naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月10日

新しい世界で 

「職員会議というものも初体験だった」

 

9月。いつもの通り秋が来た。学校は運動会のシーズンだった。職員会議があった。あれよあれよと言ううちに職員会議で決まった事。

 

学校は1ヶ月の授業を丸々つぶして運動会の練習に当てると言う。小学校から高校までその体制で行くと言う。受験をひかえた高3も小学校の運動会準備に付き合せると言う。  

 

こんな事って在るものかなと私は唖然として隣の中野先生事情を聞いた。「これもう伝統だから仕方ないよ」と彼はあきらめきった顔で答えた。

 

「小学校の主張が強すぎて、あらゆる行事は小学校に合わせている。授業がなければ怠けられて都合がいいもんだから高校の先生も何も言わない。こう言う体制がずっと続いてきている。生徒のこと考えている先生なんかいないよ。」

 

へえ・・・そんなものかと私は会議では意見も言わず口を開けてぼんやりしていた。

 

ところがそういう決定を受けて、私が担任をしているクラスの男子生徒が騒ぎ出した。職員会議では確か、1週間だけは普通の体制で授業をすると言う話だったが、体育の先生がいろいろな先生に直接掛け合って、女子だけダンスの練習に駆り出してしまって、男子はなんの補填も無く放置されるため、学校に来ても男子はなすすべも無くぶらぶらさせられていたのだ。

 

私にはそう言う事情を知らされていなかった。私もする事が無いまま自分のクラスもどうせ体育だろうと思って職員室で本を読んでいた。

 

とうとう生徒のうち、真面目なのがひとり職員室にやってきて、「いったいこの高校は、何のための学校なんですか!」と言って抗議をした。「このままこの体制が続くなら僕たちは学校休んで家で勉強します」と。

 

その話しを聞いたほかの先生が、担任の対応がなっていないと言い出した。私は彼らに、「あなたたちの考えは正しい」と言ったから。だって、そりゃ、正しいでしょ?

なんで私の対応がなっていないんだかわからなかった。

 

そこで、私は中高の教頭に話しを持っていき、この問題に関しては高校生の訴えの方が正しいと思うから授業を普通に戻して暮れと申し入れた。反応はなかった。クラスの高校生は真面目な考えでものを言っていた。しかし其れを真面目に取り合うものはいなかった。どうしよう。。。

 

私は考えた。あえて新任の私が職員会議で問題にして、敵を大勢作るよりも、校長に話を持っていこう。校長はこの学校の創立以来、教育に情熱を掛けている正論の通じる男だった。と言うより、会議に時々現れて正論をぶつが、其れが実際にどう実現しているかには、頓着しないタイプのようだった。

 

私は校長に会見を申し込んだ。

 

「職員会議は1ヶ月すべての授業をつぶして運動会の練習に当てると言う決定を下しましたが、其のために女子ばかりがダンスの練習に駆り出されて、高校生の男子はまったく代わりの補填もされず放置されています。男子生徒はまじめな意見を持っており、放置されるぐらいなら、家で勉強したいから、学校を休むと言っています。自分としては彼らの主張が正しいと思います。先生方は、この体制が学校の伝統だといっておられますが、これは本当に動かしがたい伝統なのでしょうか。」

 

狸か馬鹿か知らないけれども、校長はその学校の「伝統」になっている体制を知らなかったと言った。

 

「よくわかりました。善処します。」の、一てんばりで彼は私の話を聞いた。彼はその場で中学の教頭を呼んだ。教頭は一級の狸で、私が彼女に直接話したときには見せなかった教育の情熱を突然身にまとって校長に合わせた。

 

とにかく、狸だろうと、狐だろうと、この二人が学校を牛耳っている。さて何をどう善処するのか見物だわい。二人の会話を傍らで聞いていてそう思った。

 

次の朝校長は朝の会で通達を出した。「安易に授業を体育に切り替えない様自粛せよ」というものである。会議を通さず、校長じきじきの通達だった。つまり命令である。「え?」と当の体育の先生が驚いた。しかし、彼女はどうせ通達は形式のみでいままで通り、なあなあでことは進むものと思っていた。

 

昼、急遽職員会議が召集された。校長が出席し、中学の教頭が口火を切った。

 

