「自伝及び中米内戦体験記」8月24日

 

倒錯時代

1)「就職」

 

寝る間も惜しんで修士論文の期限に間に合わせた私は、ある高校の教師採用試験に臨んだ。

 

作家になりたくて作家修行をしていたのだけれど、定職を持たないと生きていけないという理由のみで、あまり教師の仕事に対する使命感を持ってはいなかった。

 採用試験のとき、ものすごく目の鋭い、かなりお年の教頭が、私が修士論文になにを書いたのかを聞いた。「『危機の時代の文学』と言うタイトルで、超現代を扱いました」と答えた。

私はその当時の新進作家で、私と年の差わずか五歳の、大江健三郎に興味を持って、その作品群から時代を検証していた。「あなたは危機の時代としての現代をどう見ているのか」とその教頭は聞いた。私はバカな事に戦後の教育のあり方を批判した。 

「あなたはそう言う自分の意見をこの高校の教育の場で反映させようと思うのか」と、彼は重ねて聞いた。「そのつもりです」と私は答えた。「そう言う答えでここに採用されると思うか」と彼は聞いた。「それは先生の胸のうちにあることです」と私は答えた。

 結果は予期どおり、不採用に終わった。気分は良くなかったが、まあ当然かなと思った。 

もうひとつの高校に面接に行った。これはちょっと遠くにあるカトリックの学校だった。カトリックの学校はもっと気が進まなかった。自分がいつも抵抗を感じていたある種の宗教教育の押し付けを今度は与える側に回ってしまうことに、疑問を感じていた。 

ままよ。この前みたいに正直に答えてやれ。結果は天に任せよう。私の馬鹿正直な答えを聞いて、私を採用すると言うなら、自分に向いているところだろう。面接に望み、やっぱりバカ丸出しで帰ってきた。それから一週間ほどたって、私にスペイン語を勧めた例のマザー広瀬が私を呼び出した。 

「あなたが採用試験を受けに行った学校から問い合わせがきましたよ。」

「はあ。」

「あなたの事をよほど変わり者ではないかと聞いてきたから、確かに変わり者だけど、飼い方によっては使い物になると答えておきました。」

「ふうん、それで私を飼うつもりなんですかね。」 

「あなたはいつも教師になんか、なりたくないなりたくないといっているけど、道はあなたが決めるんではない、神様が決めるんです。」

 

「げつ?」

 

私ははじめてこのマザーから神様の話を聞いて驚いた。このマザーとは極めて現実的な付き合い方をしていた。皮肉っぽくて、現実認識が私と一致していたから、面白かった。 

「あなたは教師として、多分生徒に好かれるでしょう。でも、生徒に好かれれば好かれるほど、学校の管理者側からは嫌われるでしょう。」 

「ここここのシスター、自分のこと言っているぞ・・・」と内心思った。体制に拾われない学生を彼女は確実にいつも拾っていた。そしていつも、孤立していた。この孤立の匂いをかぎつけて、孤立した学生がみな彼女のところに集まっていた。 

私も同じ道を行くだろうことを彼女は予言したのだ。神の意思に従え、従えば必ず孤立する、その事を覚悟でお前の道を行けと言う意味に取れた。

 

私は、どういうわけか、たぶんマザー広瀬の後押しで、その学校に飼われる事になった。

 

2)「一週間の幼年時代

 

いろいろ紆余曲折を経て、私はMAの学位をえた。

f:id:naisentaiken:20200824095216j:plain

学位授与を終えた仲間

 

学位授与式を終えて私は自分の古巣、例の物置に戻った。家の人間関係は、また複雑になっていた。次郎兄さんが贈与された60坪の土地に建築事務所を建てて、家族をつれて隣に移り住んでいた。姉は前の年に結婚し、四郎兄さんも結婚する事になって一時母と同居する手はずになった。

 

私の住むところは例の物置しかなくて、仕方なく屋根を修繕して住めるようにしてもらった。猫が好きだったから、また子猫を一匹同居人にして、私の物置生活が再び始まった。その物置を私はパラシオと呼んだ。スペイン語で宮殿の意味である。

 

私があの学生寮を出る前から、例のマドレの任地が代わり、彼女は、一度出張したことのある長野県の修道院に行っていた。彼女は、卒業して就職する前に一度長野に遊びに来てもいいよと言ってくれたので、私は、すべてを放り出して飛んでいった。

 

学位も先生の仕事も、家族の人間関係もどうでも良かった。何でもよいからマドレ サン タルシシオに会いたかった。

 

南アルプスの優雅な連邦の裾にその修道院はあった。駅を降り、なんだかちょっとげっそりするようなごみごみした町を抜けて、教会にたどり着き、その隣にある修道院の戸をたたいた。マドレが戸を開けたとたんに私は飛び込んで、彼女の首っ玉にかじりついた。

 

会いたかった。招んでくれてありがとう。何かをするために来たわけではなかった。ただ彼女に会いたかったから来た。一人の人間に会いたいと言うだけで私は旅をした事は無かった。人間をこんなに愛したことなんか無かったから。

 

修院の窓からそとを眺めると山襞に雪渓をはさんで連なっている山々が見えた。大きな虹が窓から見えた。夢と現の間をさまよっていると、ふと人の気配を感じた。深い眠りのそこから新しく今日の命を呼び起こすように、やさしい声が私を起こした。かつて私はこう言う目覚めを経験した事が無かった。

