「自伝及び中米内戦体験記」8月26日  

イタリアからスペインへ

 

3)三郎兄さんとの「出会い」

 

兄との「出会い」とは変なことを言う。しかし、ドイツからイタリアまで私を案内してくれた三郎兄さんとは一緒に育たなかった。どんな人間か知らない。顔だけ似ているのだけど、確認したのもその時が初めて。だから、ほとんどその時が「出会い」なのである。私との間に10歳の年齢の開きがある。私の幼少の頃にはわずかな記憶しか残っていない。この兄が、はじめて電車というものに私を伴って、動物園につれていってくれた。動物よりも何よりも電車がゆれたから兄の足にしがみついたら、彼がそれをえらく恥ずかしがっていた、其のときの印象。

 

それから割り箸ととうもろこしのひげをつかって小さな人形を作ってくれた。二本の割り箸で足と手を組み立て、頭をつけて胴を綿とフェルトで硬く巻いて髪の毛にとうもろこしのひげがつけてあった。そんなことをしてくれた生きている兄弟は他にいない。

 

母がその人形を汚いといって馬鹿にして捨てたけど、私が当時5歳ぐらいなら、彼は15歳ぐらい、15歳の少年の創作人形としては優れものだった。あの人形を今絵に描けと言われたら描けるほど、鮮明な思いで。

 

ただし彼はものすごく乱暴者だった。彼の通過地点にいると、私はよく腕を折ったり、足をくじいたりしていた。ただし「いじめられた」という印象はない。

 

その後彼と会ったのは、修道院に入った彼の誓願式と司祭になったときの叙階式。一緒に育たなかったから、彼の人間を知らない。この兄と2週間もいっしょにいるのはこのヨーロッパ旅行が初めてだった。

 

修道院に入るそうだなあ」と彼が言う。「まあね。」と答える。彼は其のときの自分の気持ちを語った。

 

彼はどうも其のとき恋愛をしていたらしい。彼の述懐。

 

「自分が所有する権利のある美しいものを捧げて神のために尽くすという道は意味はあるが寂しい道だよ。そうすることによって自分が神を愛し、神が自分を愛するという確信が無ければまっとうできない。自分の道が人の道より高尚だとか、その道を選んだために満たされるとかいうのは自己欺瞞に他ならないよ。」

 

彼が修道院に入った其の理由を私は聞かなかった。家にはそれをタブー視する雰囲気があった。彼のことが私の記憶に無いのはうわさにも上らなかったからだ。私は人の話を聞くとき、本人が言っている以上のことを探る習慣が無い。

 

ただ、其のとき、私は、ああこの人まさしく私の兄弟だと思った。正直だ。純情だ。自分の真実を見つめている。孤独を知っている。もしかすると愛に飢えている。

 

私は自分の修道院に入る理由など言わなかった。これからマドレに会いに行く。マドレとの出会いをかいつまんで話し、ちょっと彼が知らない家の状況を話した。

 

修道院に入りたいのなら、それが理由で良いじゃないか。」と彼は言った。

 

「人を一人愛するということはすごいことなんだ。全所有金をなげうって一人の人に会いに行くほど愛せる人がいるということ自体がすごいことなんだ。それを神様のためなどといってごまかすこと無い。」

 

私は「あの体験の話し」はしなかった。彼の今の状況を推し量れば、心に何がおきているかわかったから。

 

ああ、彼はきっと自分の体験から何かがわかっているのだ。彼が何歳のとき修道院に入ったか知らない。其のときは35歳になっていた。青春のすべてを修道院で過ごした。其の彼の述懐。重かった。

 

4)「イタリアへ」

 

ザルツブルグミュンヘン、ウイーン、ベニスを飛ぶように過ぎて、フィレンツエに落ち着いた。三郎兄さんも画家の子、美術館ばかりを案内する。といってもフィレンツェなどは町全体が美術館だ。彼が特に好きだと言うフラアンジェリコの受胎告知。圧巻。修道院の壁に描いてある。日本で、この絵を見たのは、名刺大の、教会で「ご絵」といっている代物だった。本物は壁画だから大きい。天使とマリアの表情に描いた画家の瞑想の影がある。すばらしい。

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 https://bijutsufan.com/earlyrenaissance/fraangelico/

 

修道者が描いただけに精神性の光る絵だなあ、と思った。

 