その教頭、おったまげたことに、いままでおくびにもださなかった「高邁なる教育の理念」をもちだし、「次ぎの週の授業は時間割どおり全面的に守る事、練習は体育の時間に限る事、運動会は生徒の能力範囲で行うべき事、高校生には高校生のすべき事があるのだから小学校はむやみに高校に口を出して高校の授業まで削らない事。」

 

全て、私が言った提案どおりだ・・・

 

中学の教頭は、「これは学校長命令」だと、高飛車に言い渡した。

 

中野先生の話では、それらのことは分かりきった上でなされていた伝統的な運動会優先行事のはずだった。それが急に「教育の理念」が出てきて、突然崩された。周知の事実がひっくり返されて、呆然としてしまったのか、誰も発言しなかった。

 

この急展開に職員室は険悪な雰囲気に包まれた。中学の教頭は突然、全ては体育の先生が悪いみたいに、彼女を責めた。体育の先生は泣き出した。呆然としちゃって、私も発言はしなかった。自分の言葉が、こんな穏やかではない結果を招くとは考えもしなかった。相当の反撃があるものと、私は思っていたのである。

 

なぜこういうことになったかを知っているのは校長と中学の狸教頭と(驚いた事に高校の教頭は蚊帳の外だった)、私の隣にいて、私の考えを知っていたために、およその察しをつけた中野先生だけだった。

 

「さすがあ、やったね!」と彼は私にニヤニヤして見せた。

 

「なにをやったのさ!」私は、そのあと何が起きるか怖くて其れどころではなかった。

 

私は就職したばかりで、その頃まだ、職員会議のなかで正当に議論をして自分の意見を言えるほど強くは無かった。裏に回って校長の「教育理念」を利用すると言うある意味では姑息な手段を介してしか自分の主張をできなかった。

 

そのため校長側は、私が自分たちの側にいると思ってしまった。しかし私は常にどんな「側」にも居ない人間だった。

 

「生徒と議論した」

 

高校の現代国語で、私は良く生徒と議論をした。テストはその頃ガリ版から始まって輪転機に移る転換期で、既成のテストなど無いから、自分でいつも作っていた。1クラスの人数は少ないし、私はマルバツ方式の回答形式を嫌って、記述式の問題を多くだした。

 

現代国語だから当然解答の種類は生徒の数だけ出たので、その手当てに時間を掛けたのである。高校生ともなれば、人生経験も豊かだ。KM学園は創立の初めから海外経験をしている生徒も多い。いくら若くても人生経験があるから、彼らの言う事にはいつも一理在った。

 

しかしテストはテストなんだから、すべての意見を正解と判定する事はできない。特に、論説文の「作者の主張は何処にあるか」等と言う問題では、解答は読者ではなく、作者の方に批准を置いて書かなければならない。其れを納得させるのが難しかった。

 

彼らは自分の意見を主張して譲らず、回答は沢山あるはずだといって喧嘩になった。

 

「先生は作者でも無いのに、自分たちに同じ解答を押し付ける。」と言って効かない。私が雰囲気から判断して自由思想を持つ教師だと思っていたのに、結局は自分たちの自由を束縛するんだなんて言って、「解釈の自由」を主張して譲らない。「教育とはもともと自由を束縛する事さ」と言って私は応戦する。しかし、テストとなると点を取りたいから、彼らは何とかして私の意見を曲げさせようとする。

 

とうとう私は一策を練った。学生時代に同人誌に発表した自作の短編を使ってテストをしたのである。作者名は当時私が冗談半分に名乗っていた「葦浦」(あしのうら)と書いて知らん顔をしていた。生徒は、「あしのうら」と読むとは知らず、もちろん私が作者である事も知らない。

 

「作者の意図は何か、20字以内で表せ。」

 

いつものように、沢山の解答があって、いつものように議論になった。いつものように、彼らは現国のテストのこういう問題の解答は沢山あって良いのだと主張する。こう言う理由で作者の意図はここにあると私は説明する。先生は作者でもないくせに、僕達に一つの解答を押し付けると彼らは言う。ふふふ^^。うまくいった!お膳立てどおりにことは展開した。

 

