「自伝及び中米内戦体験記」9月8日

 

(ここに記述の固有名詞は、実名を控えております。「私の」体験記なので、虚構と思ってくださると幸いです。)

 

「小中高一貫校KM学園に私は教師として着任した。」

 

「高一の担任となる」

 

其の学校は東京の郊外の緑の中にあった。M財閥の一族の一人が趣味として作った学校である。失礼だと言われるかもしれないけど,理事長をやっていたわがまま坊ちゃんみたいな其のM氏の人となりを見れば,どうしたって真面目な理念を持って学校作ったとは思えなかった。

 

(もう鬼籍に入った御仁だけど、ここではM財閥のM氏にしておく。)

 

其の学校、KM学園は一応キリスト教主義を掲げている。しかし超宗派なのだそうだ。でも、当然そこには主流派と支流派と言うのが在って、もともと主張があって他の主張を許さないゆえに宗派が分かれている以上、本気で誰でも受け入れているわけは無い。

 

其の学校で、私はたった一人カトリックだったから、もちろんマイノリテイーだった。私は生れ落ちてから現在に至るまで、マイノリテイー所属専門だったから其の身分になれてはいたが、たしかに居心地はよいとは言えなかった。

 

しかし創立者の理事長さんは英国国教会で、彼が国外にいた頃任せた別の派のキリスト教派が主流になり、帰国して理事長に戻ってから、彼自身自分の派は自分しかおらず、理事長自らマイノリテイーだった。

 

一人の先生が、私がカトリックと聞いたとたんにお前の宗教はキリスト教じゃなくて、マリア教だろうと意地悪そうに軽蔑のまなざしを向けて来た。カトリックと言っても、私が育った教会はドイツ系だったから、スペイン系ほどマリア崇拝を表面に出していなかったけれど、スペイン一周をしてきた後では、カトリックがマリア崇拝教(または崇拝狂)といわれる理由もよくわかる。

 

しかし、そういう挨拶は、しょっぱなから面倒だ。真っ向からの対立を避けて、こちらは駄洒落で身を交わす。あぶない、あぶない!

 

朝は礼拝から始まる。お前はマリア教だろうと言ってきた男が司式している。牧師さんかと聞いたら、牧師じゃない、宣教師だと言う。どう違うのかわからない。プロテスタントのどの派か聞いたら、自分はプロテスタントじゃないと言う。

 

あ、そう。なんでもいいや、イエス様って一人でしょ?

 

カトリックではカトリック以外の宗派を全部「プロテスタント」と言っている。しかし其の宗派は、カトリックじゃなくて、プロテスタントじゃなくて、ルーテルもカルヴィンも福音教会も、バプテイストも関係無くて、私の知識の範疇に無いアメリカ生まれの派らしいけど何が何だかわからない。面倒だから触れない事にした。

 

おかげで今にいたるまで、其の学校主流の宗派名を知らない。

 

職員室は小中高の先生が全部同じ部屋で机を並べている。1学年1クラスの小さな学校である。礼拝のあとに朝の職員会議が在って、これも祈りから始まる。祈りを先導する人は主流派である。主流派にしかやらせないし、毎日人が変わるから、誰が主流派か分かる。おぼえておかなきゃ。

 

職員室で隣り合わせになった英語の先生によると、昔は担任を持たせてくれるのは主流派だけだったそうだ。ましてやマリア教が担任になれるはずは無かった。ところが創立以後数年たって国外にいった理事長に任されていた宣教師のアメリカ人が亡くなって、其の後理事長が戻ってきてから、自分と宗派の違う主流派を煙たがって、「超宗派」をことさらに強調し出したんだそうだ。

 

入ったばかりで、しかもマリア教の私が高一の担任に任命されたと言う事は、M理事長の策略らしい。何だか妙な紛争の中に私は入ってきてしまったようだった。そう言えば彼はわたしの採用を決めてから、私を江ノ島の自宅に呼んで、マイノリテイー同士結びつきたいような事を言っていたっけ。

 

私は気持ち悪かったから、彼の自宅から一望できる江ノ島の景色なんかを褒めちぎりながら、話をまるで違う方向に持っていくことに成功したんだ。あぶない、あぶない!