 

今までの人生、朝はつねに新しい生命の目覚めではなく、きのうの苦悩の継続を意味していた。山の頭に黒くのしかかってくる雲のように、昼になり夜になるうちに、苦悩の継続はだんだん私の心にのしかかって来、その重みに打ちひしがれて、新たな夜を迎えたものだった。

 

腹をすかせた餓鬼のように、私は初めてのやさしい目覚めをむさぼった。

 

一生に一度ぐらい、こんなだらしない生活もいいだろう。勉強も仕事もせず、半年前に「母」となったばかりのこの人のもとで、やさしさだけを糧として、私は「幼児」になっていた。私は不自然と知りながら、敢えて現実からとおざかって、一週間の休暇を自分の「幼年時代」となづけた。

 

3)「一週間の幼年時代 2」

 

朝、一人で散歩をした。南アルプスの優雅な連峰はやさしく春の微笑をたたえて前方に横たわっている。山に向かってまっすぐ歩いた。人里はなれた山中道を山にあこがれて歩んでいくと、道行く人は私を見て軽く挨拶をした。

 

アア、春の国だなと思った。東京では知りあいだって挨拶しない人が多い。ここの人は私を人間だと思ってくれている。

 

竹が一握りばかり青く、ツウと立っている。褐色の肌に真っ赤な頬をした子供が3人、同じ黄色の帽子をかぶって歩いていく。立ち止まって景色の絵を描いている私を見て、珍しそうに寄って来た。そばまで来るのかと思ったら途中で止まって3人肩を組んでなにか相談し、そしてちりぢりと逃げていった。遠くで一人がこちらを向いたから手を振ってやったら、しばらく考えてから手を振り返した。歩いていくと待っている。

 

にこにこして声をかけた。

 

「おねえちゃん、どこにいくの?」 

「お散歩!絵を描きながら。」 

「お山の絵を描いているの?」 

「そう。お人形の絵,描いてあげようか。」 

「うん!」子供は喜んで私の手元を覗き込んだ。 

「こっちがひとみちゃん、こっちがみえちゃん、あたしがあやちゃん。」あやちゃんがみんなを紹介してくれた。

 

一人一人に絵を描いてから名前も書いてやった。そのとき私は自分の心にある変化が起きているのを発見した。かつて、こう言う子供に愛情を感じた事が無かった。ほとんど口を利いたことも無かった。今日私はこの3人の子供たちと仲良しになった。しかも年上のお姉ちゃんとしてでなく「仲間」として、私はこの子達を受け入れていた。心のどこかに今まで感じた事の無い愛情らしきものが広がっていくのを感じた。

 

この旅でも、私は人間を極力避けていた。いくらなんでも自分の心の倒錯を人に見られたくは無かった。自分で作ったこの幼年時代が、倒錯である事ぐらい私の理性は知っていた。

 

小さい人間は良いものだなあと、お宮の後ろの芝生の上にねっころがって薄靄にかすんだ山を眺めながら思った。寂しかったけど、幸福だった。

 

連邦の中でひときわ高いあの白い山はなんという山だろうと思った。その後からすぐに、名前など尋ねまいと思った。自分にだって名を名乗る勇気など無いのだ。私はどんな意味でも「旅人」だった。

 

さっきの子供たちが、「明日もこの道を通る?」と聞いたけど、私は明日は通らないだろう。足の向くまま気の向くまま、清涼な空気を求めて歩いているだけだったから。

 

流れの音に誘われて川原に下りた。白い石と白い砂が一面に広がっていてまぶしかった。涛涛と岩を縫って青灰色の水が流れる。空気も砂も冷たいのですぐに冷える。そこここを歩いて体を動かさないと凍えてしまいそうだ。鱗のような雲がゆっくり動いている。

 

ポケットからマドレの十字架を出した。この十字架、修道院の院長が国外の布教地に向かう修道女に与えるかなり大切な十字架である。修道女はこの十字架を誇りと信念を持って身につけている。その十字架を彼女、私にくれた。十字架そのものに彼女は意味があると思っているわけではないらしい。大切なものを大切な人に上げるということにもっと多くの意味があると思っていなければこんな事はしないだろう。

 

聞こえる物は川の流れの音だけだ。ひとがいない。ごみもない。山々に囲まれた川原に己ひとりが存在する。十字架を握り締める。白砂の上に腹ばいになって私は大地に頬ずりをする。自分の暖かい脈の音が大地に伝わるように。大地よ、お前は母だ。大地よ、お前はマドレだ。

 

4)「英語教師になる」

 

4月、私はSJ学園の教師としての一歩をスタートした。教員室にひとつの机を与えられ、緊張してその日を迎えた。いったい自分はどうしてこんな所にいるのだろうなんて思いながら、パラシオから2時間もかけてたどり着き、英語の授業をはじめた。

 

学園の一日はギョッとする言葉から始まった。全校向けの放送で、「皆さん、聖職者を尊敬しましょう。」と言う言葉から始まる。私は学童、生徒、大学生として、3校のカトリック校とかかわった経験があるけれど、こう言う放送は初めてだった。

 

聖職者と言うのはシスターや神父さんのことだ。

 