「これの作者は私よ。学生時代に同人誌に発表した私の短編だ。」そう言って私はその同人誌、ガリ版ずりのみすぼらしい冊子を見せた。彼らは一瞬沈黙した。

 

そして突然大喝采。「わああああああ、負けたあ!!」

 

中学生がそのうわさを聞いた。「せんせぇぇぇぇぃ。」と彼らの授業に出たら一人の生徒が手を上げた。「私達にも小説作ってください。」

 

どうも、話はそう言う風に伝わったらしい。私が、別に小説を作ってあげたのじゃなくて、あれはたまたまああ言う展開になったのだ、と説明しても、歳若い彼らはそんな事かまわず、小説小説とせがんでくる。

 

しようがないなあ。中学は中学の教頭の管轄だから、高校所属の私には、あまり勝手な事できないという頭があった。例の中学狸教頭は国語の教師だったのだ。其れで私はテストと言う形でなく、彼らに自分の中学時代の思い出を基にやっぱり学生時代の同人誌に発表した短編を授業以外の形で見せた。

 

ところがそれを、彼らは自分たちで勝手に脚色して、文化祭の劇に使った。私は其の事を其れがはじまるまで知らされていなかったから、突然それを見せられて、ありゃりゃりゃあと照れちまって逃げまくった。後で、理事長が、あれは何にも面白くなかったねえと言ってくれたから、顔から火の出る思いだった。

 

「不良教師との出会い」

 

一人の講師がいた。書道を受け持っている。若い(そう見えた)まるでで女学生みたいな可愛い先生である。腰のあたりまでまっすぐな髪を伸ばしていた。いつもニコニコちゃらちゃらしている。

 

はじめて彼女とであったとき、彼女は私を見て、「きゃあ!美人!仲良くしよっ」とかいって握手を求めてきた。

 

「へんなやつ!」と内心思った。初対面でこう言う変な態度を取る人間は初めてだった。その子供みたいな教師が、変に私を気に入ったらしい。自宅に私を招待した。彼女の名前はY子。その夫はサー助。二人はそう呼び合っていて、後になって生まれた子供も父ちゃん母ちゃんと呼ばないで、Y子、サ-助と両親の事を呼んでいた。

 

招待を受けたその日、彼女の家には続々と彼女が選んで招んだ生徒が集まってきた。そして彼女はまるでいつもやっていたように、生徒と酒盛りをはじめた。生徒は煙草も吸っている。

 

ぎょぎょぎょ!こんなのあり?

 

彼女は私が修道院出身の、くそ真面目で教育に情熱を持った、使命感病持ちの人間である事を知らない。自分の仲間だと思ってすごく安心している。彼女が招んだ私だから、集まった生徒も私を警戒しない。

 

私はしばらく考えた。彼女はともかく、生徒たちのある意味の信頼に対して、下手な教育論や道徳観を持ち出してしらけさせるわけには行かない。ひとまず見物しようと決心した。

 

出されたつまみだけをがつがつ食べ、お酒は最小限に押さえて、冗談を言いながら、その場の雰囲気を乱さない様に気配りをした。生徒たちはみなY子になついていた。自分が日ごろ抱えている問題、家庭の事、学校の事、先生たちの悪口、悩み恋愛失恋問題にいたるまで、くったくなくY子にはなしていた。

 

そこには私が知っている、授業中の無気力な彼らの姿は微塵も無かった。ただし私のクラスの生徒は一人も来ていなかった。しかし、私がもう扱いに困り果てていた高2の生徒が沢山来ていた。授業ではまったく死んでいるも同然だった彼らは、生き生きとしていて、饒舌だった。Y子の夫のサー助も加わり、彼らの人生の相談役になっていた。

 

私はこう言う世界を知らなかった。山の手の女子高生との付き合いは、学校で決められた規範や道徳の範囲を超える事が無かった。数人の生徒が私の家に来た事があるが、礼儀正しく世間的に立派な態度の申し分無くハイレベルの生徒たちだった。

 

彼女達には、酒やタバコに縁が無かった。

 

私が神憑り校長の逆鱗に触れて、あの学校を放逐されてから、迎えた29歳の誕生日に、教え子達がやってきた。29本のろうそくとケーキを持って、うれしかったけど照れていたそんな事が精一杯の彼女達とのふれあいの思い出だった。彼女達から自分たちの抱える個人的悩みなどを相談されたわけでは無かった。彼女達は私の授業が気に入ってくれ、ある種の親しみを覚えてくれただけだった。