 

担任を任された高一のクラスは29人。男女半々ぐらいのクラスである。その昔理事長が国外から戻った自分の子供たちを引き受ける学校が無かったので、面倒だから自分で作っちゃったという学校だったから、日本国を出入りする親を持つ子弟の為に寮を併設していた。通学生と寮生がまた半々ぐらいのクラスである。

 

しかし理事長がいない間に、寮生が寮生になる理由が変貌し、行き場を失った離婚家庭の子や、受験に失敗して他県から流れてきている子など、さまざまな問題を抱えた生徒が寮を占めていた。

 

そういう事情を聞いて、いろんな意味で、自分向きの良いクラスを持ったなあとそのときの私は思った。

 

問題の少ない女子高で、しかも、すでに家庭で申し分無い教育を受けている子女ばかり見てきた私は、ここでマリア教を軽蔑されながら、どのくらいの仕事ができるか分からなかったけど、とにかく自分の城が与えられた事に満足だった。

 

よいクラスだ。やりがいのあるクラスだ。緑に覆われた小さな学校の職員室で、30歳の私ははじめて自分の場を持ったことを意識し、ここでできるすべてのことをやってやろうと心に決めたのだった。

 

「試行錯誤の中で教壇に立つ」

 

私は其の頃まで、男子生徒を教えた事はホンの数人しかなかった。ましてや小人数とはいえ、12人の男子生徒いっぺんに教える事ははじめてであった。

 

男なら家庭の中にごろごろいた。むしろその事によって男を敬遠していた。強圧的で凶暴で支配欲が強くて女の私の存在を常に疎ましく思っているという印象を、男に対して持ったのは家庭での体験からだったから、12人の自分より年下の男子とどう付き合うかを考えると、かなり困惑状態だった。

 

おまけに其のクラスは、今卒業してきたばかりの中3時代の担任を慕っていた。其の担任はお寺の住職で、男子の扱いは心得ていたし、自由な考えを持っていたから、生徒が望めばクラスを越境して生徒の相談に乗っていた。

 

其れで、クラスの男の子達は私が女性でお嬢様学校から来たと言ううわさに、はじめから馬鹿にしてかかってきた。授業中斜めに座っていて、全然前なんか見ていない。

 

声をかけるとしら~~っとした顔でろくすっぽ返事もしない。

 

おまけに女の子達はこれも初体験だったが、男子生徒の影に隠れていて、主体性が何も無いように見えた。クラスを引っ張るのは常に男子で、役員も、女子は書紀だの副なんとかだので、決して主になろうとはしないし、自己主張をしない。呼べば文字通り男子の後ろに半分隠れていたりする。

 

びっくりした。元気ではきはきしていた昔教えた女の子達を思い浮かべ、女性は男の前ではこんな風になっちまうのかと思って当惑した。

 

職員室で隣に座っている英語の中野先生にちょっと聞いてみた。「クラスの女子は一言も音声発しないし、男子は皆斜めに座って前を向かない。これどう扱えば良いんでしょうね。」 彼は親切な男だった。学校の事情、子供たちの事情、いろいろな対処の仕方、校長の姿勢など、知っておいたほうがいい事をいろいろと教えてくれた。

 

偏差値の一定した学校ではないから、クラスによって男女の能力の差が激しい事、あるクラスは私のクラスの逆で、女子の平均偏差値が60台、男子の平均偏差値が30台なんて言うところもあって、そういうクラスは主導権も完全に女子が握っているとか。私が担任となった高1のクラスはまだ其の差が少ない方だけど、女子は男子の後ろに隠れている。

 

