「自伝及び中米内戦体験記」9月3日

修道院物語

1)「修道院入会の準備 」

 

昭和44年10月、1年間のスペイン旅行を終えて帰国した私は、その足で母校の修道院に挨拶に行って、修道院入会の志願を確認した。

 

住居を異動するわけだから、事務的にするべきことがいっぱいあった。健康チェックだの、役場関係の書類の提出だの、信仰には無関係の雑事のために、私の入会は3月まで延期になった。気が変わらないうちに早く入りたかった私は、再び不安定なときをすごすことになった。

 

まず、生きていくための生活費が無い。駆けずり回って3件の家庭教師の口を探した。

 

3月までとわかっていたから、3人とも受験生。数ヶ月の約束で、とんとん拍子で家族の厄介にならず生活にこぎつけた。家には姉の一家がアメリカ移住の前の数ヶ月を過ごすために転がり込んでいて、やっぱり私はパラシオとなづけた例の物置に住みこむことになった。

 

其れから私は修道院に入ったらもう勝手な読書をできないと思ったので、宗教とは無関係な文学書や、歴史書などをむさぼり読んだ。其のうち聖書はうんざりするほど読み暮らすだろうと見越しての選択だった。

 

母は。穏やかだった。母は一年間のマドレの私に対する好意と自分に対するきづかいに感動していた。母もあれほど自分に対して集中的に好意を示してくれた人をその人生において知らなかったのだろう。

 

マドレは60を過ぎた母の心にも、深い傷があるのを知っていた。母が子供のころからあこがれていたと言う人形をまだほしがっているのを知ったマドレは、かわいらしい民族衣装を着た、子供が持つような人形を私に選ばせ、母に送ったのである。

 

姉の子供が一緒に住んでいたから、母に人形を贈るとき、子供を納得させるためにスペインにしかない女の子のかわいい服を何着も何着もマドレが選んで送った。

 

その人形を受け取ったときの母の様子を姉が私に語ったけれど、母は子供のように嬉しそうにその人形を抱きしめていたとか。まだ幼児だった姉の子が欲しがらないようにあらかじめ「これはおばあさまの大事な大事な人形なんだ」と言って。

 

あの物語つきの金のブレスと、マドレがどこからか仕入れて母の名前を刻んだ金のメダイを私がそっとつけてあげたとき、母はじっと黙ってそのプレゼントをさすっていた。女性として装身具の一つも持っていなかった母が、はじめて金の鎖を身につけたとき、母は其のとき68歳になっていた。

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母は感動していた。多分其れは装身具をもらった女性としての喜びなんかではなくて、マドレの深い思いやりの心に対する感動だっただろう。修道院入りをあれほど反対していた母は、私が修道院に入るための下着などを買いこんで準備をしてくれていた。

 

私の心は其れを見て、締め付けられた。あきらめ、協力するほうに気持ちを変換させた母の心情を思いやった。十字架を伴わない愛はないとマドレが言っていた。その意味がわかったわけではない。でもそのとき母の本心を思うと、つらかった。

 

果たしてこの道は正しいのか?心が揺れた。

 

「恐怖」

 

本気になって真面目なことをし始めようとすることは怖いものだ。自らの信念貫徹のために、銀色の盾に向かってゲバ棒を振るう学生達はさぞ怖かろう。私は今、修道院に入ることに、何かゲバ棒を振るって恐怖におののいている学生の心境のように、武者震いをしながら臨んでいる。正常な気持ちで戦場に臨んだり、ゲバ闘争をしたりできる人間はいないのだ。あれは、みんな「正常」じゃない状態に自分を追い込んでのみできることだ。

 

つまり、私の修道院入りの決意も、決して「正常」ではないことを知っていた。

 

私はあの時、電撃のように感じた体験があったからといって、私の本質が変わったわけではなかった。私は知っていた。自分は、ただ純粋に、自分の生まれた本分を尽くして死にたいだけなのだ、本当は「外見」真摯な生き方に見える修道院になんか入りたくないのだ。自分みたいな人間は、異常は異常でも修道院なんかより、反戦運動のさなかで、機動隊と衝突して果てるほうが似合っている。

 

ある友人が、私が修道院に入ると言う決意をしたとき、せせら笑っていった。

 

「自分がもったいなくて、自らを博物館に入れる気になったのか!」

 

言いえて妙だけど、其れほど一般人にとって修道院は古代の遺物のように思えたのである。生きた動物の入るところではない、ましてやお前のような、飢えた人間の、当たり前の家庭の幸福を求めてやまない人間の、耐えられる所ではない様に思えた。

 

もう一人の友人は言った。

 

「あなたは修道院に入るには、ものに愛情を感じすぎる。」

 

つまり、修道院とは愛情が在っちゃ入れないところと思われていた。

 

もし私がその修道院の産物であったあのマドレとの出会いが無かったら、私も修道院とは愛情があっちゃ行けないところと思っていたであろう。そう。私は修道院とはいかなるところかを知っていたわけではない。また私は聖書の文字や文句に魅かれて入ろうとしているのでもない。実のことを言うと、あの表面は矛盾だらけで非科学的な聖書には、学べることは在るけれども、首を傾げざるを得ないことが多すぎて、深入りすることを敬遠してさえいたのだ。

 