 

学校に来ているY子は、まるで子供で、先生としてのマナーももちろん教育者に必要だと思われる立ち居振舞いも、言葉遣いもなっていなかった。「あのねえ、あたしのサー助がさあ」、といって自分の夫ののろけ話を職員室で始めるY子は、むしろ顰蹙をかっていた。

 

あいつ何しに学校に来ているんだ?と先生方は陰で彼女を批判していた。生徒たちに注意している彼女を見て、先生方は「なんだよ、あいつに教育の資格なんかあるのかい」と言っていた。

 

しかし、生徒達は、彼女を慕っていた。ここは生徒たちのオアシスなのかもしれない。と私はこの宴会の様子を見て思った。

 

この手の宴会が正しいか正しくないかの問題はさておいて、少なくとも私はここに集まる生徒たちの様子が授業中の生徒たちの様子と別人のように違うのはなぜかと言う課題を心に付きつけられた。 もう少し黙って付き合ってみようと私は思った。研究の価値ある課題だった。

 

(ここに記述している情景は昭和40年代の情景である。当然未成年の飲酒喫煙は禁止だったが、その当時、官憲は未成年の飲酒喫煙に関してほとんどタッチしなかった。)

 

「とうとう自ら不良教師になる 」

 

Y子とサー助の宴会に出て以来、生徒たちの私に対する目つきが変わってきた。挨拶の仕方まで変わってきた。親しげに、片手を挙げて、おう!みたいな事を言う。

 

ただし、其れを私は歓迎したわけではなかった。

 

私は「ございます」を接尾語として使うならわしのある学校で育った。直角に体を曲げてお辞儀をし、先生様の荷物を持ってさしあげ、対人関係ではやたらに低姿勢を徳目とするよう教育を受けた。私がその教育を全面的に受け入れたとは言わないが、周りに其れに敢えて逆らう人が少なかった。それがむしろマイノリティーであり、それ以外の世界があることを知ってはいたが、機会がなかった。

 

しかしあれ以来、生徒たちが私を人間として、仲間として受け入れ始めたことは理解できた。私がYとサー助の宴会に会を重ねるにつけ、彼らは私の周りにも集まってきた。

 

うわさを聞いて、まじめな子が多い自分のクラスの生徒も、Y子の家に集まってきた。彼らはすでに私の事をかなり分かっていて、Y子とも違うらしいし、規則一点張りの他の教師とも違うらしい事も見ぬいていた。だから、彼らは私に対して言葉を崩したりしなかったし、授業態度を変えたりもしない、常識的にしっかりした考えの持ち主であった。 朝の通勤時間彼らに会うとき、彼らは親しみを持っていたが、決して、Y子に対するみたいに、仲間どおしみたいな挨拶の仕方はしなかった。

 

或る時、その生徒たちが集まってきて、「今晩先生のうちに行ってもいい?」と聞いて来た。土曜日だった。「ああ、どうぞ」と答えた。ちょっとうれしかった。彼らが自分のクラスだけで集まりたがっている事、担任の私と歓談したがっていることに。

 

午後彼らはやってきた。私は食事は用意しておいたが酒類は用意しなかった。多分彼らは其れを知っていた。自分たちで酒を用意してきた。私は初めの1杯だけ飲んで、後は同じお猪口で水をがぶがぶ呑んでいたのだが、彼らはそれを知らず、私は酒豪だといううわさになった。私の家は森の中の1軒屋だったから、外には誰も分からなかった。庭で何か音がしたが、私はそのとき、気にもとめなかった。

 

彼らは、集まれば、かなり真面目な話しをしていた。学校の事、受験の事、哲学の事、宗教の事。不真面目な話も、Y子先生宅で話しているような話も、一切しなかった。礼儀もあれば一定のけじめも心得ていた。すごく楽しそうに彼らはわいわい騒ぎ、多くを話し、歌を歌い、そのまま首を並べて雑魚寝して、一晩泊まって帰っていった。

 