あなたが当惑している現象は、其のため起きている現象で、あのクラスのことは元担任の芝先生に聞くと良いよ。

 

芝先生とは、仏教徒で何処かの住職をしている数学の先生だった。そうか、じゃあ、相談してみよう。派閥のめんどくさいキリスト教の学校の中の仏教のお坊さんなら、私の立場と似ている。

 

私は其の芝先生に近づくために通勤方法を変えた。立川から混んだバスを使わず青梅線拝島駅まで行き、其れから15分歩いて学校に行くことにしたのである。混んだバスの中では知り合いに会っても口も聞くこともできなかったが、通勤方法を変えたことによっていろんな事が見えてきた。

 

まず其の徒歩通勤の15分間、同じ方面から歩いて通う通学生と話しができる。通勤するほかの先生と話しが出きる。其の15分間がどんなに貴重な時間だったろう。

 

私は芝住職から生徒のいろいろな事情を聞き出し、副産物として、生徒は自分たちが慕っている芝先生と私が仲良く話している姿を見て、私にも少し親しみを感じてくれるようになった。

 

協力者を増やそうと私は思った。いろいろな種類の人と話すために、私は時々通勤時間を変えた。大体人は自分の時間を決めているから、時間によって別の人と話しが出きる。隣でよく親切にしてくれる英語の中野先生とも、後によく喧嘩をした社会科の先生とも、体育の先生とも親しくなった。まあ、親しくなったというより、口が利けるようになったんだけどね。

 

なによりも自分のクラスの生徒たちと学校に着く前に話しが出きる時間を持ったことは、大きな収穫だった。

 

私は新しい職場で、かなり用心しながら、自分の足場を整えるための方法を模索した。良い仲間がいる。いそぐまい。あせるまい。先に常識で身を固め、一生を掛けて正義と愛を実現せよ、と私を諭したシスター広瀬の言葉を心に抱いて生きようと思った。

 

「他の学年の生徒たち」

 

はじめの頃私は中学1年から高校3年までの国語をほとんど持たされた。いろいろなクラスを教えているうち、自分が担任として任されたクラスは、他のクラスと比べて、一番問題が少ないクラスらしいということが分かってきた。能力差があまり無い。特に面倒な問題を持った子がいない。

 

中学のあるクラスに行った。あまりなにも気にしないで、一所懸命教えていた。テストを何回かした。一人の生徒がどのテストも10点以下だった。際立って低い点だったが、書いた文字は丁寧だった。なんだか気になる子だったので、其の子の答案を担任のところに持っていって、詳しい事情を聞こうと思った。

 

ちらと其の答案を見た担任がへらへら笑っていった。

 

「ああ、その子は良いのよ。ほっといて。もうどうしようもないんだから。考えるだけ無駄よ。いいのよ、もう。」

 

見たところ私より若そうな其の女性の担任は、手でうるさそうに其の答案用紙を払うようにして、私に一言も話しをさせなかった。私はじっと其の担任を見て、とにかく一度この子を個人指導させてくれるよう許可を取った。心に噴出しそうな憤りがあった。

 

個人的に其の子を呼んだ。彼女は小児麻痺だった。片足が後ろを向いていた。和子という。なんとか、和子の問題を付きとめようと思った。文字は書ける。しかも熱心だ。もともと能力の備わったほかのどんな子より、彼女の目は私の視線にまっすぐ答えていた。

 

この子は行けるぞ、大丈夫だ。と、私は思った。

 

教科書の中のやさしい漢字を10題ずつ、目の前で練習させた。文章の内容を彼女の言葉で解説した。和子のためだけの宿題を出した。足を引きずって彼女は毎日其の宿題を持ってきた。

 

クラスにテストの問題を作るとき、漢字の読み書き、意味の解釈、文の理解力、すべてにわたって均等に、誰でも少なくとも30点は取れるような問題を工夫した。和子が20点取れるかなと心配しながら其の結果を待った。

 