あの人達はもっとも謙虚でいなければいけない人達だと思っていた。それが、自分の行動をもってしてでなく、なんだか標語、または規則として、有無を言わせず従わなければならない立場の相手に、「尊敬」を要求するのか。それがまず最初のショックだった。

 

職員室と言うところが、また怖い場所だった。その学園は小中高一貫教育と称して、職員室まで全教職員が同じ部屋にいたが、規則違反の学童、生徒を教員室に連れ込んでは、全教員の前で、しかりつけるのである。

 

まだ小学生の低学年の子が、紺色の雨靴を鼻の所に示されて、その一部にぽつんと花かリボンのようなワンポイントがあるのが違反だと言われている。自分で選んだわけではないだろうに、先生は7歳やそこらの子供に向かって、怖い顔をして「ずうずうしい」とか、「恥知らず」とか言っている。

 

長靴にワンポイントのリボンがついているのを履いていると、「恥知らず」なの?自分の腹は、100ポイントのしみに覆われているくせに・・・と、私は思わず反応してしまう。

 

その学園は小学校だけ共学なのだが、うわさによると、男の子がなんだか規則違反をしたとかで、罰のためにその子に女の子の制服を着せて町を歩かせたとか言う事も聞いた。あまり、その「罰」の意味がわからない。

 

ある高校生の髪の毛が、職員会議で話題になった。

 

「あの子は、ごまかしでお下げに見せかけているけど、あれは家に帰ったら巻き毛になっているはずだ。なんてずうずうしい。」と、シスターが始める「議題」である。

「あのオ、家に帰ってからの髪型まで規制しなければいけないんですか?」とおびえおびえ質問してみたが、みんな変な顔をして答えない。異様な雰囲気で、どうも「黙れ」という意味と取れた。言い始めたシスターの顔色を気にしているらしい。

 

聞きしに勝るすごい学校だぞとおもった。

 

そのうち私は生徒が気の毒で気の毒でたまらなくなってきた。授業に出てもなんだかみんなおびえていて、人間らしい口を利けない。私の担当が英語だから、生徒の心に入って行く機会がつかめなくて、なお悪い。

 

新米だから担任を持っているわけではない。高校の授業だけ、やっと英語の授業に内容らしいものがあったから、その内容について何とか展開して自分の考えを話す事ができた。

 

ところが、その授業に出席していた高校生達はすでに私を見ぬいてしまっていた。彼女達は、廊下で私に声をかけた。

 

「先生、この学校に合いませんねえ。」

 

「え・・・わかるの?」私はその子に向かって、にやっと笑った。

 

5)「英語教師になる 2」

 

生徒と自分が重なる。妙な思いを抱えて授業をした。自分がちょっと前まで座っていた側に生徒がいて、とんでもない側に自分がいる。自分は今まで体制の側になんかいた事が無かった。子供でも学生でも、つねに体制の側にへばりついているものは多いが、自分はいつも野党だった。

 

私は自分の中学時代、高校時代に味わっていたその時その時の感情を思い出しながら授業をした。生徒を見ながら、なにか痛々しい感傷がいつも心をよぎっていた。まるで自分の幻影に語りかけるように私は生徒に声をかけていた。

 

敵意を持って、高慢を装い黙り込んでいる生徒がいる。こいつは自分の分身だ...

 

視線が合うと慌てて目を伏せる内気な生徒。こいつも自分の分身だ...

 

ぼんやりと夢想にふけっている生徒。こいつも自分の分身だ...

 

授業が終わると質問に来る生徒。こいつも自分の分身だ。質問に来ているんではなくて、私を観察しに来ている事を知っていた。

 

廊下に出ると高校生が取り囲んできた。なにか話したそうである。

 

「先生の授業って今までとちがいますねえ。」

「あ、なんかまずかった?」

 

いつもの地が出た。相手が自分の教育の対象だなんて思っていないから、他の先生みたいに知らぬ顔して取り合わないと言う事ができなかった。

 

生徒の一人が言った。

 

「英語の授業って言うのは、読んで、訳して、文法やって、おしまいですよ。中身になんか分析したり、感想を言ったりしないんですよ。」

 

「え?だって内容があるのに内容を自分のものにしないような読み方なら読む意味無いじゃないの?」

 

「先生、教授資料に書いてあること以外教えちゃいけないんですよ。」

 

「あらま。そお・・・」

 

自分は18のときから人を教えていた。それも姉妹校の落ちこぼれや問題ある生徒ばかり預かっていた。学生だったから教授資料なんか見たことも無かった。相手次第で余計な事をたくさん教えた。1行の言葉が面白いとなったら、それに関する本を4,5冊読んで、内容を自分のものにしてから教えた。

 

教え方を指導された事が無かった。

 

教師になった今も、教授資料をさっと見たけれど、面白くなかったから読まなかった。あんなものに頼る必要が無いほど自分の知識のほうが上だと思っていた。傲慢だった。それを生徒に指摘されちゃった。

 

私がなにかを言ったわけではなかったはずだけど、怪しい雰囲気が自分の周りに漂い始めた。教頭のシスターに呼ばれた。

 

「あなたは教師なのだ。学生を仲間だと思ってはいけません。軽い口を利いてはいけません。自分の今の立場を考えなさい。」

 

