「自伝及び中米内戦体験記」9月5日

 

「 仲間のシスターの強制退会 」

 

裾野で出会って意気投合し、東京に来た当初、同室だったシスター小山。私が修道生活を続けていく上で、対等で気の合う友としてその存在をだれよりも大切に思っていた彼女が或る日行方不明になり、一晩帰ってこなかった。

 

以前のことは知らないけれど、私が入った当時のその修道会は、シスター達の出身家族のことを思いやって、案外家族を見舞うことに寛大で、私もしばしば週末など、母のところに行く許可をもらって出かけていた。特に病身の親を抱えていたり、法事などの場合、泊りがけで実家に行くことも可能だった。

 

或る時、私が実家訪問許可をもらった日、シスター小山も前の晩から長野の実家に法事に出かけていた。ところが彼女は其の晩、私の家に電話をかけてきて、実家で引き止められて困ったので私と待ち合わせているという口実を設けたから、待っていてほしいと言ってきた。其れでその夜二人はかなり夜遅く修道院に帰って、事なきを得た。

 

しかし、裾野のときからそうだったが、彼女は時間に関してはルーズだった。私は子供のときからの癖で、時間厳守は本性に近かったけれど、時間の奴隷でもなかったので、其のときは時間より友情をとったのだ。ところが其のときも、なぜか私の遅刻は不問で、彼女だけしかられた。なんだか変だなあと思っていた。

 

やがて完成した新品の家ができ、シスター達は新しい家の中に設けられた6畳ぐらいの小聖堂で一緒に祈ったが、これも昔のように同じ祈りを一斉に唱和するのではなしに、一人一人が自分の心の発露としての祈りを自分の言葉で語ると言う形が撮り入れられていた。

 

其れでわれわれはその祈りの内容から、今の仲間達の心の状態を知ることもできた。シスター小山の祈りはその中でもひときわ深く、しかも自然態で、情熱があった。あの祈りから私はどんなに深く影響を受けただろう。

 

皆それぞれ仕事を持っていたからお互いに話し合うことは少なくても、みなで集まってするその祈りの時間は、心の交流の場として大切な時間だった。 その晩、あの深い、人間洞察に優れた、詩のような、シスター小山の祈りがなかった。私の心には何か暗い予感を感じていた。深い宗教心を持ちながら、彼女が弱い側面を抱え、きわめて人間的で、其の弱さがむしろ彼女の宗教心の根源であることを私は知っていた。私はむしろ自分と共通のその弱さゆえに、彼女に愛情を感じ理解もしていたのだ。その夜彼女は帰ってこなかった。

 

次の朝、私は母と約束があったので、実家に出かけた。4時ごろ帰ってきて、私は彼女のベッドから布団が無くなり、彼女の持ち物がすべて消えているのを発見した。

 

ああ。すべてが決定したのだな。おおよその見当がついた。呆然と裸のベッドを眺めた。仲間が通りがかったが、すぐに目を伏せてものを言わず過ぎていった。みな、蒼白な面持ちだった。

 

彼女は無断で外出し、その晩どこでとまったのか知らない。町で私服を着た彼女が発見され、決定はその場でなされ、強制退会となった。彼女のあらゆる持ち物がその日のうちに実家に送られ、仲間の誰一人にも挨拶の一言も許されず、そのうわささえする者はいなかった。

 

すべてが決定したことを理解した。その決定が正しくなかったとは思わなかったが、心に押し寄せる悲しみを私はどうすることもできなかった。涙が後から後から流れ、私の押し殺した泣き声が嗚咽となり、小さな修練院の廊下のほうまで響くほど、家全体が静寂を保っていた。

 

私はあくまで正直だった。無関心や無意識や不感症を装うことができなかった。 繰り返すが私は組織として、この決定を間違っていると思ったわけではなかった。私は自分が選んで入ってきたこの集団の中で初めて心をゆるした友の人生の大事な決定の瞬間に、一緒にいてやれなかったことが悲しかった。

 

あなたが何をしようと私はずっと友達だよと伝えることもできなかったのがつらかった。あなたが持っていた、あの深い霊性から私がどんなに多くを学んだかを、あなたが持っている人間的な弱みなど、それに比べたら無に等しいのだ、と言うことを伝えることができなかったのが悲しかった。

 