ところが彼女は、私の出したテストで63点を取った。平均点が50点前後だったから、問題の配分に偏りがあったとは思えない。其の結果に私はほとんど驚愕した。和子にとって人生初めての63点だった。今まで誰も本気で和子の面倒を見なかっただけなのだ!と私はその時思った。教え始めて1ヶ月目、和子の、ほとんど解答が書かれていない答案用紙を手で払ったあの担任にこれを見せて、一泡吹かせてやろう私は思った。

 

以後、彼女は30点以上は取りつづけたから、其の結果と、クラスの平均点を持って、黙って、クラス担任に見せた。

 

「えええええええええええええええええ!?どうしてそんな事が起きるの?」と彼女は言い、私がまるで不正をしたかの様に疑った。

 

私は其の担任が教えている教科の英語をひそかに和子に教えてやりたい誘惑を感じた。越権行為だ。私が18歳になってからずっと本職にして来たと言っても良いくらいの落ちこぼれ引っ張りあげ業務。自信はあった。

 

しかし私は思いとどまった。多分あの担任なら、自分の疑いを和子のほうに向けるだろう。と思ったから。始まったばかりで特定の人と緊張関係を作るのはよくない。シスター広瀬の戒めを思い出した。和子がずっと学校にいる限り、いつか私の役目が提示されるだろう。時と所と方法を。そうだ。待て。

 

其の時代KM学園は、とにかくどんな子供も受け入れる事は受け入れる面白い学校だった。この学校で私がであった子供たちほど、私の生涯にとって強烈な印象を残した子供たちは他に無かったといえるほどに。

 

また、別のクラスの生徒の話し。これは男の子で、うわさによると変人だった。考古学が好きで、学校が建てられていた地域はもともと歴史のある大家の広い庭園だったから、学校中の何処でもかしこでも穴を掘ると、いろいろ化石や土器などが出てきた。

 

彼は出てくるものを五感のすべてで確かめた。においをかぎ、かじって確かめ、なめて触っていつまでも眺めていた。だから、「変人」といわれていた。

 

おもしろいやつ!と私は思った。興味をもって彼をみていた。

 

彼が提出した作文を見た。珍しい文字が書かれていた。彼は生まれて出会って、興味を持った文字を、自分の書き方で書いて覚えたとしか思われない書き方で書いたから、判読が困難だった。私には読めない文字を、私の前で書かせてみた。

 

そうしたら、「を」と言うひらがな文字を下から書いていく。ひょろひょろと上って最後に横棒を書いておしまい。

 

ほう!面白かった。こういう書き方を自分の力で編み出したんだ。

 

確かに変な奴だけど、彼が気に入った。彼も私を、「相手にできるやつ」と思ったらしい。

 

それから、彼の作文を改めてみた。でたらめといううわさの作文だった。ところが彼の作文は、多分中学校の先生の知識の枠を超えた、きわめて高度な哲学書を読んだに違いないと思われる文章がならんでいた。お?と思った。

 

彼が読んだ哲学書と思われる本がなんなのか、彼に直接聞きただした。

 

リグ・ヴェーダとバカバットギーターを読みました」、と彼は答えた。インドの古代の哲学書だ。私は自分の書庫にあるバカバットギーターの抜粋だけでは足りなくて、本屋に行って彼の読んだ本の全文を買って、徹夜で読んだ。

 

私は彼が変人でもでたらめでもないことを知った。それどころか、彼は優れた「哲学者」だった。

 

彼が朱を入れられる事を嫌ったので、私は彼の文をすべて其のままにして手をつけず、別の紙に書評を書いた。彼は其の後、私が彼のクラスの国語の担当から外れたあとも、作文だけは担当の先生に見せず、隠れて私に持ってきた。彼は引き続き学校中の地面に穴を掘り、出てきたものをなめつづけ、皆に馬鹿扱いにされ続けていた。彼の名を尚詩という。

 

「とうとう切れた」

 