廊下での生徒とのやり取りを誰かが聞いていたのだろう。

 

「はあ・・・」と答えてその日は終わった。

 

やれやれ、面倒な世界に来たな。反発したり、改革したり、または自分の正義をこの社会に押し付けたりする気は無かった。

 

ただただ、自分はこの世界に合わないと思い始めていた。自分が徹底的に欠いているのは、要求される「大人としての社交性」だった。自分の仲間は職員室の先生達なのだという認識が無くて、自分は先生にしかられた生徒みたいな気分だった。出だしの一ヶ月でもう自分は敗者になっていた。

 

6)「子宮回帰願望」

 

6月、私はこの職場を放棄する決意をした。きっかけは自分を「飼う」事に決めてくれたシスターが任地が変っていなくなってしまった事だったが、何よりも自分は教職という職場に耐えられるほどの心構えも、社会性も、使命感も持っていなかったことだった。

 

おまけに私は、始まったばかりの「擬似幼児の倒錯」の世界におぼれていて、抜け出せなかったということを、自覚していたのだ。

 

18歳の歳から、教えることには慣れていた。しかし、教壇上というところは、個人が個人を相手にするところでなく、組織の一員として、若い年齢の集団を飼育するところだった。

 

自分の授業のやり方にも、生徒たちとの付き合い方にも、いちいちクレームをつけてくる先輩達に、どう対応してよいかわからなかったばかりでなく、自分のやり方が正しいなどと言う自信も無かった。

 

もう、私は自分を組織の一員として組み込もうとするところでなく、ひたすら個人の自分を受け入れてくれる世界に戻りたかった。この教職という仕事と同時並行的に、私はいくつかの翻訳の仕事を持っていた。その仕事に家庭教師をまた続けさえすれば、経済的に不安定ではあったが、養う家族もいない身にとって、気が楽だった。

 

たった一学期で職を辞した私は、またパラシオに戻った。また翻訳業と家庭教師の、なれた生活が始まった。ある事務所が翻訳家として雇ってくれたから、プータローという感じはしなかった。

f:id:naisentaiken:20200824095928j:plain

SJ学園最後の日

 

学校が夏休みになった頃、私は退いた学園の生徒からたくさんの手紙をもらった。

 

いなくなった事をとても惜しんでくれた高校生からのものだった。一つ一つに丁寧に返事を書いた。その返事に再び返事が来た。「こんな誠意のある返事をもらった事ありません」と言う言葉がかかれていた。

 

あんな短い期間なのに、自分が誰かの役に立っていたのかなと思った。しかし私はそれでも責任を感じなかった。自分の役割をまったく自覚していなかった。私は自分の古巣で、まだマドレを恋していた。

 

ところがそれから数ヶ月後、マドレはスペインに任地替えになった。

 

私は実は知っていた。彼女の修道院がマドレと私の関係について、警告を発していた事を。

 

彼女は誰がなにを言おうと、自分の立場がどうなろうと、どこからでも私を呼んだ。どこにでも私は飛んでいった。彼女は自分が私の心に目覚めさせてしまった人間的な感情を、正しい形で成熟するまで見届けようと決心していたのだった。

 

彼女は、「あなたの中で芽生えた『その激情』がそのような無防備な形で他に向いたら危ないから、あなたが自分を求めている間は自分のところに来い」といつも言っていた。私はその気持ちに甘えていた。自分のエゴイズムを知りながら、感情の向くままに彼女を慕いつづけた。職場を放棄したのも、子宮回帰願望に他ならなかった。

 

7)「ハカセとマドレの学生寮

 

再び自由な時間が出来たので、ある時ふらりと大学を訪れた。廊下で英文学時代のマザーに会った。日本人だけど、スタンフォードの博士号を持っていて、日本語がむしろ怪しいマザーだったが、どういうわけか、私に興味を持っていた。私は彼女を、「ハカセ」とニックネームをつけて呼んでいた。

 

ハカセが「今どうしているか」と聞くから、「翻訳をやりながら後はぶらぶらしています」と答えた。「ひまなら自分のゼミの副手をやらないか」と聞くから、「副手なら社交性の必要もないから」と、苦笑しながら引き受けた。私は再び大学に戻って「ハカセ」のゼミの手伝いをすることになった。

 

後で気がついたことだけれど、彼女が私を副手に雇ったのは彼女に何か思うところがあったのだ。たいした仕事もなく、彼女は時間を見ては私にこんにゃく問答を挑んできた。ハカセは博士号を持っているけれど、日本語が怪しい。彼女の日本語を半分からかいながらこんにゃく問答に応じているうち、私は彼女が仕掛けたわなにはまっていった。

 

マドレを失った寂しさに、誰か自分の相手をしてくれる人間を求めるという深層心理が働いて、つい深入りしてしまったのだ。

 

私には当時、何回かお見合いの話があった。会うぐらい会ってみようと思い、そのうちの一人と会っていた。私が卒業する前後、3人の兄たちは結婚し、それぞれ家庭を持っていた。私だって自分も人並みに結婚したいと思っていた。

 

ところが奇妙なことに母がその相手を自分で紹介したにもかかわらず、私が数回会っているうち、母自身が自分で相手に電話して話をつぶしにかかるのである。絶対その人がいいという気持ちがあったわけでもなかった私は、不愉快ではあったが、たいした抵抗もしなかった。