アシジ。あの小鳥に説教したという、自然派の聖人フランシスコ・アシジの修道院。彼がメモに書いた自分のための祈りが、「平和の祈り」として、今教会などで唱和されている。あの祈りは美しいが、適当な気分で適当に唱和されていい祈りじゃない。

 

アシジは、その聖人の住んだ村らしい清涼な平和な村だった。

 

イタリアの本体に入ったとたんに雰囲気ががらりと変わった。駅を出たとたんにデブの男が寄ってきて我々を日本人と見るや、「やすい、すばらしい、やすい、すばらしい」、と日本語で言いながら客引きをはじめた。

 

かと思えば、「おじの、おじの、おじの」、といいながら、怪しげな男が寄ってくる。「それいったいなんなの?」と聞いてみた。「にっぽん、おじの、すばらしい。」と答える。日本製のローマ字で書くとOgino・・・つまり荻野博士だが、イタリア読みにすると「おじの」になるらしい。

 

苦笑した。荻野って、避妊法を発見した学者なの?なんだよこれ。変なものが日本の代表的特殊技能として知られているんだ。で、日本人の女を見ると、おじの おじのって、ふざけるな、イタリア男!

 

三郎兄さんは女人禁制の修道院にいってしまい、私は 彼が用意した安宿に泊まったら、相部屋ですごいおなごと一緒になった。

 

40代ぐらいのおばさんである。人前で平気でツルツルとコロモを脱ぎ、部屋中歩き回りながら話し掛けてくる。ギョッとして布団にもぐりこんだら、顔出せ顔出せという。仕方ないから顔を出したら、おっぱい丸出しでパンティーも脱ぎつつある。なんで、変なもの見せるんだ!身の危険を感じ、寝たふりを決め込んだ。

 

朝になってまた驚いた。あの女性、鏡の前で着ても着なくても同じみたいな寝巻きを脱いで、洗面所にまたがって股を洗っている。それを見たら、凄いもの見ちゃったとばかり、純情な私はいたたまれず、慌てふためいて顔も洗わず飛び出した。あの女が股を洗った洗面所で、顔を洗えるかい!遠慮って言うもの無いんだなこの国の女性は、もう!

 

ローマ観光をした。ここもただ歩いているだけで、芸術品だらけの町だ。彫刻がすばらしかった。でもやっぱり、ここでも一番面白かったのは人間模様。市電に乗った。座席に男が座っていると、でっかいおばさんが現れて、男を立たせて自分が座る。無言だし、有無を言わせない。強引である。あきれていたら、「この国じゃ男が座席なんかに座っていられないんだ。」とにやにやしながら三郎兄さんが言う。

 

日本の都会の朝の電車で、座席に座っている女はほとんどいない。たいてい、男が大股を広げて新聞も広げて座っていて、女性はおろか、老人に席を譲るなどと言うことをしない。この連中日本に着たら、多分彼らもカルチャーショックを受けるだろうな。

 

カプチノ会の骸骨芸術。すげぇ!

 

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https://tokuhain.arukikata.co.jp/rome/2014/08/4000.html

上記に骸骨寺の光景たくさんあります。

 

織田信長が敵の首級を骸骨にしてぴかぴかに磨いて酒の杯にして、されこうべ酒と言って飲んだと言う話しを読んだことがあるけど、其の織田信長も顔負けだろうね。

 

5万のされこうべ集めて、幾何学模様の芸術にしちゃうんだから。地下道全部がされこうべ飾りでできている。頭に悪戯書きまでしてある。これが修道院か・・・。ぎょぎょぎょのぎょ。修道院と言う代物に対する日本で持っていた考えを185度は変換しなきゃならない。

 

これだけの頭蓋骨の持ち主の死者に対して、仏教徒なら卒塔婆立てて供養するだろうに。

 

ヨーロッパ人てすごいんだ。ぎょぉぉぉぉぉ。 博物館に飾ってあった古代殉教者の遺物の中に、聖人の腕だとか、指だとかがある。お釈迦さんも世界中に舎利コツをばら撒いたけど、こう生々しく肉片のついた鰹節状の腕を飾られると、尊いなんて思えないすよ。

 

なんでまた、こういうのありがたがるんだろね。どういう精神状態しているんだか・・この民族。

 

5)「スペインへ」

 

10月11日,とうとう私はスペインに向けて一人で汽車に乗った。いよいよ目的地へ。マドレに会いに行く。それしか目的のない旅なんだ。いろんな思いを乗せて汽車が行く。マドレはスペインの僻地、今でも日本では知られていない、エストゥレマドゥーラ県のコリアと言う田舎町に住んでいる。観光のために誰もそんなところは訪れない。構う凝ったない。もう来てるんだ。