気になる生徒がもう一人いた。中3の女の子だった。極めて暗い表情だ。どんなときも、笑顔がまったく無い。というより、何が起きても、反応が見られない。クラスに友達もいないらしい。授業に対する反応も無いし、教科書も出していない。 

 

河野先生が担任で、実は私は彼とうまく行かなかった。それで、気軽に相談ができるような雰囲気ではないので、彼女の日ごろの事情は分からなかった。

 

一度だけ彼女の母親と思われる人が、ちょっと普通と思われないような髪振り乱した姿でやってきて、授業をしている私に挨拶もせず、その子を廊下に呼び出し、弁当を渡したとき、彼女の家庭の状況をかいまみたような気がした。

 

母親が彼女を呼び出したとき、クラスの他の生徒達は、「またか!いつものことだわ!」みたいな顔つきで、チラッと其の親子を見た。其の彼らの表情が、また独特の意味を感じさせるような表情だった。彼女は親子とも皆にあきれられ、見放されている。なにがおきても、すでに仲間意識を持たれていない・・・と感じさせられるような、雰囲気であった。

 

気になる子だな・・・と思ったので、例のごとく隣の中野先生に様子を聞いた。「う~ん」と彼は唸り、ちょっと遠慮しいしい、口ごもりながら、やはり独特な表情を見せていった。

 

「彼女は父親をすごく憎んでいる。」そして彼はそれ以上なにも言わず、斜めに私を見てから、話題をそらした。

 

「ん?そうか!」と、その表情を見た私は半分納得して考えた。

 

多分やす子は家庭内暴力を受けている。多分、性的虐待を受けている。中野先生の表情から、私の神経がそう悟った。こう言う問題は繊細である。忍耐と神経が必要だ。自分の出番があるかもしれない・・・心の中にある思いが沈殿して行った。

 

或る時、やす子のいる中3のクラスで、国語の授業をしていた。そこにそのクラスの任が険しい顔つきでつかつかと入ってきた。授業している私に一言の挨拶も無く、いきなりやす子を呼びだした。彼女が答えるよりも前に彼はやす子の胸倉をつかみ、廊下に引きずり出してひっぱたいた。ものも言わず足蹴にし、其れから廊下に座らせ、バツとして正座してろと叫んで、そのまま職員室に帰った。

 

理由も何も私にはわからない。声も立てず、私が呆然としているのを見て他の生徒が言った。

 

「いつものことですよ。河野先生は毎日ああやってやす子を殴っています。」

 

これは私の授業だ、いくら担任であろうと、どんな理由であろうと、そんな事は許されない。

 

私はそのとき完全に切れた。やす子を私の責任において元に戻し、授業を終らせてから職員室に戻った私は、さっき生徒に暴力を振るった河野先生に抗議をした。

 

「やす子が何をしたのかしりません。しかし、この際、何をしたかが問題ではありません。

 

まずひとつ。私が一つの授業を任された以上、其の時間は私の時間です。そこに出席している生徒に用事が在るなら、私に断ってしかるべきです。

 

それからもうひとつ。問題を抱えた生徒を、理由もいわず、質問もせず、有無を言わせずいきなり殴ったりけったりするとは何事ですか。あんな扱いは、彼女にどんな問題があったとしても間違っています。」

 

河野先生は応戦してきた。自分には担任としても権利があると、私に向かって、険しい顔で怒鳴りつけた。彼と私の席は離れていた。職員室の端から端にかけて大声で言い争いをしたから、その内容は小中高教職員全員が聞いていた。

 

殴った原因は、彼女が彼の出した宿題を一度も提出しないと言う事だった。何を言っても言う事を聞かず、反抗的だから、もう我慢も限界だと言う。

 

私は食い下がった。「其れならなぜ、その事情を授業をしている私に一言も言わず、宿題をしない原因を突き止めて対処を考えず、なんの断りもなく生徒を引っ張り出してあのような行動を取るのですか。」

