「自伝及び中米内戦体験記」9月4日

「変革の波の中で 1」

 

私があの修道院に入会した昭和40年代、ヨハネス23世教皇が召集した公会議を受けて、教会も修道院も大改革の時代であり、非常に不安定であった。

 

私の大学4年の時に米大統領ケネデイが暗殺され、ジョンソン、ニクソンベトナム戦争を泥沼に導き、世界は反戦運動のうねりの中にあり、日本は学生運動破局に向かおうとしていた。

 

その中で教会も修道院も旧態然とした体制を改め、なんとか現代に近づこうともがいていた。創立当時から続いている僧服とか修道女の生活を支配する規律の在り方などが見直される方向に動いていた。

 

私が入会した静岡県の富士の裾野の広大な土地にある修道院は、私のような見習の修道女の修練の場としての役割を持っていたが、修練の場も世間から隔離するようなところでなく、都会の中で社会と接しながら修練して行くべきだと言う考えにかわりつつあった。

 

あの会は「教育修道女会」だったし、小中高だけでなく、大学大学院を経営していたので、上に立つ人たちは高等教育を受け、学者をたくさん抱えていた。つまりレベルとしては知的レベルの高い集団だったので、変革に対する対応も理論的に知的に話し合われていた。会を当時牛耳っていた管区長は、やり手の女傑だった。豪腕で聡明な男勝りのアメリカ人だった。 私のようなへんてこな人間を貴重な人材として受け入れたのは、その管区長をトップとする知的集団の決意だった。

 

当時入会した者の中にはカトリックの私立高でなく公立で教育を受けた変り種が多かった。管区長は私に言った。

 

「だれだれさんはシスターらしくないとかシスターらしいとか言うことにこだわるな。いろいろな多様性の在る集団でないと多様性のある現代人を教育できない。あなたのような人間が必要とするところもあるのだ。」

 

「あなたのような人間」て。。。^^

 

まあ、普通ならここで恐れ入ってありがたがるんだろうけれど、

「まあね、私を気まぐれに創ったのは神様なら、どのように私を使うかは、神様が決めることさ」と私も感じて覚悟をした。

 

しかし静岡県修道院はそのころはまだ旧態からのがれてはいなかった。私は東京の母校の大学の構内に建設中であると言う、「都会の中の修練院」というところに、その年から必ず入れると言ううわさを信じて、修道女たちが話しを許されるときは、お互いにひそひそ、かさかさとしか語り合うことをしない、不思議な沈黙の世界を耐えていた。

 

「変革の波の中で 2」

 

入会したばかりで、まだ俗世のチリにまみれた私にとって、裾野はまるで「化け物屋敷」だった。

 

そこに在籍したすべての修道女は改革前の教育を受けた人たちばかりだったから、私には異常に見える風習を常識として暮らしていた。黒い修道服にほとんど顔の見えないヴェールをかぶり、日のあたらない青い顔をして、言葉はかさこそとしか聞き取れない。

 

朝4時ごろ、寝ぼけたしかも間の抜けたアレルヤを一人の音痴の修道女が歌うのを合図に起床する。

 

緊張して4時より前に目を覚ましていた私はもう正気になっていたので、其れがおかしくてたまらない。自制心もなく、げらげら笑って飛び起きる。こう言うことにいちいち意味があるのだと彼女達は思っているのが、なおおかしい。そう。そのころの私には仲間は「私達」では無くて、「彼女達」だった。腹の底じゃあ、「こいつら」だった。

 

私よりほんの数ヶ月先輩のフィリピン人の修練女がいた。日本語はできなかった。その修練女は、すごく世話を焼くのが好きで、きわめてものすごく神様の話しをしながらその合間に自分のかなり勝手な意思を忍ばせて話しをする癖があった。その声がひそひそ声と来ているからなおのこと気持ち悪い。

 

私はしまいに彼女のおせっかいにうんざりしてしまい、「自分が親切のつもりでも他人にはそうは取れないこともあるからいいかげんにしなさい」と言ったら、彼女は突然目をむいて、

 

「お前は日本人がフィリピンを占領したときいかに悪事を働いたか知っているか」ときたもんだ。

 