「あなたは多くを愛した、だからあなたは赦される」というキリストの言葉を、彼女の背中に投げかけてやりたかった。裁きを受けなかった者が裁きを受けたものより必ずしもいつも正しいわけじゃないのだと、私は吼えてやりたかった。私は自分のベッドの中でのたうちながら其のように吼え、そのように唸った。

 

一人のシスターが入ってきた。何も言わず、ただ優しく私の振るえる肩に手を置いた。ただ一度の心の緩みのため、あれほど豊かな霊性を持ったものが去って行った。そして年がら年中心が緩んでいるものが残っただけだ。そう言う私の毒舌を包み込むように、そのシスターは一緒に祈りましょうと言い、静かな祈りを唱えた。

 

「あの方を受け入れるもっと大きな社会で、あの方が自分に与えられた仕事を十二分に果たすことができますように。」その祈りを子守唄のように聞き、私は眠りに陥った。 しかし私はこの事件をきっかけに、心の安定を急激に失っていったのである。

 

「 清貧の実態」

 

修道女は見習い期間を過ぎて修道生活を決意したら、誓願を立てる。貞潔、清貧、従順の3つの誓願である。貞潔は説明しなくてもわかるだろう。従順は上司の命令を神の代理人の命令として従うと言うことらしい。修練院では、上司の無理難題を全部はいはいといって従えるかどうかが試されるところらしいが、これはうっかりすると外部との人間関係にとってはものすごく無責任な規則ともなりうるものだ。

 

しかし、内部にいる限り気にならない。清貧は生活の中で必要最低限のもの以外は所持しない、物欲を神様にささげると言うことらしい。

 

私が、それらすべてを「らしい」というのは、私はその誓願を立てる前に修道院を出てしまっているので、確実にこうとわかっているわけではないからである。私が今ここに書こうとしているのは、物欲に関して清らかであるはずの清貧について、或る体験から考えたことのみである。

 

古い時代の修道院では、シスターの間に差別があって、教育に携わったり指導的立場についたりするものと、雑事ばかり専門にやって暮らす者と別れていた。私たちの頃は、食事の用意、後片付け、掃除、洗濯にいたるまで当番制でみんなで文字通り共同生活をしていた。

 

その中でシスター達はやっぱり出身家族の在り方によってだろう、雑事の処理の仕方も異なっていた。物欲なんかはじめから捨ててきているのだから、いまさら所有欲が在る訳は無いのだが、ホンの小さなことで、清貧と言うものをどんな姿勢で受けとめてているかの差は出てくるものである。

 

私は本来の階級はともかくとして、床に落ちた一粒の米を兄弟で争って食べるほどの極貧を体験しているから、3度の食事を毎日あまるほど食べることの出きる修道院の生活なんて、清貧が聞いてあきれらあなんて思っていた。

 

何しろ毎回毎回キャベツの千切りを作っておいて、皆其れを残しては捨てるのである。だったら作らなければいいのにと思うがそういう融通は利かない。物を持たないのが清貧で無駄にしないのが清貧だとは思っていない。

 

後片付けの当番が私に回ってきたとき、私は残ったキャベツを捨てなかった。皿に一斉に残されたキャベツを集めて、其の中に生姜と昆布を刻んで放り込み、塩でもんで一晩おいた。次ぎの朝知らん顔をしてみんなに其れを出したら、おいしいおいしいと言って全部平らげた。

 

ニヤニヤしながら種明かしをしたら、公立出身のシスターが、「なんだ、あなたって大家の出身だと思ったら、プロレタリアートだったの!」とか言って、すごくそのときは尊敬してくれた。其れで皆、「なんだ、そんなことしていいの!」と言って、八百屋に行って八百屋が捨てたキャベツの外皮を拾ってきて、其れを浅漬けにしてみんなに提供したりする者も出てきたから、ごみとしてポリバケツに入れるものは無くなってしまった。

 

古いシスター達はあきれていた。だいたいがミッション出身のお嬢様だったから、ものを所有しないことだけで、もう大変な犠牲だったのだろう。生活に工夫と言うものが無かった。其れはもうひとつの体験から、図らずもわかってしまったのである。

 

修練院の裏側に子沢山の家族がいた。新しい修練院がなくて、修道院が大学だけに直結していた時代から、その家族とシスター達は何らかのつながりを持っていて、修道院の食べ物の残り物をその家族のもとに持っていくという習慣が在ったらしい。その習慣が新しく建った修練院のシスター達に引き継がれていた。これもやっぱり当番制で、残り物を裏のうちまで持っていくのである。