あれだけ生徒が集まれば、皆が沈黙しているわけが無い。そのうち学校内でも、いろいろなうわさが立った。うわさは尾びれはびれをつけて、私が生徒と乱交パーティーをやっていると言うすごいうわさになっていった。 

 

「 教育と自由、個性と流行」 1

 

教育とは野生を矯める事である。自由とは野生に帰ろうとする魂の叫びである。矯められる事を拒絶する所に個性が芽生える。個性を伸ばすための教育などと言う事は氷のてんぷらのごとく陳腐な言葉であり、文部省の掛け声など嘘八百もはなはだしい。個性を伸ばすためには矯める事をやめる以外に無いのだから。

 

昭和40年代の教育現場は苦しんでいた。安保闘争と学園闘争の終局点として、世間を震撼させた連合赤軍事件が決着を見た後、教育現場は戦後の教育の見直しを迫られた。あの事件はすべて政治の責任でなく、教育者の責任になったのである。

 

おりしも女子バレーボールの国際試合を勝利に導いた、かの有名な大松監督の、「なせばなる、俺について来い」と言う言葉が流行語になり、学校現場は生活指導教師に今まで場を与えられず小さくなっていた体育の教師が抜擢されるようになった。

 

職員会議があった。学校の規制を破った生徒をどのように指導するかと言う事が問題になっていた。そこにまったく論理は存在しなかった。多分愛も存在しなかった。体育の教師と言うものは私にはまったく理解できない「教育的配慮」と言うものを持っている。何かちょっとの欠点をあげつらっては、男子の頭を坊主にしたがるのも、女子の頭髪を何ら美的意識も無くじゃりじゃりと斬ってしまうのも、教育的配慮によってなされる事だった。

 

体罰は横行した。廊下で殴る蹴るの後、正座させておまけに両手を万歳の形で上に挙げさせたまま1時間でも放置されることがしばしば教育的配慮の元に正当化された。

 

当時女子の間にはやっていた、首にテープのようなものを巻くおしゃれの一種をしている生徒を見つけると、「お前犬か?」と言って体育の教師はテープをつかんで引き千切る。毎朝登校する男子のズボンのすそをまくって靴下の上の方にあるワンポイントといわれるしみのような模様を摘発しては、校則違反だ校則違反だと言って殴る蹴るの体罰を科した。

 

私は自分の子供時代から体育の教師は苦手だった。彼等はそろって暴力的で、論理的思考をせず、どんな暴力も自分は尊い任務を遂行中だと思っていた。

 

彼らは同輩に対しても、先輩に対しても異常に礼儀正しい。しかし後輩や自分の管轄下の生徒に対してはいつも野蛮で残酷だった。彼等に論理は通じない。論理の通じない彼等と話をしたくなかった。

 

私は自分の生徒を暴力教師から守るため、どうしようかと考えあぐねた。そして私は自ら生徒達を自分の家に招んだ。学校の規制と自分たちの個性について話し合おうと思ったのである。

 

彼等はやっぱりそのときもお酒を持参して来た。私は自分の徳利にお湯を注ぎ、其れを飲みながら彼等の話を聞いた。自分のペースで飲むのだ、お酌をされるのは断ると、私は彼等に宣言した。とにかく彼等の言い分を聞きたかった。

 

その結果、私は酒豪に輪をかけて、手酌でぐびぐび酒を飲んで、しかも飲んでも頭脳明晰でまったく酔わない怪傑先生だと言ううわさが広まった。

 

 

「教育と自由、個性と流行」 2

 

たわいの無い子供たちだった。

 

「髪の毛が伸びるとどうして不良と呼ばれるんですか」なんて言う、こっちだってわけ分からん事を話題にしては、私の当惑を面白がっていた。

 

「学校が規則と決めた事から生徒たちがはみ出す事が先生達は不安なのさ。」と私はまるで先生ではないかの様に言った。

 

ある年の入学試験の面接で、一人の男子受験生が薄くひげを伸ばしていた。其の事を、何かと規則にうるさい河野先生が、「なぜ髭をそらないのか」ととがめたことがあった。

 

その子は幼い顔をして、「やっと髭が生えてきてうれしいからどんな風になるか見たいので」と答えた。可愛いなと私は思ったが、その子は其れが原因で、「ふてぶてしい」とか言われて入学不許可となった。

 