げえええええええッ!?突然神様とも、彼女の見せ掛けの親切な行動とも関係の無い、生々しい「太平洋戦争の中での日本軍の悪事」の話しになって私はおったまげた。

 

「卑劣ですよ、あなた」と私は言った。「その問題は、今のあなたや私の行動の間にまったくなんの関係も無い。あなたが気に入らない私が、日本人だからと言って、そう言う歴史を持ち出して、そういう歴史を持った日本人には個人的な生活上の食い違いにさえ、何も反論する権利が無いと言うのは、議論のすり替えです。其れ自体卑劣な行為です。東京の人が一人犯罪を犯したら、あなた東京のすべての人にその責任をかぶせるんですか?」

 

(私はね^^、昨日まで反戦運動で、デモの最前線にいた人間なの。そういう討論なら、私は、腕を磨いてきているのよ。)

 

彼女は言いつづける。

 

「私のおばあさんは日本兵に殺されたのだ。」

 

「それはお気の毒。でもね、私の家族はむしろ戦争の犠牲者だよ。父は肺病だったから兵役免除になっていて、従軍したことありません。戦乱の中で肺病になって、薬も買えずに死んじゃったんだ。米軍の攻撃に耐えて終戦を4歳で防空壕で迎えた私には、あなたのおばあさんの死に関して、家族にも私個人にも、責任はないし、ましてあなたに恨みを買う立場じゃない。」

 

しかし、以後彼女はことあるごとに私に突っかかってきた。皿洗いの後布巾を洗えば、「あなたの心もこんなお湯のように温かかったら良いけどねえ・・・日本人だから無理ね」などと言う。

 

相手にしていられない。ここは修道院であって、政治の場ではない。アジアに行くたび帰る度、フィリピン人や中国人に会うたびに、「戦争しちゃってごめんなさい」等と言うことを、個人のレベルで強要されてたまるか。はったおされんな、くそくらえ!

 

と、声には出しませんでしたよ^^。腹の底で思っただけ。

 

戦争は勝とうと負けようと過酷で残虐なものだ。あんたの大好きな「自由と正義の国アメリカ」だって、今日本兵の50倍ほどの残虐行為をベトナムでやっているんだ。アメリカ人ならベトナム人を何万人と殺しても正義の味方で、日本人なら戦争にかかわりのない4歳の餓鬼まで、悪逆非道の戦犯か?

 

彼女は其れ以来ずっと寝食を共にしたが、ずっとこんな風な状態だった。ミサのときだけ、薄気味悪い笑顔で、彼女のほうから仲直りしに来るという、妙な関係が続いた。

 

実は、ミサ中の聖体拝領というカトリックの儀式の習慣では、罪の状態では受けられないという昔ながらの習慣があって、彼女は、この聖体拝領の条件を満たすために、「仲直りごっこ」をしていたに過ぎない。とにかく変なやつだった。

 

彼女は私以上に、自分で自分を追い込んだ修道生活に、フラストレーションを抱えていたのだろう。

 

「シスター小山と友人になった。」

 

シスター小山は私と同い年で、すでに其時教職経験もあった。あるとき彼女は私を散歩に連れ出した。広大な土地の見渡す限りこの修道院の領地なのに、声はひそひそとしているのが滑稽だった。

 

しかし彼女の話しが大変面白く、かなり情熱家だということがわかったし、その信仰に対するあり方が、なんとも私と共通するところがあった。批判精神も旺盛で、意にかなった考え方だったので、かなり話しこんでしまい、集会の時間に数分遅れてしまった。集会の時間を私は知らされていなかったのだが、彼女は知っていた。

 

二人で散歩を終えて帰ってきたら、なんだか雰囲気がおかしかった。修道女としては私より先輩の彼女がものすごくしかられていた。

 

其の叱責する声が聞こえた。

 

「ここはもともと自由な場所じゃないんです。自由がほしければここにくるべきじゃないでしょう。先輩として新入会員を導く立場にある人が、連れ出して、大切な集会に遅れるとは何事ですか!」

 