 

私はその持って行き方にいつもいつも心を痛めていた。何しろひとつのボールにご飯も、魚も野菜も全部一緒に放り込んで、持っていくのである。

 

私はかつて、お腹がすいていた時に人から物をもらって食べたことの在る経験者である。其のとき子供だった私は、人がどんな態度でものをくれるかをじっと見つめてきたのだ。そして私は人生の初期からそのような人間観察を通して、人間学を学んできた。

 

私は自分に恥をかかせるような文句を言いながら、物を放り投げてくれた者の顔も、そっと物陰に呼んで、だれにも気が付かれないように気を遣って物を暮れた人の顔も、其のときのせりふも一生涯覚えている。生々しい屈辱感も、心に染みとおるような思いやりも、其れは私の中で現実のまま横たわっている。

 

私が、ボールに一まとめにされた食物を見て、先輩のシスターに「ちょっと其れはひどすぎるんじゃないの?」と言ったとき、彼女は答えて言った。

 

「いいの、いいの、これで喜ぶんだから、子供が7人もいるのよ、皆お腹すいているんだから。」

 

私はその言葉に自分が傷ついた。私は9人兄弟で、3人が死に、父も死んで母と7人で育った。お腹がすいた7人には、7つの心があった。其のことを私は身にしみて知っていた。

 

私の番が回ってきたとき、もう一人のものがわかりそうな仲間のシスターを呼んだ。

 

「この残り物全部つかって、散らし寿司作って持っていきたいのだけれど、手伝って!」

 

卵以外新しいものは何も使わなかった。大きなお皿に二人で一生懸命盛り付けをし、満足して眺めていたら、裾野で修練長をしていた老シスターが入ってきた。そしてそのお寿司を見たとたんに顔を輝かせていった。

 

「まあ、美味しそう、下にもっていくのもったいないから私達で食べましょうよ!!」

 

殴ってやろうかとさえ思った。腹の底から怒りが込み上げた。突然の興奮で声が出ないほどのどが渇いていた。かみつきそうな顔で二人はもと修練長を見た。まがいなりにもこの人が自分の直属の上司だった。この人に従うことがキリストに従うこととされていたのだ。こぶしを握り私はにらみつづけた。

 

無言のその形相に彼女はひるんだ。

 

「う!ああ、いいのよ、いいのよ、もちろん差し上げるのね、きれいね、よくできたわね。」

 

しどろもどろで彼女はごまかし、逃げて行った。

 

マドレの言葉を思い出した。私のために修道院から食物を持ち出しては仲間から清貧の誓願を守れと言われていたマドレが、「自分は清貧の誓願は立てたけれども、けちの誓願は立てた覚えは無い」と言って喧嘩したと言う話しを。

 

あのマドレなら、自分のものを取っておいてでも、貧しい人に上げるだろう。自分が教育の責務を持った見習のシスターが、心をこめて、貧しい家族が喜んでくれるだろうことを楽しみにしながら作ったものを、もったいないから自分のものにしようなどといわないだろう。

 

それにしても、あまりに浅ましい。みっともない。そう思って私はそのことをだれにも言わなかった。少なくとも私達が作った散らし寿司は、あの家族に喜んでもらえた。私達は何も犠牲にしなかったけれども、少なくともあの子供たちは私の顔を屈辱の思いでと共に一生涯記憶すると言うことはないだろう。

 

私の心には課題が残ったけれど、私の過去のマイナスの体験が其のとき、プラスに変わって生きたことを感じた。

 

「苦渋に満ちた人間関係」

 

シスター小山が去ってから、私の心に穴が開いた。

 

私は人を愛した。しかし愛する人は次々と自分の元から消えて行った。いなくなるたびに別の人を愛した。一途に狂おしく愛した。愛において常に私は正直だった。人はそう言う私を幼児の域を脱していないと言ってさげすんだ。正直であることが幼児だというなら、私はかつて大人になったことはなかった。そして私を幼児だとあざけるあの人達は、かつて幼児だったことなど一度も無かった。

 

シスター小山が修道院を去ってから、私の心の空虚を埋めたのは、あの夜私の背中に手を置いたシスター佐富だった。彼女は知能は高い人だったが、豊かに育った所為か、思想的に内容の深い人物ではなかった。彼女は修練女の教育の係りとして選ばれた3人態勢のチームの一人だったが、上に立つものとしての資質を欠いていた。

 