 

そして母はまた別の人を連れてきた。また母は同じことを繰り返した。 奇怪なことだと思った。しかし母が、私が生まれたときからやってきたことの「反常識」になれていた私は、いつものことだと思って、あまり驚きもしなかった。

 

しかしふとしたきっかけに、この事態は、どうも結婚して一番母に頼りにされている四郎兄さんが一枚かんでいるらしいことに気がついた私は、無性に腹が立った。

 

母は結婚した兄たちの嫁さんと、まあ誰から見ても当然の事ながら、うまくやっていけなかった。理不尽な喧嘩をするたびに、私が中に入って仲裁役をしていた。一人母のもとに残った私がいなくなれば、母は一番頼りにしている四郎兄さんの家族のもとに駆け込むだろう。

 

四郎兄さんが私の結婚を妨害して母を私に押し付け、自分の生活を守ろうとしていると感じた私は、マドレと出会ったあの学生寮にのこのこと出かけていった。

 

事の次第を説明して、お見合いの相手と会う日だけ修道院に留めてもらうという手に出た。そこで、私の行動範囲は再び大学と例の学生寮というめぐり合わせとなったのである。 

 

8)「脳みその一人芝居 」

 

NHKの番組で脳の働きをシリーズでやっているのを見た。

 

それによると、「心」も「脳」の中にある。見えないものが見えるのも、他人には聞こえないはずの声がある人にだけ聞こえるのも、みんな脳の働きである。

 

宗教的な霊感、聖書に記されている受胎告知や、パウロの霊感なども、これによれば、全部「脳みその一人芝居」である。つまり、それは、他人が信じる信じないの問題ではなく、一人の人間の脳みその中で起きる現象なのだ。

 

それで私も、その「脳みその一人芝居」の体験をここで話そうと思う。

 

私はマドレの出身母体の修道院の院長と、ある時自分の将来について話していた。自分がこの学生寮に泊めてもらいながら、会っている相手と結婚したいという話から始まったのだが、彼女は気のなさそうな顔をして、話だけはあわせていた。それで、彼女は最後に、私に、自分で自分の道を決める前に祈れといったのだ。

 

「自分の道はその道でいいのか、または神様がほかの道を用意してくださるのか、祈りなさい。あなたみたいに子供のときから苦しい体験を味わってきた人には、必ず神様が特別の道を用意しているはずだから。」

 

彼女、前から私に修道院に入る道をそれとなくほのめかしていたのは知っていた。彼女ばかりでなく、私が一時就職を試みて面接に行ったことのある、出会って数時間の、修道院とはまるで無関係の雑誌社の社長まで、同じことを言った。

 

その社長は、私が其の雑誌社が出した童話についていった感想をきいた時、「あんたは就職なんかより、修道院にでも入るほうがいいんじゃないか。この絵本に対する感想としては、深読みが過ぎるよ」と言ったのだ。

 

私に修道院修道院といっていたのはその男を含めて、5人はいた。しかし私はもう少し別の角度から自分を認識していた。

 

自分はほとんどの他人に対して、自分の心のうちをひたかくしに隠して傲慢にも思える強い態度で接していたが、横合いからちょっとつつかれるだけでひっくり返ってしまうほど弱い人間であることを知っていたし、何よりも修道院のようなストイックな世界に耐えられないほど愛情乞食だったのだ。

 

私は当たり前のまともな家庭がほしかった。他人のために奉仕する前に、自分が生きる土台がほしかった。

 

最初に就職したSJ学園で自分が生徒に慕われているということさえ認識していなかった。あの時も私は、慕う一方の人間だったから、自分が誰かに慕われるある雰囲気を持っていることに気づかなかった。

 

私があのマドレを慕い、愛情を求めてそのひざにすがり付いていたとき、マドレは私を抱き寄せていっていた。「私はあなたが私を求める限りこのくらいのことはできるけど、あなたの心を芯から満たすことはできない。本当にあなたの心を満たすのは神様しかいないのだ。」

 

しかし私は盲目だったから、それが何を意味するのか知ろうともしなかったし、自分に使命が与えられているということに意識もしていなかった。私は明らかに当たり前ではなかったくせに、当たり前の家庭の幸福を求めていた。

 

私はこの院長とはあまり真剣にはなすことがなかった。彼女はあまりにも雲をつかむような精神性を強調しすぎ、生々しい人間性を必要としていた私には、言っていることがあほらしかった。それでいつもこの院長にはポケットに手を突っ込んで、からかいながら接していたのである。本気で彼女の話に耳を傾けたことは、なかった。

 

ところがその時、院長にいわれて、どういうわけか素直に、というより、夢遊病者のように、聖堂に入っていった。

 

聖堂には誰もいなかった。6畳ぐらいの大きさの畳の聖堂であった。祭壇も聖櫃(カトリックの教会でキリストの御聖体と信仰されるパンが入れてある箱)も手の届くところにある、つまり尊いものが身近に感じられるいわば、そこにいると、取り込まれてしまうような雰囲気のある聖堂である。

 

そこで私は院長の言葉どおりのそのままのせりふを唱えた。

 

「私に道を示してください。結婚したいのですがこの道は間違っていますか。」

 

当然のことながら、何の答えもなかった。

 