 

1960年代の、まだ1ドル360円均一だった頃の24歳の日本女性にとって、それはすでに世界の果てだった。(多分、今でも世界の果てです。)

 

当面の目的地、セビリアは、ドンフアンの物語や、ジプシーの踊り子の人形などで、少しは世に知られ始めていたけれど、私はそういう「常識」や、観光目的の文物は一切調べもせず、其処がマドレの故郷で、彼女の住む「世界の果て」の中継点だという意味以外に何もなかった。

 

ローマから汽車に乗って、 一路スペインを目指す旅は、私の人生に彗星のごとく現れて消えていった、一人の人間の面影を追う旅でしかなかった。苦悩の中にいた私を、がばと目覚めさせ、方向を示すために現れた人間、その人間を私は恋人のごとく慕い、神のごとく崇めた。

 

私はその「神」に会うために、苦学生時代貯めに貯めた独立資金をすべて使い、さらに足りない旅費を稼ぐために、1週間寝ずに翻訳した。苦学時代、それは学卒の新入社員の初任給が8000円の時代だった。私は20を過ぎた頃から、母に月10000円を食費として支払い、さらに学費を出し、さらに独立資金を貯蓄するほどに、猛烈にアルバイトをしていた。守銭奴となってためたお金をすべて使ってただ会いにいく相手とは、私有財産を一切持たない、自分の行動のすべての決定権を神に預けた一介の修道女であった。

 

ピレネーを超えて最初の町、バルセロナについたときは、夜どうし座っていたので疲れきっていた。一晩中超音波を出す夫婦のおしゃべりに悩まされ、駅を出たとたんに客引きにつかまった。ローマからずっと一緒だったカナダ人が私と一緒のホテルに泊まろうという。

 

インフォメーションの場所と両替の場所を其の客引きに聞いたら、もう両方ともしまっているよという。その表情から危ないと思った私は、二人を巻いて自分で探したら、インフォメーションも両替の場所も両方ともあいていた。自分でホテルを決めて、その日、一人で宿を取った。しつこいやつはたいてい怪しいのだ。

 

次の日マドリードに向かった。マドレが紹介してくれた家を探したけれど、相手は家にいなかった。

 

それで仕方なくマドレの修道院の本部に行ったら、日本からの客だと言うので、修道女たちがみんな大騒ぎして歓迎してくれた。驚いたことに、私に翻訳のアルバイトをさせてくれた日本の修道院の院長が、選出されて総長になってマドリードに来ていると言う。そうか、だからここで翻訳代を渡すと彼女言ったんだ。

 

一人のマドレが明日プラドの美術館にいっしょに行こうと言う。2,3歩歩くのに5分はかかりそうなおばあさんだったので、適当なことを言って断ったら、あんたはあたしが嫌いなんだ嫌いなんだと言って、じょぼじょぼ涙を流している。どうも、旅行者を捕まえては修道院を抜け出して遊ぼうと考えていたらしい。かわいそうかもしれないけれど、その時私は24歳、そういう老人を思う気持ちが芽生えていなかった。

 

院長を待っていたがなかなか来ない。其の晩修道院に留めてもらうことにしたが、私は下腹部に激痛を起こして、院長に挨拶せずに寝てしまった。

 

そうしたら寮にいた高校生ぐらいの年の二人の女の子がやってきて、それはそれはけたたましく看病してくれようとする。食べろ食べろと言ってうるさい。病気なんだと言ったら、お前は食べないから病気になるんだと言って、寝ている布団の中に手を突っ込む。イタリアでもそうだったけど、なぜこうラテン系の人は無遠慮で無神経なんだ。

 

ぎょっとしてベッドの中にもぐりこみ、べらべら日本語で怒鳴った。「バッキャロー、デテイケー、コノオ、ナンバン人のキチガイ娘ー!! 」

 

もう!親切って、こういうことをいうなら、私は降りるよ。

 

次の日、翻訳代を受け取って私はこのすごい館を後にした。セビリアに向かう。セビリアはマドレの兄弟が住んでいて、私を待っているはずだ。観光なんか後回しにして、もう一路目的地に行こうと思った。

 

マドレはセビリアからさらにポルトガル国境に近いコリアと言う村に住んでいる。買い求めたスペインの地図を見て、やっとその辺鄙な村里を見つけた私は、「これは左遷だな」と思った。