彼女は育ちの良いお嬢様で、素直ではあったが、洞察力に欠けていたので、今在ることに対して必要に応じて変革を試みたり、自分がその環境から培った人種差別やら偏見を、外側から眺めて自己分析したりするタイプではなかった。しかし、その彼女が、私が貧しさの中から培った、洞察力や批判力にうらづけされた豊富な知識や経験を愛した。

 

其のとき私は、意気消沈していた矢先で、ひとの情愛を求めていたから、二人は急速に結びついた。これはまったく不幸な出会いだった。

 

仲間には2人のフィリピン人と2人の韓国人がいた。この4人は年齢は私よりも若くて、過去の歴史を体験しているはずは無かったが、日本の過去に対する反感から、断固として日本語を学ぶことを拒絶していて、絶えず日本人に対する悪意を表明していた。

 

だからこのコミュニテイーの共通原語は英語だったが、お互いに堪能な英語を話せる能力も無く、仲良くしようにも、相手は受け付けなかった。だから常に日本人のグループと外国人のグループは分かれていた。

 

そこに持ってきてなお複雑になったのが、指導者チームの一人であるシスター佐富が私ばかりを異常にかわいがると言う事態であった。指導者チームのもう一人はアメリカ人の学者で、物静かな60を有に越えた老人だった。

 

もう一人は本部暮らしで、居を別にしていたから、一緒に暮らす指導者として一番の責任者はシスター佐富だった。なお不幸なことに、女性の集まりだった修道院の、すでに終生誓願を立てた修道女は過去の教育を受けていたために、正面きって直接意見をいうなり批判をするなりという方法を誰も知らなかった。

 

その批判は、ただ陰口をきく、いやみを言う、嫌がらせをする、無視すると言う態度で私の耳目に伝わってきた。当の責任者である彼女の耳に入れるものは、彼女の教育対象の若い修道女しかいなかった。だから彼女は自分ではほとんど問題を感じることなく、自分の行為を改めることは無かった。

 

思想や信念や宗教を学問的に語るとき、私は其の土台を、学歴から見ても読書量から見ても、かなりしっかりと持っていた。だから彼女はそういう私がひどく気に入って、自分の部屋に呼び寄せ、私一人の意見を聞いてほとんど楽しみ、自分の生活を満足し、夢中になっていた。そして私は、彼女の弱さも間違いも知りながら、同時に危険そのものを知りながら、その彼女の愛情に溺れていった。

 

四面楚歌の中で私は現在に至るまで同じ問題を抱えている。其れは信念は異常に強く、神経がこれまた異常に弱いという二つの相反する苦しみの根源を抱えていると言うことである。

 

私はシスター佐富との異常な関係から、仲間の非難を総身に受けていたが、信念だけにしがみつくかのごとく、高校の授業に打ち込んだ。大学の図書館にひまさえあれば入り浸って、教科書に出てくる内容の原本を探し、其れをまた掘り下げて授業に臨んだから、生徒はかなり熱心に身を乗り出して聞いてくれた。

 

以前に私が授業放棄した学校の生徒より相手は皆かなりレベルが高かった。調べてきたものを傍らにおいて確認しながら授業をする先生なんて今まで見たことが無いと、彼女達は言ったが、其れは非難ではなく、すごい先生が来たと喜んでくれているようだった。

 

何しろ私は、教科書にはたったひとつの文章しか書かれていないものの説明のため、教授資料では飽き足らず、原典にあたると、もう高校教科書レベルから逸脱しなければ気が済まなかった。其れに自分の体験を加えるから多分面白かったのだろう。

 

しかし私の身分は、ただの見習い修道女だった。学校では「講師」と言う身分で、授業時間にだけ出ていればよかったのだけれど、不穏な空気を逃れるために私は時間をごまかして8時から学校に行って授業の準備をしていた。帰りもやはりいられるだけいたのだが、何しろ同じ会の学校で、職員室には先輩の修道女もいたから「見習」がこんなに長い時間を与えられるのはおかしいと気づいたシスターからどうも上司に密告をされたらしい。

 

その結果、まずいことに直属の上司、シスター佐富が私を迎えに来るようになった。そして彼女は絶対に私を側から離さなかった。事は彼女の指導者としての与えられた権威の中で行われるのだから、彼女に対しては他人は口を挟まないし、私にとって状況は不利な方向へ不利な方向へと流れて行った。

 