「それでは、修道院に入ることが私の道ですか?」

 

その言葉を発した途端、私は雷に打たれたような激しいショックを覚えた。周りがほとんど白に近い金色の雲に覆われ、私は落雷に触れたように地に伏した。そして私の心と体は、今まで一度も味わったことのない歓喜のきわみに包まれた。

 

立ちあがろうと思っても立ちあがれない。窓から空が見えた。いつもの星が星ではなく、白い炎の十字架がぼおっと浮かんでいた。

 

なんという歓喜だ!体の中に幾重にも幾重にも沸いてくる歓喜の波に私はしばらく身を任せ、それから立ち上がって聖櫃を抱擁した。

 

「神よ、受け入れます。この道を受け入れます!」

 

それから。

 

私の「脳みその一人芝居」はそれからまだ続いていた。 歓喜に満たされた面持ちで聖堂を後にした私は、一人の友人に廊下であった。原さんという大学生で、私がこの寮でお世話になったはじめから、友人になった人物だった。彼女とは、話が一番あったために、よく行動を共にした友人だった。

 

後ろから彼女は私を呼び止めた。三好さん、と彼女が私を呼んだとき、私は振り向いた。

 

彼女は私の顔を見て驚いたように念を押した。

「あなた、三好さんよね!たしかに三好さんよね?」

 

「ええ?」と私は問い返した。

彼女は目を見開いていた。

 

「顔が違う、顔が違う!いつものあなたじゃない!!輝いている!!光っている!!なに?どうしたの?」

 

彼女は叫んで立ち止まり、私に近づかなかった。足がその場に釘付けになって、近づけなかったと言った方がいい。彼女は棒立ちになって、ただただ私を見続けていた。

 

「ああ・・・もしかしたら、そうかもしれない。」

 

と私は言った。

 

「いつもの私だけど、今、道を決めてきた。私にだって意味がわからないほど、心が昂揚している。私は修道院に入る。」

 

「そお!」

 

といったきり、彼女は近づきもせず、私をまるで見たことのない不思議な人間を見るように確かめたしかめ、見つづけ、棒立ちになっていた。 後にも先にも彼女以外に私のこの体験を本気で信じたものはいない。私がその直後、院長を呼び出してこの報告をしたのだが、彼女は自分の修道院に私を迎えるとは言わなかった。

 

院長は突然妙に事務的な質問をし、私は戸惑った。そして彼女のわずかな表情の動きから、不信と拒絶を感じた私は、大学のほうの修道院に入会の志願をしたのである。 そしてそれから私は自分のこの体験を語ることは危険だと感じて、口を閉ざした。発狂したと思われるのを恐れたのである。それほどその体験は、自分でも恐怖を感じるほど、「限りなく嘘に近い」体験だったのだ。

 

修道院に入ると決めたら、まずしなければ行けないことは、見合いの相手を断ることだった。私は姉の夫である精神科医を呼び出した。実は、別に精神科医に自分の体験の判断をしてもらおうと思ったのではなくて、今回のお見合いの相手を紹介したのは、彼だったから。

 

私は単刀直入に事実のみを語った。

 

自分の身に起きた事。狂気とでもなんとでも考えていいけど、この状態で人を受け入れることができなくなったこと。相手を断りたいけど、理由を説明することが難しいのこと。

断るに当たって、仲介の労をとってほしいこと。

 

彼はそれを引き受けてくれたが、一言だけ精神科医としての発言は忘れなかった。

 

「神と人間を同じ天秤で選択肢に考えるのはおかしい。結婚したって神に仕える道はある。多分それは父を求める深層心理のなすわざである。」

 

「障害物競走 」

 

私の個人的な体験を、「脳みその一人芝居」と考えることも、または精神科医の学問的見地から「父を求める深層心理のなせる技」と分析する事も、多分正しいのだろう。私の知性はそれを受け入れる。

 

ただし私のその体験は、科学も学問も乗り越えて、私のその後の人生を大きく変え、使命感において、信念において、行動力において、原動力となったことも事実である。

 

私が修道生活を選ぶにいたった原動力となったその体験を信じるものはほとんどいなかった。私をそこまで導いた学生寮の修道会の院長をはじめ、私が指導を求めた司祭も、

 

「あなたがその体験を召命だと勝手に思っても、あなたを受け入れる修道会がなかったらその召命は成立しない。」

 

と言って私を突っぱねた。

 

私が次に入会志願をした大学の修道院には、大事をとってこの体験を言わなかった。私がハカセと呼んでいたマザーを通して、私の「意思」が事務的に伝えられ、入会許可はその「意思」によって受理された。

 

しかし、正式な入会は、その体験以後2年経ってからである。修道会というところは、外部で誤解されているような、そこいらを踊っている霊の存在を意味もなく信じるようなところではなく、極めて現実的なところだった。

 

2年間の猶予という意味は、その気になった心の高揚を覚まさせる期間であり、なにが何でもメンバーを増やそうとするような意思は、受け入れる側になかった。

 

其の「猶予期間」、まず家族からの猛烈な反対が待ち受けていた。母に私が自分の将来を修道生活に決定したと伝えると、彼女は逆上して私に踊りかかり、着ていたブラウスを引き裂いた。母ほど恐ろしいものはなかった私だったから、いつもならここでへなへなと意志を曲げてしまうところだった。