数人のこわいのが、彼女一人を取り巻いて攻め立てている。ちょっと驚いた。ほんのわずかな遅刻である。其れを入り口に大勢で出て迎え撃つために待っていた。皆険しい顔をしている。彼女は先輩とはいえ、同い年である。とうとう、私が助け舟のつもりで口を挟んだ。

 

「う?」怪訝な顔で一人が私を見た。

「あなたは知らなかったんだから良いんです。責任はあなたにありません。」

 

どうも、シスター小山に、新米の私を預けて、どのような行動を取るのか試されたらしい。彼女に対してだけ、みな冷ややかだった。う~ん。ここは本当に修練の場っていうか、しごきの場なんだろうな。

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上記の写真は毎日眺めていた富士山を映したかっただけで、内容と無関係。

 

「東京で教師になるらしい」

 

或る時突然私は命令を受けた。

 

「4月から東京の、本会経営の高校で国語を教えなさい。」

「ほよ?」

 

あまりに突然だった。

 

修道院に入ってくる修練女は修練女としては新米とはいえ、すでに教育も受け、資格も持った大人だから、世間から隔離して子供のように教育のしなおしをするのでなく、その能力も資格も十二分に活用させるのが本当だと言う考えが、上のほうの会議でまとまった結果だった。

 

4月1日に修練女全員、修練長と呼ばれる直属の上司に伴われて東京に向かった。

 

突然とはいえ、私はこの命令を喜んだ。沈黙の世界からの脱却だ。

 

しかし4月10日の始業式まで後9日しかない。教科書も手元に無いし、相手の学年も知らされていない。予習もしたいけれど、まったく資料もなく、どうしてよいかわからない。

 

私は準備の時間を願い出た。其のとき先輩がいったことば。

 

「あなた何言っているの?教育事業とは知識を伝達することだけではないこと知らないの?始業式の日まで何を教えるか知らなかった人だっているのよ。経験も資格も能力も無いのに小学校の全教科を教えなければならなかった人もいるのよ。上の命令に何も言わず従うのが従順と言うものでしょ?あなたは高校生に国語を教えるの。教える前に教科がわかっているだけで良いほうよ。以上!」

 

あ、そう。恐れ入りました。しかし、一瞬の後に、あきれ返った。

 

なんと、教える前に予習するなんて「贅沢でわがままなことだ」と言っているのである。そんなすごい世界が教育修道女会の世界かよ!やってらんねえや。

 

この人達を相手にしていられない。私は直訴することを考えた。教師として教壇に立つと言うときに考えるべきは教えられる側の立場であって、修道女の内部の干からびた常識ではない、と思った。中世の修道女が勝手に作った中世の現実を現実だ現実だと言って巻き込まれてなるものか。

 

今は進歩と革新の時代なんだ。其れを言っているのはみなが神様みたいに尊敬する、やり手の女傑のといわれているあの管区長じゃないか。

 

教壇に立つ修道女にはしかるべき準備の時間を与えるのが生徒に対する責任だ。あんたの会の理念には、集まってくる学生に対してよい教育をし、よい社会人として社会のために貢献できる人材を育てると言う綱領を高らかにうたっているではないか。それをなんぞや。資格も無ければ準備をする時間も与えず、命令に対して疑問も許さず問答無用で、教壇に立つのが「従順」の美徳だと?

 

ばっかじゃなかろか、唐変木

 

うんざりした。

 

おまけに、日常生活の中でも、もっともっとうんざりすることが続いていた。

 

服装のこと。まだ見習で修道服を身につける前だったから、持ちこんだ俗世の服を着るしかなかった。別に其れは派手とかまたは襤褸とか言う代物ではなくて、当時の一般人女性の普通の服装だった。

 

ところが、先輩達はその服が修道女らしくないとか、スカートが短すぎるとか、色がふさわしくないとか、あーだ こーだと文句をつける。これしかもっていないというと、この非常識な間抜けめ!見たいな顔つきで私を見る。

 

次に出てきたのは聖体を拝領する「順位」。組織には年功序列があって、上座下座の区別があるのは、外の世界では納得している。

 

しかし、ここは宗教集団でしょ?宗教集団の価値観が、外の世界の価値観と同じなの?