私の心には相反する二つの思いが葛藤していた。愛されることの喜びと、授業だけは生徒の期待にこたえた授業を続けなければならないとい言う強い使命感だった。

 

私は苦しんだ。なぜなら私が尊敬もし、愛情も持っていた仲間達までが私をさげすみ、私の相手をしなくなったから。彼女達は其れまで一定の尊敬をはらってくれた私の信仰や信念にかかわる意見に対してまでそっぽを向くようになった。

 

私は以前から生理のときに2日も寝て暮らすほどの激痛に苦しんでいた。ところで、この怪しげな人間関係の中のストレスのため、其れは我慢して立っていられないほどの極端な激痛となって襲ってきた。私はこの激痛を感じたときものも言わず自室に帰ってベッドにへたり込み、ベッドの縁のパイプを力の限り握り締めて、声を出さないように耐えた。

 

健康な人の想像をはるかに絶して拷問のような苦痛だった。私が下のホールから顔をゆがめて消えたのを怪しんだ先輩、この人は私を以前かわいがってくれた、この会への入会に一役買った例のハカセなのだけれど、が、私を追って険しい顔をして入ってきて、言った。

 

「不愉快な顔しているくらいなら人前に顔を出すな。病気だからと言って人の世話を受けると期待するな。コミュニテイーに参加をする気が無いのならさっさとここから出て行くべきだ。」

 

不測の生理に苦しんでいると、なぜ退会しなければならないのか、訳が分からなかったけれどとにかく彼女は私を非難した。私はだれかに何かを期待しているなんて言った覚えも無かった。苦痛を誰にも言わなかった。だから、私が会議の途中で顔をしかめて自室に帰ったことを、シスター佐富に甘えるため演技をしているのだろうと彼女は思っているらしかった。

 

私は脂汗を流しながら声を出すまいと耐えていたのだ。答えられるわけは無かった。彼女は、共同生活を営むようになってから、私に対する態度を180度変えた。

 

それを見て、私は、人が苦しんでいるときにもっと悼めつける、これがキリストの愛に奉献するとか言っている修道院の修練なのだなと思った。外にいる他人を愛するとか言っているが、最も身近にいる仲間の苦しみには、思いやりも示さない。またはこれが彼女達の言う愛の実態なんだ。そう。病気だったから、病的な解釈をする以外になかった。

 

シスター小山が出て行く前の晩、彼女は一人の先輩に個室に呼ばれてかなりいじめられていた。そして聖堂の中で一人で泣いていた姿を私は思い出した。其のとき彼女が私の机に書き残した、「聖堂にいます」と言う書置きを私は彼女の形見として今まで日記帳の間にはさんで持っている。

 

彼女をいじめまくったシスターはもちろん私にもつらくあたった。皮肉やいやみの数々を浴びせつづけてきた。私には逃げ込む砦が在ったけれど、シスター小山には何も無かった。と言うより、四面楚歌の中で、心理的に追い詰められ、自爆したが、私は動物の自然として、そこにいた都合のいい保護者に保護を求めたのだ。

 

仲間同士、公然と愛し合うことをお互いにしていたら、こんなに病的な異常な愛を生まなくて済んだだろう。

 

シスター佐富の私に対する執着の異常さは日を負って常軌を逸するほどになってきた。彼女は自分の部屋に私を呼んで離さなかった。しかも其れが私のほうから来ているかのごとく仕組んでいた。そして私が授業の予習を理由に帰ろうとすると、指導者の「権威」を持ち出して私を返さなかった。

 

聖堂に入ると彼女が探し出して隣に座った。先輩の中にオーストラリア人がいて、私の部屋の隣の部屋にいたため、その人だけは何が起きているのかをじっと観察して、事情を察していた。私は時々教科書とノートを持って彼女のところに避難した。所が其れもシスター佐富が見つけ出し、「この人は修練中の身だからやたらに個室に呼んではいけません。」とかいって、シスターオーストラリアに私を自分の個室を提供することを禁じた。

 

私が図書館に行くとやがて彼女は私を探し出して修練院に帰ることを要求した。

 

ついに私は図書館そのものに行かずに、図書館の裏の誰も来ないところにわずかなくぼみを見つけてもぐりこみ、授業の下見をした。

 

ところが、探しに探してそこにも彼女はやってきた。「逃げちゃだめ!あなたは私なしには生きられないの!」と彼女はつぶやいた。この異常なせりふに私はとうとうこれは、振り切らねば自滅する事態だ、と感じた。