 

しかしその時の私は強かった。破れたブラウスを脱いで、それを母の鼻先にぶらぶらとさせ、

 

「このブラウスは一生このまま保存しておきますからね」といった。

 

それから四郎兄さんが飛んできた。彼は最初から、すごい形相で、威嚇した。 

「おまえはよくも召命だなんて一人でうぬぼれていられるな。親を捨てでも修道院に入ってそれで正しい道のつもりか?」と私をなじった。

 

私は家族を前で、「召命」なんていう言葉を発した覚えはなかった。そう言う宗教用語を使える家族ではなかった。

 

「あのね、四郎兄さん。親を捨てるというけれど、人は誰でも大人になれば巣立ちます。結婚であれ、就職であれ、修道院入会であれ、親元から離れるのが常道でしょう。それを『親を捨てる』と表現するのですか?自分達だって結婚し、それぞれ親元から離れたではありませんか。私だけはいつまでもこの家にいろとおっしゃるのですか?」

 

と私は反駁した。かつて兄達を相手に言ったこともない言葉だった。

 

母は再びお見合いの話を持ってきた。今回の縁談は、なんとしてでも修道院をあきらめさせるための手段だった。兄嫁が私に、「お母様はあなたの結婚生活の準備に道具を集めておられます」などといってきた。

 

戦術を変えてきた。腹も立ったが母が哀れだった。あのマドレに母の母になれといわれてから、私はずいぶんこの母に尽くしてきた。仕事に出ても必ず帰りには母の好きなものを買ってきた。母の学生下宿の仕事も手伝い、会計も引き受け、下宿人の賄いなどは小学生のころからやっていた。

 

それなりに母は私を頼りにし、私を引き止めておきたい気持ちがわかっていた。それを思えば後ろ髪が引かれた。暴力に対しては強く出られても、理不尽な要求に対しては反駁できても、私の心は「情」に弱かった。

 

とうとう私はマザー広瀬に助けを求めた。大学一聡明な人物だった。彼女はあまり表には出てこない、宗教の話などしたこともない、妙なアルバイトばかりを専門的に世話してくれることで交流していただけだった。彼女は大学では俳論の講義を持っていた。内容的にもっとも深い講義だった。私が一学期間教えた高校の授業で内容を深く追求しすぎて失敗したけれど、それもこのマザーの影響によるものだった。私とはほとんど宗教の話をしたこともなく、仕事の斡旋ばかりしていた。

 

彼女は決して、問われもしないのに、なんでも話題を宗教に持っていくタイプの人物ではなかった。対等の大人として、彼女は学生に接していたから、学生は彼女を信頼した。慈愛を持っていたが甘えを許さなかった。彼女以外にまともに私の話を聞く人は望めない、と私はその時思った。

 

自己の分析やら自嘲の念を含めて私は自分の体験を話し、いま自分が直面している難問や障害について彼女の意見を聞いた。

 

「あなたは客観的にひとつの出来事を語ってから、それをまたひっくり返して主観的に言いなおすからかなわない」

 

と彼女は言った。

 

「はい。わかっているのですが、用心をしているのです。でも実体験を否定できません。私は修道院に入るなんてかつて夢にも思いませんでした。その体験がなかったら、こんなに弱い腰抜け人間、そんな難しい道を選ぼうなどと考えません。」

 

「ただし」

 

と彼女は言った。

 

「あなたの個人的な体験をすぐに受け入れてしまうようなところなら、そういうところはあなたの知性を生かせる場所でもないのです。」

 

そうか・・・。

この言葉にはじめて私の心は落ち着いた。

 

「しかし、自分は自分を知っているのです。自分は他人とも協調もできない、しかもいつも渇いた心を抱えて、それらをすべて犠牲にするとわかっている修道生活など全うすることはできないかもしれないのが不安です。」

 

といったら、彼女は答えた。

 

「十字架とは自分のその性格そのものです。自分の十字架を背負って自分について来いといったのはキリストであって、十字架を捨てて来いとは言わなかったことに注目しなさい。そうでしょう。その性格は墓場まで背負っていかなければならないのです。だからいまさらこの始末の悪い自分の性格のことをうんぬんすることなくキリストに従いなさいということですよ。 十字架を背負うということは、人間の最初で最後の根源的な問題なのです。最後まで十字架に耐えしのぶ者が救われる。これが真理です。」

 

知性も心も納得できる言葉だった。 修道院は私に時間をくれた。その時間は私に最初の興奮状態を落ち着かせ、遣り残したことをして、家族とも和解するための時間だと、私は解釈した。

 

自分が修道生活への召命を受けているとしても、今何かをしてはいけないということではない。却って平静に戻って、平静な状態で自分は何を思い、何を望むかを静観したほうが良い。

 

義理や執着に縛り付けて自分の行動を規制しないほうが良い。今、この自由なときに、たとえそれが無意識の自己逃避に傾こうと、それが何らかの結果を招くであろう。時と心の動きに任せよう。

 

「迷い 」

 

英文学の副手を続ける傍ら、マザー広瀬の計らいで、私は再びインターナショナルの高校生に国語を教える仕事を得た。

 