 

彼は言う。「一人の生徒の教育と指導のためやっている事だ。担任がやっている事に協力してもらわなければ困る。」

 

「そういうことに、私は協力をするつもりはありません。いきなり私が授業している最中のクラスに入ってきて、一人の生徒の胸倉つかんで廊下で殴ったりけったりする事は、この学校が掲げるキリスト教主義の教育の理念からまったく外れているではありませんか。教育の理念から外れていることに、私は協力する気は私にはありません。

 

あのような事をやって一体あの生徒から何を期待できるのですか。衆人環視の前で屈辱を与えて、反抗的にならない人間がいるのですか。ましてやあの子の抱える問題が、解決するとでも思っていらっしゃるのですか。」

 

そのとき、キリスト教主義と言う言葉に敏感に反応して介入して来た男がいた。私の「マリア教」をあざけった宣教師、折部先生である。私に対する皮肉を交え、キリスト教の演説をはじめた。

 

「折部先生!」と私は介入して来た宣教師に向かって吼えた。

 

「今私は一人の生徒の教育のあり方について話しているのです。彼女は先生と私の共通の生徒です。一人の生徒の魂が助けられるかどうかと言うときに、我々が自分の面子で宗派争いなんかしていても良いのですか!

 

宗教改革から何世紀、西洋の国内事情や国際関係の中で起きた宗教的争いに、日本の布教地の私がどんな責任を問われなければ行けないのですか!

 

キリスト教主義を掲げるからには、キリストはどの宗派にとっても一人じゃありませんか。其のキリストはなんておっしゃいましたか!?

 

自分の名前で集まる人々の中に私はいると、おっしゃったのではなかったのですか!」

 

怒っていたけれども、私はこの言葉が必ずこの宣教師に通じるはずだと思っていた。そしてこの言葉は本当に彼の心を動かした。彼の顔面から皮肉がうせ、柔和にさえ見えた。突然、彼は河野先生に食いつく私の抗議にバックアップする方向に出た。学校の精神を支える宣教師の介入に、河野先生は折れた。

 

以後、折部先生は私と協力関係を維持しつづけ、二人とも宗教間の派閥論争を極力避け、生徒の教育に関して、よく連絡を取り合って、情報も共有するようになった。

 

そのとき問題になった生徒は高校入学を許可されなかったため、一度も私の管轄下に入らなかった。彼女が中学卒業のとき、私が声を掛けたら、なんとも言えないにがい顔をして、其れでも白い歯を見せ、しわっと笑った。

 

永遠の闇を知っている人間が初めてみせた一瞬の笑顔だった。私は昔自分を救ってくれた人々のような力をまだもっていないのを感じた。しかし私は確実に自分の使命を生き始めていると感じていた。

 

「高校演劇部の顧問となる」

 

私の前任者の国語の先生の好みで、その高校は文芸部が無くて演劇部があった。私は文章書きが趣味だったから、自分としては文芸部を作って同人誌など作りたいと思っていたが、演劇がは存在し、生徒がいる限り解散できないので、私がその顧問をおおせつかった。

 

それは私がまったく知らない分野だった。

 

教師仲間から「何にも知らなくたって、生徒に任せておけば良いんだよ」とか、いかにもいい加減なことを言われて、演劇部の集会に初めて出ていった。

 

所属の生徒は、実は顧問が無知なのを幸いに、遊んでいた。顧問なんかいたっていなくたってどうでも良い有様だった。

 

高3の生徒に、演劇部とは何する所だと聞いたら、「ただ毎週集まってなんとなくおしゃべりして、文化祭のときだけ、なんか発表するつもりです」と言っていた。「今までの顧問の先生は何をしていたのか」と聞いたら、生徒が練習をはじめるといろいろ振り付けや動作の指導をしてくれたそうだ。

 

「その振り付けや動作はその先生の趣味か」と聞いたら、何か其れが書かれてある本があるらしいとの情報をくれた。

 