其れでもなおかつ私は抗うことのできない力を感じて、「霊感によって!」入ろうとしている。霊感とは「矛盾と非科学の極み」をいっていい代物でありながら、敢えて従おうとしている。其れからこの数年間の間に身の回りで起きた出来事、人の言葉や揺り動かされるような人間愛に触れて、数々の暗示や運命や使命を感じて、恐れおののいて決意したことだ。

 

そして私は、自分の心を揺り動かすものの実在を信じていた。もともと自分の肌に合わない西欧的な独善的な道徳を他人に押し付けようなんて思ってもいなかった。だから布教したいなんてつゆ思わなかった。当然今でも思っていない。

 

「その中に身を投じさえすれば、その先は示されるように行動すれば良い」とあのマドレが言ったから、自分はその言葉を受け入れた。

 

あの時私を闇の中で抱擁してくれたやつがいた。あいつは一体何者なのか、どうしても知りたいと思った。あの名状しがたい喜悦を私の心に感じさせてくれたやつは誰なのか、その答えを大いなる仮定として決意した。

 

「お前が道を求めているのではない、道がお前を求めているのだ。」シスター広瀬が言ったっけ。

 

そう。あいつ「お前を求めている道」なのだ。と。

 

どんなに私は平凡な家庭の幸福にあこがれただろう。どんなに狂おしく人の愛情を求めた半生だっただろう。其れを制して修道院と言う未知の世界、人がその人間性を疑い、古代の遺物とあざ笑う世界に入る。

 

恐怖のあまり私はまた意見を求めた。否定してほしかった。入るなと言ってほしかった。人は答えた。案ずるより生むが易しだ。あたって砕けろ。行動を起こせば答えが出る。

 

修道院に入る直前、私は亡くなった友達、紘子のご両親のもとに行ってきた。紘子を亡くしてから、私がたずねた事のある実家の近くの家ではなく、二人は田舎に引っ込んでいたから、追跡調査をして探し回ってやっと見つけて訪ねたのである。

 

二人は涙に暮れて生活しており、家の中は足の踏み場の無いほど荒れていた。

 

「紘子はあなたを尊敬していた。あなた達が一緒に住むために私は家を建てようと思っていたのに・・・。紘子の形見をもらってやって下さい。」そういって二人がくれたものが、トッパーズの指輪と紘子が愛していた熊のぬいぐるみだった。指輪のほうはまさか修道院に持ちこむわけには行かないから、私は熊を持ちこむことにした。

 

仏教徒だったお二人は、紘子が死んでから、紘子の行ったところに行きたいと言って、一生懸命カトリックの教理を勉強していた。長いひげを蓄えた端正な顔をした老人がぎこちなく十字を切っていたのが印象的だった。その二人に私は修道院に入るからと、形見を受け取るのを拒めなかったし、私はその熊には心から愛着を感じてしまったのだ。熊を紘子に見立てて、一緒に修道院に行こうと思った。

 

翌年の3月1日、私はスペイン旅行をしてきた懐かしい旅行かばんに生活用品を詰めこんだ。その旅行かばんは、友人がくれたものだったけれど、大きなしみがついていたので、そのしみをごまかすため私はまっかな大きな豚の絵を描いた。スペイン旅行の間中、旅の同行者はそのかばんのことを、豚、豚と呼んでいた。私がいつもの山行きの姿(私はスペイン旅行に行く前、暇さえあればヤッケをかぶって山に出かけていた。)でその豚に衣類と紘子の熊を入れて出かけた先は、富士の裾野の修道院であった。

 

「シスターとなる」

 

富士の裾野の修道院は美しく広大な土地である。空気は清涼でさえぎるものの無いその空の下にお茶の畑や牧場が在る。目の前に優雅な姿の富士山が生えている。ここに暮らしたら、立派に世間知らずになるだろう。まあ祈りを職業とするためには最適なところだ。

 

次郎兄さんが運転する車で、修道院まで母は私を送ってきた。ある感慨が心をよぎっていたけれど、もう後に戻る気は無かった。二人の最後の視線を振り切って、私は修道院の人となった。その日から私はシスターと呼ばれる存在となった。しょっぱなから私は皆にたまげられたらしい。

 

修道院と言う保守的な王国に入る人は其れなりの保守的な魂を持っている。其れは態度、物腰、服装にも表れている。おまけに私が選んだこの修道会はもともと乱れた貴族階級の子女を教育するために生まれた歴史を持つために、入会してくるものもそれなりの階級の出身者が多い。

 

そこにかつて反戦運動に身を投じ、デモに参加してシュプレヒコールをやった経験を持つ、プロレタリアートの私が入ってきた。(まあ、母に言わせれば、先祖は武家だったそうだけど。。。)服装は登山の格好、つまりシャツにチョッキにズボンにヤッケ。でっかい豚付きのかばんを持ってきた。

 

いくらなんだって非常識です。はい。極め付きなのは、豚の中身だ。必要な衣類と宗教とは無関係な2、3の書物の中に、ひときわでかい熊のぬいぐるみ。なんだよ、これ!

 

シスターたちは黙っていた。徹底的に黙っていた。心は神様ばっかりにとらわれているみたいだった。それどころか目の前に生の人間がいるのを意識していないみたいにお互いに口を利かなかった。祈るときにだけ、この世のものと思えぬような異常に高い声で人間かもしれないと思われる人の声が唱和した。

 

ああ、これが修道院と言うものか。なんでも良いから先輩のすることを真似て、雑念ばっかりの私も沈黙の世界の人となった。