一か月早く生まれたほうが聖体拝領の順位が上?別にいいよ、そう決まっているんなら。何言われても、仕方ないからいちいちハイハイ言ってはいたけれども、もうこういうの相手にやっていらんねえと思ってしまった。

 

挙句の果て、高校の国語を教える命令を受けて、其の準備をするのが非常識だと言われて、私の私たる真骨頂を発揮せざるをえない時がきた。私は頭のいい、変革の急先鋒に立つ上司に直訴した。

 

「人に物を教えるなら、教える側の価値観でなく、教わる側の立場で、物事を運ぶべきです。何も予習もしないで教壇に立って、教師が責任ある授業をできますか?相手は授業料を払って、学校に来ているんです。私を責任ある修道女に育てるつもりなら、私にも責任ある行動を取らせてください。」

 

結局私の意見は通った。東京に出て、個室を与えられてやっと準備をはじめたときは、高校の入学式の5日前だった。

 

註:聖体(キリストの最後の晩餐を記念して、キリストのご神体として信仰されているパン。これを拝領することによってキリストと一致することになっている。カトリックの信仰の中心的な代物。)

 

「変革の波の中で 3」

 

東京の母校の大学の構内に新しく建てられた家は、こじんまりしてなかなか住みごこちがよさそうだった。静岡県の富士山麓で1ヶ月中世以来の体制に触れた私は、なるほど改革が進んでいるなと思った。あそこでは共同の暗い大部屋で、一斉に就寝し、一斉に例のアレルヤの歌で起床する。東京では全員個室で、ちょっと学生寮みたいな雰囲気である。其の新しいハウスが完成する前に到着したから、個室ができる前、別の大部屋でシスター小山と同室になった。

 

静岡県に行かずに、すでに東京で入会していたシスター達と総勢11人の見習い修道女が合流した。指導の体制も改められ、修練長は一人でなく3人のチームで話し合いながら構成されることになった。1ヶ月の間修練長を勤めたシスターも同じ屋根の下に暮らしたが、役は解かれ、他の数人の年季の入ったシスターと共に、このコミュニテイーのメンバーと言うだけの役割になった。

 

神学とか宗教学などの勉強は大学の講義に出られたし、他に研究会を設けて、討論の場、祈りの場と、スケジュールもなかなか忙しかったが、それなりの充実感があった。

 

ここでは食事中もお互いに談笑していたし、妙なひそひそ声で話す必要もなくなった。やっと人間関係がまともになった。特に私がうれしかったのは、公立出身のシスターが、今まで守られてきた修道院常識を見て、ぶふっと平気で噴き出したり、「ひゃア、なに?それ、バッカみたい!」等と、世間に通じる言葉で反応をしてくれたことである。異常な世界で異常だった私が、やっと正常に戻れたのだ。

 

討論も元気で、先輩に遠慮をしなかったし、霊的世界におぼれた経験のない人たちは、質問も鋭く、わからないと徹底的に食い下がってくる点、どんな非常識でも上司の言うことに従うのが常識とされていた世界で、革新的なことだった。

 

みなが私と同じでは無かったが、ある種の宗教体験を経てきており、確信的な信仰を持っていたのもうれしかった。歯の浮いたようなことを言うのはむかしの人ばかりで、公立出身のシスターがそのたびに「ケケケケッ」などと笑う。

 

だから、「私は神様を誰よりも愛しています、神様のために生きています」などという言葉を、意地悪婆が、そのときだけ語ったって、誰も本気にはしなかった。

 

ただし、皆すごく真面目で真剣だったから、集会などで、気になる発言に対しては、一度ベッドに入ったシスターをたたき起こしてまで、あの発言の意味はなんだ、わかるまで説明をせよ、などと討論を仕掛けてくる。

 

私はこれまでに、自分と同年輩で宗教的に志を同じくする人物と、出会ったことも無かったし、ましてや討論をするなどと言うことも初めてだったから、この時期の生活ほど満足を感じ、充実感を抱いたことはこれまでになかった。実に、この時期に仲間と一緒に得たものがその後の生き方を支配しつづけたといっても過言ではない。