に行く日本人を捕まえ、援助のために集めた日本円をドルに換えて現金を、現地のさる日本人に渡してくれるよう手配した。

 

私はどこかの機関を通すということをことさら嫌った。雲散霧消して武器援助になる可能性があったからだ。政府がらみのJICAだって信用していなかった。援助の資金は確実に待っていた日本人に渡り、彼等が協力してテントと医療を買い込み、路上に出て必要としている最下層の民衆に直接手渡した。快挙である。こんな援助の仕方をしたことがない。

 

うれしかった。自分の卒業した学校にたいして、初めて純粋な誇りを感じた。同級生にも誇りを感じた。現地で協力してくれた日本人達の心にも感謝した。自分があの国に8年間暮らして、今日本に難民として戻ってきたあとも、あの懐かしい国とのつながりはこうした形で保たれたことに、心の底から喜んだ。