そこで出会った8人の生徒は、親に連れられて渡り鳥のように外国を歩き回っていた子供たちで、彼女達の書く国際経験豊かな作文が、大変面白かった。インターナショナルはSJ学園と違って、日本の文部省の管轄外だったから指導次第で授業をどのようにでも持っていくことができたし、何よりも小人数で、議論なども自由闊達で、私には居心地がよかった。

 

この高校生を相手に私は自分がこれまで培ってきた思想、世界観、哲学を語り、生徒たちの作文によって彼女達の思想を知り、内容に触れず表現法や文法だけを指導しているうちに、彼女達と文集まで作った。

 

スカンジナビアとイタリアの混血の子が夢は何語で見るなんて言う作文を書いていた。ユダヤ人と称する子供の詩は、日本語としては、言葉の選択はまずかったけど、内容が深くセンスがあって面白かった。

 

おまけに、私の思想に対する批判もまた面白かった。後で聞いてみたら、彼女達もすごくこの授業というか、私との交流を楽しんでくれていたらしい。それまで同年輩の人とも、または私みたいな変な大人とも、このような思想の交換をしたことなかったといっていた。

 

同じ大学の構内で、挙動不審の卒業生がいるのを見て、私の修士論文指導を引き受けた田中先生が、私に声をかけてきた。

 

彼、私の様子がなんだか怪しいと人づてに聞いたらしい。実は、彼は、其の頃、私の実家のそばに引っ越してこられて、時々飲み屋に誘ってくれたのだ。私が例の物置に住んでいて、夜でも家人を通さず誘える場所だったので、垣根の向こうから、「おーい」と呼ぶのだ。

 

私も、「うーい」と答え、突っ掛けで出ていって近くの一杯飲み屋についていく。 彼は世界と日本の情勢について、もそもそぼそぼそ話している。

 

大江健三郎の崇拝者であるノーマンメイラーがアメリカの反戦デモで逮捕された。アメリカの平和運動家たちはレジスタンスに入る。しかしベトナム戦争終結したら、日本の経済は戦争によって特需を受けているのだから打撃を受けるだろう。反戦反戦とヒステリックに唱えても始まらない。」

 

「うーん。」と私はうなる。人道主義は現実離れしていては意味がないといわれて、彼が何を言いたいのかわかり始めた。

 

反戦運動人道主義に基づいた行動だが現実離れしている。お前の今、やろうとしていることも然り。」

 

私は其のころべ平連の亜流の反戦運動に首を突っ込んでいたが、そういう行動は、常に一人で参加していたはずだから、彼は其のことを知っているはずがなかった。彼は私の修道院志願のことを言っていたのだ。

 

其のころ、ビリーグラハムというアメリカの伝道者が来日してきて伝道大会というのをやるというので行ってみた。プロテスタントの伝道師。其の吠え付くような説教の後で、直ぐに洗礼を志願する人が彼の元に集まって、洗礼を受けていた。

 

私は、彼の熱意と責任感と使命感のものすごさに感銘したが、帰路、「待てよ?」と考えた。

 

大衆を圧倒し、興奮させ、扇動し、酔わせてその場で洗礼を授けてしまう手法だが、あれは卑怯なテクニックじゃないのか?理性のないところで道を決定させてしまうのが果たして正しいのか?

 

自分に2年という猶予の期間をくれた修道会のことを思い、考えた。

 

一人のスペイン人の神父さんと話をした。今でも生きていたら多分彼はイグナチオ教会にいる。其の神父さんの言葉に私は頭をぶん殴られたように感じて帰ってきた。

 

「お前に必要なのは心理学者であって、神父ではない。 」

 

しかし、私は自分の心理分析に関する限り、立派な心理学者であって、新たな他人の心理分析学者を必要としないくらい、深い分析力を持っていた。

 

自分の行動の源泉に愛のフラストレーションがあって、崇高な目的を持った思想も理想も使命感も全てここから出て来たことはよく承知している。

 

だから其の使命感は偽なのか?!私は治療を必要とするのか?!

 

自分のすさんだ過去に意味を感じ、自殺まで図った人生を与えられた意義を知り、やっと自分はしっかりと生きて行けるぞと思っていた。自分が神の高遠な計画の中の積極的一員として生まれてきたものと信じることによって、其の死にさえも意味があると「思っていたかった。」考えてみれば勝手にそう思いつづけていればよかったのであって,何も人に相談することもなかったのだが、多分私はそれを誰かに認めてもらいたかったのだろう。しかし彼は自分も百も承知の私の心のうちを見抜いた。

 

再び再び愛情乞食か!愛情乞食の行動は愛情乞食以外の意味がないのか!他人に言われただけに屈辱感が大きかった。

 

ベトナム戦争に抗議して一人の老人が焼身自殺をした。其の死に敬礼!自分はそこまでできない。しかし其の老人をそこまで駆り立てたもの、それだってフラストレーションでなくてなんだろう。あの神父ならこの老人も精神病院向きだというだろう。ゴジンジェム夫人がこれを称して,バーベキューといったように。

 

人は他人の使命感に冷ややかになりうる。使命感の裏側にあるものなどどうでも良いことだ。駆り立てられてひとつの行動をとって死んだらそこに意味があるだけじゃないか。 思索し、迷い、疑い、思索し、迷いつづけた。それから私は決意した。

 

よし!スペインに行こう。