あ、そう・・・。それで本屋に演劇の本を探しに行った。まだ私が余り積極的になっていなかったので、本は買わずに本屋でとりあえず立ち読みした。でもちょっと文学的に興味が沸いたギリシャ悲劇の本だけを買って読むことにした。其れは今まで触れた事の無い世界だったが、面白かった。

 

そのギリシャ悲劇の本を見せて、「文化祭で、これをやろうよ。」と私は生徒に持ちかけた。「ギリシャ悲劇ですかぁ?」高3の生徒はもっとどうでも良いものをやりたがっていた。彼女達は何だかひどく大人っぽい顔をして、つまらないものに興味をしめして来た年下のものを哀れむごとく、私を相手にしなかった。

 

夏休みが終った頃、理事長のM氏が、私を理事長室に呼んだ。彼は私に対して、案外好意を示していたし、ある意味で信用もしてくれていた。「海外帰国子女のための特別な枠を設けて国際学級と言うのを作りたいが、適当な先生を紹介してくれないか」と言う話だった。宗教的マイノリテイーを増やしたいのだな、と私はぴんと来た。

 

私は一人のほうって置いたらもったいない人材を知っていた。私より9歳年上の大学院の先輩で、本来国語教師だったが、修道院のはしごをやって、現在シャバにいて無職の筈である。英語とスペイン語を解し、揺るぎ無い信念の持ち主だが、控えめで、生徒の信望も厚かった。その名は小森先生。なによりも、彼女は先任の高校で演劇部の指導を本格的にしていた。

 

探しに探して、やっと私は彼女の電話番号を付きとめ、話しを持ちかけた。ところが、彼女はそのとき就職したばかりだった。「じゃあ、もう教師はやる気は無いのか」と聞いたら、彼女の答えは、「あるのだけど、たまたまついこの間、知り合いを拝み倒して就職したばかりなのでそこを何とかしなければ」と言う話しだった。

 

ずけずけと私は今付いたばかりの仕事の給料の額を聞いた。其れで、9歳年下の私の額を披露した。彼女は乗った。9月11日、理事長さんは彼女に面接して、その場で採用を決定した。

 

「マリア教」が一人増えた。純粋の、というより、私風の極めて異端的「マリア教」だったけど・・・。

 

まあ、其れはともかくとして、私には一つの悩みがあった。生徒とはうまく何とかやって行けそうなのだけれど、父兄(現代用語では、保護者)に会うと緊張してしまって、参観授業なんか父兄がいるというだけで、足ががくがくして震えだし、しどろもどろになって胃は激痛を起こして何とも情けないのだ。

 

彼女がかつて勤めていた学校で演劇部の指導をしていたのを幸いに、私に舞台の訓練をしてはくれまいか、と持ちかけたのである。演劇部の顧問業務はさることながら、私にはこの切実な問題を何とかしたかった。

 

彼女は高校の演劇部の顧問補佐になってくれた。そして私は毎日放課後、彼女の特訓を受けて、舞台を歩きながら大声を出す練習をした。演劇部「先輩」である高3の生徒や他の先生にサクラになってもらって、やじったりからかったりしてもらい、野次やからかいに耐えてひるまず自分のせりふを言いつづける訓練をした。

 

別に、参観に来た父兄が野次やからかいをやると想定したわけではない。あくまで、人の視線に耐えて演説ができるための心の備えを身に付けることを狙っていた。

 

舞台の上から、観客席をすっかり見渡す練習。観客の目を見て個人に話しかけるように、相手に自分の話しを聞かせる練習。うまく笑い、うまく交わし、うまく手を動かす練習。演技。発声練習。そう、私はその演技の方法を知らなかったため、私の人生は狂ったんだ。

 

私は家に帰っても、小森先生から指導を受けた事を、鏡を相手に練習した。これが後に、自分で演劇部の演劇そのものの指導ができるまでに成長して行った。