体毛と言う自然な現象に規制を加えると言う事が教育に必要だと言う常識を私は持っていなかった。生徒達が頭髪の規制について問題にするので、「髪はともかく、髭はどうなの?」と聞いてみた。

 

「髭かあ」と彼らは自分の頬を撫ぜて言った。

「始めて伸びてきてうれしい気持ちわかるけど、やっぱり学校なら髭はまずいだろう。」

 

彼らのほうが常識を持っていた。

 

「じゃあ、髪の毛はなぜ伸ばしたがるの?」と私は聞いた。彼らは言う。

 

「制服を着ているんだから、人と違う事出きるの髪の毛だけだし、今若い人でこんな髪型している人居ないよ。学校は個性を伸ばすとか言って、まったく僕達の自由を奪っているじゃない。」

 

「う~ん。」と私は唸った。私は個性教育と言う言葉は「自主退学」と言う言葉と同じで欺瞞に過ぎない事を知っていた。

 

「個性ね。でもその流行の髪型にしたいというのなら其れもやっぱり没個性でしょ。長髪も茶パツもロングスカートもミニスカートも、ルーズソックスも半尻露出狂ズボンも、個性と言うなら其れははじめにやった一人の人のもので、其れを追いかけて自分も同じ姿にと言うときに、もう個性とは言えないよ。皆同じでなければ気が済まない、民族を挙げての全体主義的没個性を民族の個性とは言えるかもしれないけどね。」

 

私は職員会議で発言したある教師の言葉を思い出した。

 

「髪形を自由にしたら、生徒は全員モヒカンがりをするようになるから危ない。」

 

当時も今も、モヒカンがりにしている若者は1パーセントにも満たないだろうに、そう言うでたらめ発言がしゃあしゃあと真面目に出てくる職員会議だった。たがをはずしたら「全員」こうなると言う所が、頭から個性と言うものを知らない人間の考えだと言う事の証明になりそうな発言だった。

 

あの住職先生は言っていた。

 

「学校が規則にしたものは創立者の趣味でもあるんだ。ここに入ってきた以上、その趣味も受け入れなきゃいけないんだ。」

 

曽於の発言、可笑しかった。その「創立者」である、あの理事長の顔が浮かんだ。たまに職員会議に出てきて、緑色のネクタイをつけている先生を捕まえて、「緑のネクタイをする人ってホモが多いんですよ」などと教育とも、そのときの主題とも、まったく関係ないとんでもない発言をして帰っていく理事長を。

 

結局彼らは今の社会の中のパーセンテージが多い方向に流れたいのだなと私は思った。其れを彼らは学校が使う「個性」と言う言葉を使っていっているに過ぎない。其れを私は理論を駆使して納得させた。

 

其れから私は彼らに頼んだ。

 

「自分は30過ぎようと40になろうと女である。だから若いとはいえ、毎朝服装検査に名を借りて、男の子のズボンをまくって靴下のワンポイントを調べるような事はしたくない。外に見えないからやっているんだろうけど、どうせ外に見えないならワンポイントの無い靴下はいてくれ。其れがつまらない規則で、ワンポイントがあるということが深刻な罪でない事は私も分かっているけれど、分からない人が、そのために体罰を加えるなどということを避けたいから。」と。

 

「君達がそのくらいの妥協をしてくれるなら、その代わりその頭髪規制に付いての緩和の下地作りをしよう。」

 

私も日本人だった。私はそのとき、官も民も国を挙げてやっている談合を生徒相手にやっていた。其の後学校に戻った生徒たちは、生徒会を開き、髪型をある程度現代風に伸ばす事ができる様、学校側に規則の変更を申し入れた。

 

その他の細かい事は「俺達の担任の先生の立場を考えて違反をしないように気をつけようよ」と、彼らは妥協に転じるようクラスの意見をまとめた。

 

長くあほらしい職員会議の末、何と髪型のことは決定先送りとなり、「あのうるさい担任のクラス」、つまり私のクラスの生徒には手をつけないことが、先生たちの無言の了解事項になった(^^)。

 

先生の暴力行為は私があの、緑ネクタイホモ発言の理事長に再三訴えて改善を求め、これもごますり談合形式の裏の手口で、一時的に収まったかに見えた。